心が壊れないために何かに何かを見てしまう
瞳と鏡で私が連想するのは、膜と面です。
網膜、鏡面。瞳や鏡を覗きこんだとき、見える姿は、膜や面に映った像・影なのでしょう。
薄い膜と薄い面に映っているのですから、姿や像や影も薄いはずです。それなのに、奥行きや深さや遠さや隔たりを感じるのは、こしらえているからではないでしょうか。
(拙文「鏡「面」画「面」顔「面」」より)
目次
目がドラマや物語の芽を生む
大きいと小さいがドラマや物語を語りはじめる
平面上で、奥深さ、深さ、背後、背景というドラマと物語が浮かぶ
思わず「深い」とか「奥行きが感じられる」と言ってしまう
何かに何かを見て、気持ちを静める
目がドラマや物語の芽を生む
何かに何かを見る――。前者の「何か」と後者の「何か」は違います。こうなるのには何か理由があるのではないでしょうか。
壁の模様でも、天井の染みでも、空の雲でもかまいません。人は何かに何かを見ます。見えるというほうが適切かもしれません。見えてしまうのです。いや、むしろ「現れる」というべきでしょうか。
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上の二点を見て顔を見てしまう人もいるでしょう。そうでない人もいるでしょう。「二、2、Ⅱ」という数(すう・かず)を思いうかべる人もいるでしょう。人それぞれです。
もし、二点が目に見えて、そこから目が見えることから顔を見てしまうとすれば、誰かに似ているとか、あるキャラクターに似ているとか、ある人形に似ているという具合に、イメージが進んだり増えたりしそうです。
連想した顔が記憶を呼びさましたり、その顔がなんらかの光景へと発展することもありそうです。
連想が連想を呼ぶ。連なる。移り変わる。動きが生まれる。関係性が生じる。
ドラマや物語の芽が生まれる。目が芽を生む。そんな気がします。
大きいと小さいがドラマや物語を語りはじめる
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今度は黒い点が並んでいます。大きさの違いを見て、大小をイメージする人がいるかもしれません。大きい、小さい、ですね。
重い、軽い。親と子。私とあなた。私とお母さん。私とあの人。男と女。おとなとこども。人と犬。人とペット。この国とあの国。
遠近。左右。太陽と地球。地球と月。陰陽。
「仲がいい」。「にらみ合っている」。「一方が叱られて縮み上がっている」。「ウィンクした目だ」。「トンネルの出口と入口かな?」
いろいろなイメージを呼びさましそうです。人それぞれです。
「大きい」と「小さい」という差が、ドラマや物語を始動させる。そんな気がします。
平面上で、奥深さ、深さ、背後、背景というドラマと物語が浮かぶ
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上の ● と・をご覧ください。● が手前に、・が後ろに見えるかもしれません。人それぞれですけど、そう見えるという前提で話を進めます。
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平面にある大きさの異なる二点を、奥行きとか遠近に置き換えているわけです。奥行きとは、奥深さ、深さ、背後、背景、隠れているもの、隠されたもの、というふうに連想を呼びさます気がします。
向こうから追いかけて来る、トンネル、望遠鏡、顕微鏡、谺、エコー、
太陽と惑星、進化、だんだん大きくなっていく、だんだん小さくなっていく、遠くなっていく、近くなってくる
向こうにあるのは何だろう、誰だろう、逃げていく、追いかけよう
「おーい!」「何だーい?」、「待ってくれ」、「さようなら」ーー。子を見送る親、「元気でね」、いつまでも遠くで見ている。
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ストーリーを感じませんか? 声が聞こえてきませんか?
