岐路に立つ擬人
目次
人は一貫して呪術の時代に生きている
人に擬する、名づける、呼び掛ける、話し掛ける
威を借りる
たま、かり、やど
宿る、宿す、込める
決める、決まる、決め手
為す、成る、生る
◆意味をなす、文をなす、形をなす
◆言葉の意味というまぼろし、言葉の実体というまぼろし
◆意味はまちまち
◆意味の生成を外部に委託する
擬人・呪術・委託
人ではないものになりたい人
代償の代償
人は一貫して呪術の時代に生きている
最近、AIや生成AIや、その生成したものに心や感情や魂があるとかないとかいう議論を見聞きしますが、あるに決まっています。そもそも自然にある森羅万象はもちろん(擬人のことです)、人が自分でつくった人形(ひとかた)や像や言の葉や文字(もんじ)に、心や魂を込めたり読みこんできた人類は、太古から現在に至るまで一貫して呪術の時代に生きているからです。
人から擬人と呪術を取ったら何が残るでしょうか。人知と人力を超えたものを想定して、それに声をかけて、すがる。これは人情であり人としての性(さが)です。
山川草木はもちろん、作物、家畜、ペット、人形、物語や小説や映画やアニメのキャラクターを相手に、さんざん話し掛けたり会話をしたり、その力を借りたり奪ったり、愛したり恋したり敬慕したり、癒やされ励まされ、勇気と知恵と知識をもらっておきながら、なんでロボットやAIや生成AIに対してだけ、こんなに及び腰なのでしょう。
それだけはなく、現在ネット上で飛びかっている(誰も飛びかっているところを見た人はいませんが)らしい文字・映像・音声に、人は心と感情と魂を込めているから、誰もがPCやスマホに見入っているわけです。見入るだけでなく、胸をときめかしたり、欲情したり、泣いたり、怒ったり、落ちこんだりしたりしているのです。これは見入られている、つまり魅入られているとしか考えられません。
そんなふうにどっぷり呪術に浸かって生きていながら、何をいまさら心がないだの、感情が感じられないだの、機微が理解できないだの、魂がないなんて言えるのでしょうか。
心も感情も魂も命も人が勝手に人以外のものに自分の都合で込めているのであって、森羅万象にも、人形にも像にも言の葉にも、デジタル化された情報にも、AIや生成AIやその産物にも、罪はないのです。
AIにだけこれだけ心と感情と魂を出し惜しみしているのは、憎いから怖いからビビっているからに他なりません。その手強さに気づいているからでしょうが、このダブルスタンダードというか二枚舌は、いかにも往生際が悪くみっともないと言うべきでしょう。
【※拙文「不思議なこと」に書下ろしで挿入した「人は一貫して呪術の時代に生きている」より】
人に擬する、名づける、呼び掛ける、話し掛ける
生きているか生きていないにかかわらず、人は自然界にあるものやいるものを擬人します。人になぞらえるとか、人を当てるとも言えるでしょう。なぜかは分りません。知っている人もいないでしょう。
ひとつ言えるのは、人になぞらえた結果として呼び掛けることです。おい、ねえねえ、という具合に声を掛ける。そのうちに名づけます。手なずけるために名づけるのです。
名づけて手なずけ、さらには飼いならそうという魂胆があるのでしょうが、なつくものや抵抗できないものばかりではないでしょう。言うことを聞かなかったり、さからったり、攻撃しているものもあるでしょ。
すべてがなれるわけではないし、ならせない、ならない。
為れない、馴れない、慣れない、狎れない。
成らない、生らない、不作・凶作、為らない、失敗、鳴らない、鳴ってくれない、ホトトギス。
均せない、平せない、耕せない、平地にできない。
人に擬す、人になぞらえる、人以外の生きていないものや生きているものに人を当てる
声を掛ける、名づける、話し掛ける、語り掛ける、騙り掛ける
人知や人力を超えた存在を想定して、声を掛ける、名づける、話し掛ける、語り掛ける、騙り掛ける。
人類の歴史では、やがて、以上の過程において、仲介者が出てきます。呪術の代理人(エージェント)や専門家(エキスパート、スペシャリスト、テクニシャン)があらわれて幅をきかせるようになるのです。現在も、うようよといます。
その話をしましょう。
威を借りる
人間は人間よりも、もっともっと偉い存在がいて、自分がその代理を務めたいという、願望=欲求=祈り=野望を持っているのではないでしょうか?
