人工〇〇になりたい
目次
お化粧
象徴的儀式
自分と鏡の中の似姿
似姿、写し
フィクション
人工、人造
人形
身体
逸脱、倒錯
二人になる
なりきる、なる
お化粧
私は経験はないのですが、鏡の前で化粧をするさまを思いうかべてみます。鏡の中にある像を見ながら、肉眼では見えない自分の顔を手探りでいじっていくさまを思いえがいてみます。
目の前にあるのは似姿であるはずなのに、本当に似ているのかは不明。似ていると言われているものを手探りでいじっていく。いじっているのだから、目の前の姿は変わりつつあるはず。直接見ることができない自分も変わりつつあるはず。
自分の似姿を見ながら自分の顔をいじっているわけですが、その作業はあくまでも手探りでしかない気がします。手が届くほど近くに見えていながら、遠隔操作をしているようなもどかしさを覚えるのではないでしょうか。
お化粧をした経験がないのに、あれこれ言ってごめんなさい。
象徴的儀式
じっさい、そうなのでしょう。
遠隔操作のことです。肉眼で見ることできない自分の似姿を目の前にして、手探りで顔をいじってお化粧をしているのですから。
知覚機能という「代わりのもの」を頼りに、世界と森羅万象を相手にする。言葉という「代わりのもの」をもちいて、世界と森羅万象を相手にする。
いずれも、遠隔操作です。もどかしいし、ままならない遠隔操作――人の思いどおりにならないのです。長靴の上から痒いところを掻いているような、または孫の手で背中を掻いているのと同じく隔靴掻痒の遠隔操作だと言えるでしょう。
毎日鏡を覗くという、あるいは毎日鏡に向かってお化粧もするという儀式に似たいとなみが、人の表象行動と言語活動の象徴的な行為に見えてなりません。
いわば表象の表象であり、象徴の象徴ですが、やはり鏡をのぞき見る人のいとなみと重なります。人のやっていることが、そもそも同語反復的なのです。人はつねに鏡――現実も思いも言葉も鏡です――を見ているから当然なのでしょうが。
自分と鏡の中の似姿
自分と鏡に映る似姿は「似ている」はずです。同一という意味での同じではありません。なにしろ映っている影であり像なのですから。
でも、同じだったら。そう考えるのが人だと思います。私だってしょっちゅうそう思います。
鏡の中に入りたい。その中の自分に会いたい。触ってみたい。そう考えたことがない人を考えるのは難しい気がします。
*
人は自分を肉眼で見たことがないため、自分と鏡の中の似姿が「似ている」と知識として学んで知っているだけで、体感しているわけではありません。
人は二人ではなく一人だからです。自分に会った人はいないでしょう。誰にとっても自分は見知らぬ人なのです。
自分が二人いれば、目が二組(二対)あることになり、それぞれが一方の自分を肉眼で見ることができるし、自分に会えるはずです。
でも、じっさいには自分は一人しかいません。
その意味で、自分と鏡の中の似姿が「似ている」というのは外にある外なのです。自分では確かめられないという意味です。
他人に教えてもらう、または器具や器械や機械に教えてもらうしかないとも言えます。
*
目の前にある「これ」と、少し離れたところに見える「あれ」が似ている――というのとは、似ているけど異なるのです。
人は「似ている」が基本である印象の世界に住んでいると私は思うのですけど、自分のことになると、人は「似ている」が確認できない事態に放りこまれているようです。
自分の目で自分が見えないという枠から出られないのです。自分が二人になるしか、この枠から出る道はなさそうです。
似姿、写し
とはいうものの、自分と鏡に映る似姿は「似ている」はずです。これを疑って生きていくのはつらいにちがいありません。お化粧をするのにも、さぞかし苦労するでしょう。
自分が鏡の中の似姿と「似ている」のを確かめる方法はあるのでしょうか。
鏡の像という鏡から離れればすぐに消えてしまう、頼りないものに頼るのではなく、カメラという器具というか器械の手を借りて確かめる方法があります。
とはいうものの、写真や動画という写しを見たところで、やっぱり自分を直接に見たことがないという枠の中にいる自分を感じて、がっくりするしかありません。
*
見たことも会ったこともない自分と、写真や動画に映っている自分が似ているのか――同じ、つまり同一でないことは確かですけど――確認しようがないのです。
こうなったら、他者しかありません。自分で確かめられないのであれば、他人に頼りましょう。他人に教えてもらうのです。自分一人で、くよくようじうじしているからいけない。
「似ているよ」、「そっくりだってば」、「だいじょうぶ、安心して」、「私が保証するから、とにかく落ち着いてよ」、「てか、夜とかちゃんと眠れているの?」
他者に請けあってもらっても、それが似ているという保証にはなりません。なぜなら、それは言葉でしかないからです。
口約束と同じでぜんぜん当てにならないのです。語るは騙るという語るに落ちます。他人の口にした言葉は信じるしかない。嘘だったら、それまで、ということになります。
*
