「似ている」だけの世界
目次
「似ている」の世界の住人
「何かが」と「何かに」がない「似ている」
「似ている」のない世界
「似ている」の世界の住人
人は「似ている」の世界に住んでいるようです。動植物の名前を思いうかべると、その根っこに「似ている」がある気がします。
まるであだ名のようなのです。つい笑ってしまうとか、ずいぶんひどい名前だなあ、失礼だなあと思うこともあります。悪意すら感じられるネーミングもあります。
生き物だけではなさそうです。山、川、池、岩、月の模様や雲の様子や星座までに、あだ名みたいな名前がついています。
生きていない物を、生きている物の名前にちなんで名づける。逆に、生き物に生きていない物の名前をかぶせて名づける場合もあります。
森羅万象に「似ている」を基本とした名前を付けることがある。やっぱり、人は「似ている」の世界に住んでいるようです。
「何かが」と「何かに」がない「似ている」
何かが何かに似ている。
これは、何かに何かを見ることですが、「何かが」と「何かに」がない「似ている」もある気がします。
言葉を離れるとか、言葉が意識されない状態です。もっと詳しく言うと、心が言葉と事物を離れてしまうのです。
ぼーっとしている状態です。それでいて意識はあります。ただ言葉が浮かんでいるわけではない。あれはあれだ、これはこれだと物や事をはっきりと意識しているわけでもない。見えるけど凝視や注視しているわけではない。
こう言うと、なんだか危うい精神状態ではないかと思えますが、これが人にとっては自然体というか普通なのではないでしょうか。日常生活でよくある心もちなのです。
しょっちゅう言葉を意識していたり、言葉を意識しなくても、つねに「あれ」は「あれ」だ、うんうん、OK、「これ」は「これ」だ、そうそう、大丈夫大丈夫なんて確認していたら、疲れませんか? 人は無駄に疲れないようにできている気がします。
うまく「スリープ」「待機中」の部分を脳につくっているのではないでしょうか。部分的に、です。どこかは、しゃきっとしているのです。
たぶん意識はまだら状で、まばらな濃淡があるのだろうとイメージしています。その濃淡は時によって移り変わる気がします。
「似ている」のない世界
「似ている」は人の気持ちを静めます。何だか分かんないけど何となく「似ている」。この「似ている」が安心感を与えてくれるのです。
「似ている」は懐かしい気持ちでもあります。まだ言葉も知らず、事物という観念も知らなかった赤ちゃんだったころに、似ているものを目で追い、目でなぞっていたのがずっと記憶に残っているのかもしれません。
とはいえ、赤ちゃんを卒業した人なんていないのです。誰もが赤ちゃんの状態を死ぬまで大切に持っている気がします。
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「似ている」のない世界を想像してみましょう。何一つ、見たこともない気がする世界です。言葉も浮かびません。形も姿も模様も景色も、統一感のないばらばらのものとして目に映るにちがいありません。
これまでのどの記憶にもない、見慣れないものだらけの世界にいきなり放りこまれた感じ。「何だ、あれば、何だ、これは」だらけで、それがずっと続くのです。
「ここは、どこなんだ?」でしょうね。いや、そう思う余裕もないかもしれません。きっと緊張の連続で疲れるでしょう。
そんな世界にいたら、心が壊れるにちがいありません。体も持たないはずです。想像しただけで全身に汗が出てきました。
私は「似ている」に囲まれているほうが安心します。いろんな名前に囲まれている、いまここが楽しいです。そんなふうにできているのしょう。