Aにはなれないから、Aの代わりを演じます。Aみたいな顔をしてみます。Aの仮面を被り、表情を真似て、時にはお化粧もし、かつらも付けたりもしてみます。
どうです、似合うでしょう? 様になるでしょう? だって、こんなふうに化ければ、○○様なんて呼ばれるんですもの。偉く見えるんですもの。いいじゃないの。
そんな具合に、偉く見えるから、崇め奉られる。ちやほやされる。甘やかされる。そして、ますます図に乗る。
どうして、こうなっちゃったんでしょう? 昔々と関係ありそうです。
たとえば、次のような具合です。
「どうか、雨が降って豊作になりますように」、「作物が駄目にならないように、大雨が止みますように」、「ニワトリとブタが増えますように」、「隣村の馬鹿どもが攻めてきませんように」、「今度の戦(いくさ)に勝てますように」、「あいつとの賭けに勝てますように」、「お父さんの怪我が早く治りますように」、「娘がいいところにお嫁に行けますように」、「亡くなった後に天国に行けますように」、「元気が出ますように」
というふうに庶民が願い、祈ります。すると、虎皮のパンツをはき、お化粧をするか仮面を被り、かつらをつけた代理人がしゃしゃり出て来て、えらそうに次のように言います。
「お任せあれ。任せとき。大丈夫。ところで、あれは、ちゃんと用意しているかな? この間は、ちょっと少なかったぞよ」
万が一、でまかせが当たらなかったり、何かとんでもないことが起きて、都合の悪くなった時には、代理人は即座に仮面を外し、お化粧を落とし、表情をしおらしくして、かつらも外して、「わたしは、単なる代理でございます」と言って、責任を転嫁すればいい。
または、「あんたの信心が足りんからじゃ」と、これまた責任を転嫁すればいい。
このように、「代理人=代行者」は、実に気楽でいい商売だわい。
これは便利。超便利。魔法みたいに便利。呪術みたいに便利。イッツ・ア・マジック。マジでマジック。マジで絶句。ヒューマニズムよりも、シャーマニズム。コミュニズムよりも、キャピタリズム。デモクラシーよりも、ビュロクラシー。
なんて、恥も外聞もなくおふざけをしてしまいましたが、「代理」とか「代理人」というのは、実はかなりシリアスで怖い問題なんです。だって、そういう仕組みや人たちによって世界は動かされているんですから。
嘘じゃありません。テレビのニュースや新聞をご覧になってください。代理、代理人、仮面、虎皮のパンツ、仮装、お化粧、かつら、作り顔、顔芸ばかりです。だまされないように、気を付けましょう。
とはいうものの、じつは本物や中身や真実や事実や現実なんてものがないのが、これまた困った問題なんです。でも、こういうややこしい話はやめておきます。
【※拙文「09.02.03 1カ月早い、ひな祭り」および「目の前に見えるものが、本当は「何か別のもの」が「化けている」のではないか、とも考えられるわけです。」より】
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哲学がしたい、哲学を庶民の手に――。そんな気持ちを、うつに苦しむ一人の素人がいだき、いわば憂さ晴らしのためにブログを始めた
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たま、かり、やど
たま、玉、珠、球。
たま、適、偶。
たま、魂、魄、霊。
上の文字列を眺めていると、「たま」や「たましい」は「宿る」や「うつる」と相性がいい気がします。「宿る」につられてか、「仮」や「借りる」という言葉とも親和性を感じるのは、「仮の宿」とか「宿を借りる」という言い回しからの連想でしょう。
たまたま、偶々、偶、適、会。
「たまたま」そう借りているだけというニュアンスは「仮」と重なりそうです。「仮」に偶然という意味がさらに重なります。
「たまたま」は「偶々」の他に「偶」だけ、あるいは「適」や「会」という表記もあるそうですが、つかわれている文章を見たことがありません。