そんなに面倒な話だったら、写真や動画に映っている自分(写し)も、鏡の中の自分の似姿(写し)も、自分に「似ている」ことにしよう。「似ている」かどうかなんていうふうに悩まないでおこう。
そう考えるのがいちばんです。というか、みんながそうやって妥協して生きているのです。いや、妥協だと考える人なんていないでしょう。
写しを見ても、他人の言葉で教えてもらっても、自分を直接に見たことがないという枠から逃れそうにはありません。
やっぱり自分が二人になるしか、枠から出る道はなさそうです。
フィクション
小説は世界の鏡だとか小説は世界の写しだという言い回しがあります。
私は小説や物語や童話や説話の登場人物(人間とは限りません、人間以外の生きものや無生物も登場します)のようになりたいと思ったことがあります。数えきれないほどありました。
というか、フィクションに登場する人物や擬人化された生きものや無生物を受け入れて、その存在になりきらないとフィクションは楽しめないのです。
映画やテレビドラマやお芝居でも、そうした経験を何度もしてきましたが、小説や説話は文字や音声ですから、言葉だけを見たり読んで、そこに出てくる人物や生きものになりきったり、憧れるというのは、よく考えると不思議な話です。
なりたいと思う、なりきる、なった気持ちになれる――それが言葉の力だ。そう言われると頷いてしまう一方で、そうかなあと首を傾げる自分を感じます。
なんて言いながら、やっぱり言葉の力は想像以上にすごいという気持ちに傾いてきました。小説や物語を読んでいるさなかには、登場人物になりきる、その人物になった気持ちになれるのですから。じっさい、そういう気持ちになっているじゃありませんか。
これだけで十分ではないでしょうか。
人工、人造
鏡、似姿、写しといえば、ロボットと人工知能を連想します。ロボットはかつて人造人間と翻訳されたことがあるそうです。
人が人に似たものをつくる、作る、造る、創る。こうやって漢字を眺めていると神を感じてしまいます。天地創造の神です。
きっと人は神になりたいのでしょう。もうなったつもりでいるようにも、見えます。妄想? もうそうです。
*
さらに言うなら、人は人工〇〇になりたいのではないでしょうか。
人工〇〇は人がいわば「神」としてつくったものなのに、人はその自分のつくったものになりたいのではないかと私は最近よく思います。
人形
人形のようになりたい。
この気持ちは分かる気がします。可愛い人形、綺麗な人形、美しい人形、格好いい人形、妖艶な人形――これらは、そのようにつくられているようです。
なんらかの目的や意図なしに、人は人のようなものをつくるでしょうか。
人間――人類でもホモ・サピエンスでもヒトでもいいです――は自分たちのつくったものになりたいのではないでしょうか。
最初はそんなつもりはなくて、ただ自分たちに似たものをつくって楽しんでいたのでしょうが、そのうち、つくったものに憧れをいだくようになったという意味です。
あまりにもうまく出来すぎたからかもしれません。つくってから、二度見してしまったのです。
あら、可愛い、格好いい、美しい、綺麗。
これだけではなく、すごい、めっちゃ速い、とてつもなく頭がいい、ぜったいに失敗しないなんて尊敬したくなる
ぜんぜんぶれない、誤っても謝らない、あやめてもあやまらない、エラーを自分で修正している、えっ勝手に学習するの?
疲れを知らないなんてすごすぎます、壊れたら部品を取り替えるだけでいい、要するに年を取らないし死なないってこと?
こうなるのを薄々感じていた。無意識のうちに、自らこういう事態を招いたという気もします。たぶん機が熟したのでしょう。
いまは神への遠慮も忖度もない時代です。もはや歯止めはないかのようです。
身体
人工〇〇になりたい。〇〇に入るのは知能だけではありません。人に備わっているあらゆるものが入りそうです。
人工〇〇がほしい。人工〇〇を自分の一部にしたい。眼鏡、コンタクトレンズ、補聴器、衣服(皮膚の代わりです)、靴、帽子、臓器、血液、リンパ液、足、手、腕、指、皮膚・肌、毛だけではありません。
記憶、現実、思い、意識、知能もそうでしょう。仮想現実(VR)とか拡張現実(AR)なんて、まさにそうではないでしょうか。このところ――このほんの数年で――そうした言葉があちこちで書かれたり口にされるようになりました。
エスカレートしているようです。
逸脱、倒錯
人が人のつくったもの(具象であり物)、つまり人工〇〇や人造〇〇になりたいと願う。あるいは、人が人の思いえがいたものや想定したもの(抽象であり幻)、たとえば知識や体系や情報に憧れる。
こうした欲求は逸脱とか倒錯と言ってもかまわない気がします。
これらの言葉をつかうのは、わが子を二度見したり、それだけにとどまらずに、じとっとした熱い視線を送り、その挙げ句には合体を望む行為と重なって見えるからに他なりません。
どこかエロチックなのです。しかも不自然と言うか、転倒しているのです。
私は究極の美を具現した人形になりたい。私はぜったいにぶれない論理になりたい。私はぜったいに誤らず謝らない人工知能になりたい。
私は排泄をはじめとする生理現象や老化もない仮想現実の中の住人になりたい。私はゲームの中で生きたい。私はゲームそのものになりたい。