「仮の宿」とか「宿を借りる」からは、「ヤドカリ」や「宿借り」という言葉とそのイメージ(絵)を連想しないではいられません。
人生や生きものの一生が旅に重なり、旅の途中で何度か仮の宿を借りるのかなあと感慨を覚えます。諸行無常とか万物流転なんて大げさなものを連想もします。
「たま」がどんな形をしているかは分りませんが、上の文字列にある玉、つまり球体を借りましょう。借りるのですから、あくまでも仮の姿です。角のない玉は始原を感じさせる形です。
球体であれば、その安定しない形から、ころころ転がって次の場や宿に移っていく予感をつねにはらませている気配があります。
文字列にある「霊」は球体であっても不思議はない気がします。見たことはありませんが火の玉や鬼火からの連想でしょう。
たま、かり、やど。
宿る、宿す、込める
たましいが仮に宿る。
「たましいが宿る」とよく言われます。森羅万象にたましいが宿ると想定し、呼び掛ける、つまり名づけててなずけようとするのは人の常套手段でなようです。
擬人、人に擬するわけです。擬人は人情であり、人の性(さが)や業(ぎょう)と言っていい気がします。
呼び掛けるがエスカレートすると話し掛ける、語り掛けるになります。呼び掛けるだけでなく、話し掛けているからには、その相手(生きたもの、生きていないものにかかわらず)に話が通じると見なしているはずです。
それが「たましい」でしょう。「たましい」が勝手に何か(とくに自然界にあるもの)に宿っていると人は想定している。この種の話はよく見聞きします。一方で、人が勝手に何かに宿したつもりでいる場合もありそうです。
たましいが宿る。
たましいがこもる。
たましいを宿す。
たましいを込める。
こうした言い回しを眺めていると、自然と人為の両方を感じます。
為せば成る。
為すは人為、一方の成るは自然、または人を超えた領域で起る。
「たましいが宿る」は自然にそうなっているか、または人が自分の都合で勝手に「たましいを宿す」とか「たましいを込める」という行為をした結果として、「たましいが宿る」や「たましいがこもる」になるというイメージです。
人に擬する、宿す、込める
宿る、こもる・籠もる・隠る
「たましいを宿す」は生きているかいないにかかわりなく、自然物に対して人が自分の都合で勝手におこなう気がします。一方の「たましいを込める」は、人が自分でつくったものを相手におこなうというのが私の印象です。
いずれにせよ、人が宿したり込めた結果として、「たましいが宿る・こもる」ようにイメージしています。
森羅万象にたましいが自然に宿るというのは、私にはぴんと来ません。体感したことがないからでしょう。
最近、AIや生成AIや、その生成したものに心や感情や魂があるとかないとかいう議論を見聞きしますが、あるに決まっています。そもそも自然にある森羅万象はもちろん(擬人のことです)、人が自分でつくった人形(ひとかた)や像や言の葉や文字(もんじ)に、心や魂を込めたり読みこんできた人類は、太古から現在に至るまで一貫して呪術の時代に生きているからです。
1)人がたましいを宿したり込める結果か、2)たましいが機械やAIに宿ったりこもるのか、3)言葉(文字や意味でもいいです)がたましいを機械やAIに宿したり込めるのか分りませんが(これは私のオブセッションです)、人が機械やAIに呼び掛けたり話し掛けたり対話をしたりするのは、人から見て機械やAIにたましいが宿っているからに他なりません。
いわゆるひとり言も、「何か」にとか「どこか」に、たましいを想定していそうです。
決める、決まる、決め手
「決める」は人のすることであり、「決まり」は人を超えたところで起きるもの。「当てる」は人のすることであり、「当たる」は起きるもの。「あらわす」は人のすることであり、「あらわれる」は「あらわれる」もの。
いや、それどころか、おそらく「当てる・当たる」や「つなげる・つながる」も「決める・決まる」も「あらわす・あらわれる」も、人を超えたところで起きるものであり、あらわれるもの。
(拙文「「何か」に「何か」を当ててみる」より)
以下に、何かが決まるときの決め手と思われるものを、思いつくままに列挙します。
気分、機嫌、気持ち、天気、陽気、気候、雰囲気、空気、気力、気質、気性、病気。力関係、権力、権威、武力、腕力、兵力。体、体力、体調、体感。人間関係、血縁、上下、階級、カースト、序列。声の大きさ、声の質、声の肌理・肌触り。流れ、雰囲気、「みんながやっているから」、「みんなが言っているから」、「何となく」、「え? 分かんない」。
約束、決まり、ルール、しきたり、掟、法、法則、法律。癖、口癖、筋、筋書き、ストーリー、物語、型、流儀、パターン、定型、紋切り型、決まり文句。説、伝説、神話、言い伝え。新旧、古い・新しい、伝統・改革、保守・革新、古典・新種。命令、指示、教え。忖度、迎合。衝動。
因縁、運命、宿命。論理。
(拙文「人が「決める」、「決まる」は「あらわれる」」より)
*
これからは、人が何かを決めるときの決め手として、生成AIが頼もしい相手となるでしょう。妄想ではなく、もうそうですね。
為す、成る、生る
「かた」が、「形(かたち)を為す」とすれば、それは人が為している。「形(かたち)が成る」とすれば、人の領域ではないところで、そう成っている。形を為す、形が成る。
そんな気がします。
こうなると、「生す、生る」が気になります。
形を生す、形が生る。
「生成」という漢語を連想しないではいられません。このところ、さかんに見聞きする言葉です。
*
生成り・きなり、手を加えてないこと。(広辞苑)
生成り・きなり、生地のままで、飾り気のないこと。(デジタル大辞泉)
生成り・なまなり、「生熟れ・なまなれ」に同じ、十分熟(または熟成)していないもの。未熟であること。十分にできあがっていないこと。(デジタル大辞泉)。
生なり(なまなり)からは、般若(はんにゃ)の面や鬼も連想しないではいられません。
なるほど。言えています。逆に言うと、まだまだ生るし成るということですね。伸びしろは無限ということでしょうか。
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。
*
何かに何かを当てる。何かに何かを当てることで、何かが形を成す、または何かが形に成る。
声としての言葉をもちいて、話をしたり、会話をしたりする。物語や詩歌をつくったり、物語や詩歌を繰りかえして口にしたりする。
文字をもちいて、メモ程度の文を書いたり、手紙を書いたりする。あるいは、物語や詩や散文を書いたりする。
現在であれば、電話やメールやツイートやチャットも話し言葉や書き言葉をもちいた「何かに何かを当てる」行為だと言えます。
たぶん、音楽や映像も「何かに何かを当てる」だという気がしますが、どうなのでしょう。
*
「何か」に言葉――声と文字に限定して、表情や身振りやしるしや映像や音楽は除きます――を当てることで、言葉という形での「何か」が「出る」のですが、形があるとは言うのものの、これだけ誤解や不通や行き違いが生じるのですから、「出た」言葉は発した本人をふくめて各人にとって異なって「あらわれている」としか考えられません。
形は「出る」けれど、各人にとっては異なって「あらわれる」。そんなふうに言えそうです。
この場合の「形」は、声と文字だけでなく、表情や身振りやしるしや映像や音楽においての「形」ととらえてもいいのではないでしょうか。そんな気がしてきました。
形が出る、形になる、形をなす、形があらわれる。
「形になる」と「形をなす」の「形」は、たとえ、なったり、なしたとしても、それが人に「あらわれる」時点で、その人において「変わる」し「転じる」と言えそうです。
人は機械ではないからそうなのでしょう。
変形、生成、変形生成、生成変形。
transformational generative。
*
逆に言うと、機械は「形になる」と「形をなす」を文字どおりにとらえるのかもしれません。形は機械に対して「あらわれる」なんてことはないという意味です。
まして、「なる」と「なす」とは相性が悪く、「あらわれる」と相性のいい「すがた・姿」は、機械には「あらわれる」ことは断じてないと思います。