私は美そのものになりたい。私は詩になりたい。私は映画の世界の住人になりたい。私は映画の中に生きたい。
私は小説の登場人物になりたい。私はボヴァリー夫人になりたい。私はドン・キホーテになりたい。
最後の小説の例はもちろん皮肉であり冗談ですが――とはいえ虚構と幻想と現実を混同した登場人物になりたい人(既にそうであるにもかかわらずなんて辛辣なことは言いませんけど)が皆無とは言えませんけど――、以上挙げた種々の例を逸脱と倒錯と言わずに何と言えばいいのでしょう。
いやいや、そもそも人は逸脱して倒錯した生きものである。それは、他の生きものたちを見れば一目瞭然――パンツをはいてマスクをつけた生きものが他にいるだろうか――のことだ。
というか、逸脱と倒錯こそが人と他の生きものとを分かつ最大の相違であり、そのおかげで人はこの星でこれまでになれたのだ。したがって、逸脱と倒錯は人にとって当然なのであり、かつ自然なのである――。
こうした意見もありそうですね。
二人になる
人工〇〇になりたい――。
この彼岸への悲願は、「二人になりたい」ではないでしょうか。
分身という言葉をつかってもいいです。変身でもいいでしょう。でも、自分なのです。自分でないといけないのです。だから、二人になっても自分でなければなりません。
誰かに乗っ取られたら、自分でなくなります。「自分であること」は死守しなければならないのです。
*
自分のことになると、人は「似ている」が確認できない事態に放りこまれます。自分の目で自分が見えないという枠から出られないのです。自分が二人になるしか、枠から出る道はなさそうです。
ところで、どうして私が「二人になる」にこだわるのかというと、人は思いの世界で常に「自分を見ている」からであり、そのときの人は意識の中で二人になっていると考えているからなのです。
夢と同じです。夢の中で人は自分の出る夢をもう一人の自分の視点から見ている(つまり「二人になっている」)気がします。夢と、夢うつつと、うつつの思いは、緩やかにつながっている、グラデーション状に連続している。そんなふうに感じられます。
とはいうものの、あくまでも以上は思いの話であり、現実には人は「一人である」という枠の中にいるわけです。思いの中では自由に出ていながら、現実の中では決して出ることのできない枠であるからこそ、こだわっているとも言えそうです。
「二人になる」と「二人である」は、私にとってオブセッションなのです。目下のマイブームとも言えます。
*
人形になりたい。
人間(人類でもいいです)は自分たちのつくったものになりたいのではないか。最初はそんな気はなくて、ただ自分たちに似たものをつくって楽しんでいたのでしょうが、そのうち、つくったものに憧れをいだくようになったという意味です。
人形、登場人物、キャラクター、フィクション上の人物――人物と書きましたが人間であるとは限りません――を相手にするのは小さいころからやってきたことです。
人形、ひとがたを相手にするときには、人は必ず相手の名前を呼びます。そして言葉を掛けるのです。これは「ふたりになる」という意味です。
*
人工〇〇がほしい。人工〇〇を自分の一部にしたい。眼鏡、コンタクトレンズ、補聴器、衣服(皮膚の代わりです)、靴、帽子、臓器、血液、リンパ液、足、手、腕、指、皮膚・肌、毛だけではありません。
これが叶えば、老化も病気もなくなるのでしょうか。
それにしても、しんどそうですね。面倒くさそうでもあります。何度手術をすればいいのか。体が持ちませんよ。命を延ばすために命を縮めるに決まっています。
それどころか、メンタルをやられそう。人はそんなしんどいことに耐えられない気がします。
それにたいそうなお金もかかりそうだし。だいいち、いますぐには無理でしょう。
VRゴーグルを最期まで二十四時間装着しつづけるとか、不老や不死を夢見るのもいいでしょうが、私はいつか来るものを受け入れようと思っています。
なりきる、なる
やっぱり言葉の力は想像以上にすごいという気持ちに傾いてきました。小説や物語のことです。
読むことで登場人物になりきる、その人になった気持ちになれるのですから。じっさい、そういう気持ちになっているじゃありませんか。
ままならなくて面倒くさい現実なんて二の次です。ねえ、ボヴァリーの奥さん。ねえ、ドン・キホーテさん。
私は小説や物語や童話や説話の登場人物(人間とは限りません、人間以外の生きものや無生物も登場します)のようになりたいと思ったことがあります。数えきれないほどありました。
というか、フィクションに登場する人物や擬人化された生きものや無生物を受け入れて、その存在になりきらないとフィクションは楽しめないのです。
なりきっているさなかには「なる」を体感している。それが言葉の力です。仮想現実どころではない臨場感を人は生まれながらに身につけているのです。
これは人がつくったものではない気がします。人工○○とか仮想現実なんて要りません。
これだけで十分ではないでしょうか。二人どころか、何人にでもなれる、なりきれる能力が誰にでもあるのです。
人の身のほどに合った贅沢だとは言いませんが、言葉ってすごいです。