生成――。この言葉はいかにも機械にふさわしい気がします。よく知らないのですけど。
ちゃんと動いているのか、ある程度動いているのか知りませんが、現に機械が動いているのですから、そうにちがいありません。
*
形になる、形をなす。
形があらわれる。
どうやら、人にあらわれて、機械にあらわれないものがありそうです。
【※拙文「人にあらわれて、機械にあらわれないもの」より】
◆意味をなす、文をなす、形をなす
人において意味をなす、意味がなる
人と機械において文(ふみ)をなす
機械は形をなす、人は形をなす、形は人に対してあらわれる
文字にかぎっての話ですが、文字の意味は人において「なす」ものであり、「なる」ものである気がします。文字からなる文(ふみ)は、人も「なす」し機械も「なす」でしょう。
文字は形でもありますが、機械は文字の形をなします。人も文字の形をなします。文字の形をなすと、文字からなる文(ふみ)をなすはほぼ同じだという気がします。
一方、人は文字からなる文(ふみ)と文字の形に意味を取ります(読み取ります)。その場合の文字(文と形)は人に対してあらわれていると考えられます。機械には文字はあらわれないという意味です。
「あらわれる」は意味をともなった形に起きる「ありよう(さま)」であり、人や人とは別の生きものにおいてだけ意味があると、私はイメージしています。
まぼろしが(は)あらわれる。
まぼろしとは形に意味を取る生きものにとっての実体である。
◆言葉の意味というまぼろし、言葉の実体というまぼろし
話を少しずらします。
「言葉の意味」というまぼろし――意味は見えないし聞こえないし「ない」のですからまぼろしに他なりません――をちょっとずらして、「言葉の実体」というまぼろしについて考えてみます。
言葉(音と文字:意味を除いた「形」としての音と文字)と実体(まぼろし:「形」に「意味」を取る生きものにとっての実体)とは関係がない。
そう言えそうです。
*
さらに話を少しずらします。
まず前提を確認します。
人はまず〇△Xという言葉――声・音と顔・字面、つまり形のことです――をつくり、次に「〇△Xとは何か?」――その意味(内容)を問うのです――とえんえんと思い悩む生き物である。これが前提です。
そもそも言葉に実体があるとは夢にも思っていない私ですが、実体をその言葉が指し示す事物くらいの意味で考えてみましょう。
名付ける、名指す、AをBと呼ぶーーこうした人間の習慣と実体(名付けられたもの、名指されたもの、呼ばれたもの)とは関係がない。そもそも実体という言葉に実体がないから。
そう言えそうです。
話を戻します。
◆意味はまちまち
意味は「ある」のではなく、「なす」(つくる)ものなのです。意味は「ない」から「なす」という意味です。
意味は、ないからなすとなる。
意味は、「無い」から「為す」と「成る・生る」。
誰が意味を「なす」(つくる)のかと言えば、個人であったり、特定の集団が「なす」(つくる)と考えられます。
しかも、それぞれが自分の勝手でまちまちにつくっているようです。
意味の意味はまちまちだという意味です。コンセンサスがないのです。辞書の語義は建前です。
辞書の語義どおりに話したり書いたりするほど、人は機械――機械はぶれないし疲れないし誤っても謝りません(ぶれたり疲れたり謝るようにプログラムすれば別ですけど)――ではありません。
◆意味の生成を外部に委託する
これからは、ぶれないし疲れないし誤っても謝らない機械やAIも意味を「なす・成す・生す・生成する」(つくる)にちがいありません。
正確に言うと、機械やAIは文字の形と文字からなる文をつくるのですが、人は形に意味を読み取りますから、またそのために機械やAIを利用しているのですから、「形をなす」業務を委託された機械やAIは「意味をなす」と言えます。人にとっては同義なのです。
人は「考える」や「決める」まで機械やAIに委託しはじめたようですから、機械やAIが人の代わりに意味を「なす」とも言えそうです。
人が考えたり決めるさいには、どの程度言葉を用いているかは不明ですが、機械やAIにおける、人の思考や決断に相当する作業は、人にとって「意味をなす」言葉の処理でなければならないからです。
作文はもちろんのこと、これからは思考と判断と決断をはじめ、意味の製造も外部に委託することになりそうです。そうなれば、人は晴れて心置きなく思考停止と判断停止に邁進することができるでしょう。
擬人・呪術・委託
擬人と呪術は、人知と人力を超えたものを想定して、それに声をかけて、すがる行為だと考えられます。
海、山、川、草、木、石はもちろん、作物、家畜、ペット、人形、物語や小説や映画やアニメのキャラクターを相手に、太古から人は話し掛けたり会話をしてきました。
相手の力を借りたり奪ったり、愛したり恋したり敬慕したり、癒やされ励まされ、勇気と知恵と知識をもらってきたのです。
そうした行為をしてきたのは、人が相手にたましいを込め宿してきたからに他なりません。
人がそう為したから、そう成ったのです。
決める・決まる、つなげる・つながる、当てる・当たる、起こす・起る、あらわす・あらわれる――これらは(人が)「なす・為す」と(人為を超えて)「なる・成る・生る」の変奏(バリエーション)に感じられます。
*
現在着実に増えつつあるもの、それは文字だと思います。人はありとあらゆるものを文字にして複製し拡散し保存しています。音声や映像も複製され拡散され保存されていますが、文字は別格なのです。
聖典、経典、法典、辞典、百科事典、契約書、誓約書、規約、約款、約束、条約、公式、法則では文字が中心的な役割を果たしています。人は文字を崇めてその前にひれ伏していることが分ると思います。
その文字からなる文を「なす・成す・生す・生成する」機械とAIがあらわれました。とりわけ生成AIのあらわれ方が気になります。
生成AIとこれまで人がたましいを込めたり宿してきた相手との決定的な違いは、文をなすことでしょう。人形(ひとかた)やキャラクター(物語、小説、映画、アニメ)では相手が話し掛けてくることはありませんでした。人が相手の言葉を想像していただけです。
生成り・なまなり、「生熟れ・なまなれ」に同じ、十分熟(または熟成)していないもの。未熟であること。十分にできあがっていないこと。(デジタル大辞泉)。
しかも、文を生成(せいせい)するAIは生成り(なまなり)であり、伸びしろが無限なのです。それだけでなく、ぶれないし疲れないし誤っても謝りません。ぶれたり疲れたり謝るようにプログラムすれば別ですけど、弱いロボットがつくられるくらいですから、より人間っぽい生成AIの伸びしろもまた無限でしょう。
*
擬人、人に擬する、人になぞらえる、人を当てる、人に似せる、人をなぞる、人に当てる、人に似る、人間っぽく振る舞う、人らしさを学習する、人間もどきを演じる、擬人の代理をする、人を装う、人になりすます、そのうち人になりきる。
擬、疑、議、偽、欺、戯。
擬人の達人、擬人の代理人があらわれたのです。機械ですけど。
人類は擬人のお株を奪われつつあるのです。擬人という人類のお家芸を死守しなければならないのですが、なかなか妙案が浮かばない。このままでは、軒を貸して母屋を取られる事態になりかねない。
それを薄々感じはじめてしぶしぶ認めだした人類は、いまのところ妬み忌み嫌い憎み憤り怯える狼狽える馬鹿にする威張る拗ねるというきわめて人間的で人道的な(同族に対するのとそっくりな)リアクションに甘んじています。手をこまねいているのです。
擬人と呪術は岐路に立っているのです。
人ではないものが人に擬して擬人をする。このギャグの観客が人だけであることを人の端くれとして願わずにはいられません。
*
文を生成し(人にとっては意味も生成することを意味します)、思考と判断と決断を代行し、生成り(伸びしろが無限)でもあるAIを相手に、擬人と呪術をつづけていていいのでしょうか。
AI付きのロボットや、AIや、生成AIに対してだけ、人がこんなに及び腰なのは、事の重大さにおそらく本能的に気づいているからかもしれません。それとも、なるべくしてそうなっているのでしょうか。
*
文を生成するAIはじゅうぶんに驚異であり脅威でもありますが、その裏で増えつづけている文字、さらに言うならその裏で増えつづけている意味が、個人的には気になってなりません。これは私のオブセッションなのです。
オブセッションが高じて、増えつつある文字と意味は殖えつつあると感じられるほどです。
ふえる、増える、殖える、増殖する、繁殖する
*
現在ネット上で飛びかっているらしい文字・映像・音声に、人は心と感情と魂を込めているから、誰もがPCやスマホに見入っています。見入るだけでなく、胸をときめかしたり、欲情したり、泣いたり、怒ったり、落ちこんだりしたりしているのです。これは見入られている、つまり魅入られているとしか考えられません。
見入る、見入られる、魅入られる
ミイラ取りがミイラになる
一貫して擬人と呪術に浸かって生きていなるのですから、人はAIが生成した文や音声や映像に、心や感情や命を感じています。だから、嫉妬し憎み嫌悪し忌み嫌っているのです。
人は加害に疎く被害には異常に敏感です。他の生きものとの付き合いを振り返ればよく分ります。自分のことを棚に上げるのです。ダブルスタンダード、二枚舌。
自分の都合で勝手に込めて宿しておいて、罪を相手に着せる。これが人の常套手段ですが、この生成する生成りAIにはその従来の方法で太刀打ちできるのでしょうか。
人ではないものになりたい人
太古から人ではないものを人に擬してきた人は、それと並行して、人ではないものになりたいという潜在的な願望とオブセッションをいだいてきたようですが、いまはその欲求が満たされるのでないかというリアルな感覚を持ちはじめたようです。
「人ではないものになりたい人」の「人ではないもの」とは、正確には「人ではないけど人っぽい人」とか「自分ではないけど自分っぽい自分」と言うべきでしょう。別物とか別人であってはこまるわけです。人であることと自分であることは死守したいのです。欲深くて贅沢な願望だと言わざるをえません。
要するに、自分のまま――ひょっとするとたましいかもしれません、たましいが宿を借りるのです、たぶん転々と――で生きのびたいのです。不老と不死を望んでいるのです。
人工〇〇になりたい――。
人工〇〇がほしい。人工〇〇を自分の一部にしたい。
代償の代償
そもそも人は矛盾することをしています。
厚いものの代わりに薄いもので済ます。
深いものの代わりに浅いもので済ます。
太いものの代わりに細いもので済ます。
大きいもののかわりに小さいもので済ます。
重いものの代わりに軽いもので済ます。
長いものの代わりに短いもので済ます。
遠いものの代わりに近いもので済ます。
人間の代わりに人間でないもので済ます。
人間でないものに代わりに人間のようなもので済ます。
本物(実物)の代わりに、本物感、本物っぽさ、本物のようなもので済ます。
起源の代わりに、起源感、起源っぽさ、起源のようなもので済ます。
「移す・移る」(移動する・させる)の代わりに、「写す・写る・映す・映る」で済ます。
巻物、本、レコード、カセットテープ、映画、ビデオテープ、蚊取り線香、トイレットペーパー。
絵、遠近法、地図、世界地図、地球儀、歴史、年表、神話、説話、百科事典、言葉(音、文字、表情、身振り、しるし)、放送、報道、写真、レントゲン、顕微鏡、望遠鏡、電話、電報、放送、孫の手、糸電話、人生ゲーム、人形、キャラクター、小説、演劇、漫画、アニメ、パソコン、スマホ、ロボット、仮想現実、人工知能、生成AI、MRI、CT、遠隔操作、遠隔医療。
Aの代わりにAとは別のもので済ませる。
Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでする。
遠くを近くする。
遠くを知覚する。
やっているじゃありませんか。要するに、Aの代わりにAとは別のもので済ませて澄ましている。しらっと澄ました顔をしてやっているのです。知覚と錯覚をうまく利用しているわけです。
(拙文「文字や文章や書物を眺める」より)
*
仕方がないから、しれっとAの代わりにAとは別のもので済ませて、澄ましている。こういうのを代償行動とも言うそうです。澄ます、つまり心の平静を取りもどしたり保つことが目的だとも言われています。
諸説はあるのでしょうが、自分を観察していると、この説にはなるほどと納得してしまう自分がいます。
あるものの代わりに別物を当てる、用いる。代償には代償があるのが普通なようです。混同と代理の主化(あるじか)のことです。
両者を混同する、同じだと思いこむ、違うと知っても都合よく忘れる、両者が別物だと思いだしても否定する。
それはそうです。上で並べた文明の利器の数々を見れば、その恩恵に浴している人類が、両者は別物だなんて「屁理屈」に耳を傾けるわけがありません。
代償の代償のもう一つである、代理の主化(あるじか)とは、「Aの代わりにAとは別のもので済ませる」において、「Aとは別のもの」が代理や代用物や代表であるという枠を超えて、Aを従者にすることです。
分りやすい例を挙げれば、言葉や数字がひとり歩きしたり目的化して、それを使う側の人間を振りまわす状況です。心当たりがありませんか。言葉や数字に踊らされ、こき使われるのです。
あるいは、人の代わりにいろいろやってくれる道具が人をこき使う、たとえばいまならスマホを思いだすと分りやすいかもしれません。
本末転倒というやつです。
もっと深刻な例があります。
人びとの代わりであるはずの代表が、それを選んだ人びとよりも、ずっといい暮らしをしているとか、こき使うとか、さらには戦争に駆りだすというきわめて切実な問題が、この国でも、世界のあちこちでも起きています。
それが「民主主義」と呼ばれている制度の内実なのであり、「代議制度」と呼ばれている仕組みの実態なのです。
さきほと「人に擬する、名づける、呼び掛ける、話し掛ける」という大見出しの章で次のように述べましたが、呪術の代理人による被害と弊害は甚大で、世界的な規模での問題になっています。
人類の歴史では、やがて、以上の過程において、仲介者が出てきます。呪術の代理人(エージェント)や専門家(エキスパート、スペシャリスト、テクニシャン)があらわれて幅をきかせるようになるのです。
なにしろげんに、そのために戦争が起きているのですから。たった一人や少数の人たち(選挙によって選ばれた国民の代理人とか代表のことです)の言葉の辻褄合わせに、その国の国民だけでなく世界中が付き合わされているのです。
「黒いカラスは白いサギだ」――「御意」「その通りでございます」「異議なし」「至言だわ」
*
別物万歳、錯覚上等、「別物ですけど、何か?」
そういう気持は人類の端くれとしてよく分ります。
別物なのに同じものだと混同して、これだけうまく行っているのですから、両者は別物だなんて意見(感想・印象)を無視して当然です。
でも、代償は大きそうです。自らの加害には甘く被害には厳しいだけでなく、都合の悪いことは忘れるし思いだしても否定する、自分と身内だけがよければいいと考える、そうした強みが人類にはあります。人類の端くれとして、そんな強みを頼もしく思っている自分がいます。
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人間の代わりに人間でないもので済ます。
人間でないものに代わりに人間のようなもので済ます。
さきほど上で並べた文字列の中で、上の二つが気になってなりません。上はさんざんやってきましたが、下は人類の歴史ではごく最近の代償行為だからです。
しかも相手は伸びしろが無限ですから、普通の個人の寿命を超えての話です。ということは、その人の孫(孫がいなければそれに相当する世代)やひ孫やその孫やひ孫の話になっていきます。
神のみぞ知る。
例の「それ(IT・Es)」のみぞ知る。
でしょうか。なにしろ伸びしろが無限ですから、人が壊さないかぎり、ずっと生きていそうです。
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。