イメージが膨らむとも言えるでしょう。話がだんだんズレていくとか、話が大きくなるとか、そんな言い方も可能でしょう。
要するに、思いやイメージが連続して置き換わっていくわけです。
たぶん、コマ送りやバトンを手渡すように、つぎつぎ=継ぎ継ぎ=接ぎ接ぎ=注ぎ注ぎ=告ぎ告ぎ、と連なっていくのでしょう。すると、筋書き、つまり物語とドラマが生まれます。
映画や漫画やアニメのコマ送りという原理が、これでしょう。
(私は詳しくないのですが、音楽も、余韻や予感や必然性や筋をはらんだ音が、つぎつぎ=継ぎ継ぎ=接ぎ接ぎ=注ぎ注ぎ=告ぎ告ぎと連なっていく気がします。)
平面上で、奥深さ、深さ、背後、背景というドラマと物語が浮かんでくるようです。平面が立体化されるとも言えるでしょう。
思わず「深い」とか「奥行きが感じられる」と言ってしまう
水が来た。
三島由紀夫『文章読本』「第三章小説の文章」より
「これはね、森鴎外作『寒山拾得』から引用したもので、三島由紀夫の『文章読本』で激賞されている文なんだ」
「そうかそうか、さすがに名文だね。短いけど、すごい。なんというか、こう、気品が漂ってくるのよね」、「やっぱりね。違いますよ。短いけど、そんじょそこらの文章とはぜんぜん違う。なんというか、こう、文体が違います」、「分かります。そんな気がしたんだよな。言葉に独特のたたずまいがあるでしょ? なんというか、こう、匂い立つ教養を感じるんだ」
「なるほど、深いねえ。短いけど奥行きが感じられるんだ」
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「ねえねえ、お父さん、お隣の〇〇くんが作文でこんな文を書いたのよ」
「なになに。『水が来た。』? ふーん。やっぱり、小学生の作文だね。薄っぺらいし浅いんだよ」
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「ねえねえ、お義父さん、うちの〇〇ちゃんが作文でこんな文を書いたのよ」
「どれどれ。『水が来た。』? おおお! あの子は天才だ! なんか、こう深いものが感じられる」
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『水が来た。』は文字からなる文字列でありセンテンスであり、日本語の表記を学んだ者であれば誰もが書き写せるし、そこそこ学んだ人がなんとか書き写すことも可能でしょう。もちろん機械に書かせることもできるし、AIが書いた文であってもぜんぜんおかしくありません。
文字には複製しても「同じ」どころかほぼ「同一」であるという驚くべき性質があります。ところが、同じ文字列の文章であっても、それを純粋にそのものとして読むことは難しく、人は必ずその文字列に何らかの印象とイメージをいだいてしまいます。
これは複製として鑑賞されるのが一般的である、絵や写真や動画や楽曲であってもそうでしょう。
誰が書いたのか、誰が撮ったのか、誰がつくったのか、誰が歌った、あるいは演奏したのかという知識で、印象が異なるのです。
純粋な鑑賞という体験(そんなものがあればの話ですけど)ではなく、教わった知識(作品の背景についての勉強を重視する人もいるでしょう)によって印象や感想が左右される点が大切だと思います。
「〇〇っぽい」や「いかにも〇〇らしい」や「〇〇のような」や「いかにも〇〇みたい」のように。
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作品を鑑賞して評価を下したというよりも、たいていは知識として得た情報が作品の印象をつくる。それだけでなく、得た情報が間違いだったと言われると、手のひらを返したように印象が変わるというわけです。
「そうかあ、やっぱり〇〇だね」や「なるほど、さすがに〇〇らしい」のように。この場合、〇〇には機械やAIも、もちろん入ります。
人がAIの作品を評価するのはきわめて難しいでしょう。人類初の体験で慣れていないからです。冷静な判断ができないとも言えます。
人は何かに何かを見てしまう。そのものを見ることはできない。自分が知っているもの(知っていると思っているもの)、自分の見たいもの、自分にとって都合のいいもの、自分にとって快であるものを見てしまう。
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「深い」は「美しい」と並ぶ最高の褒め言葉です。私みたいなへそ曲がりでも、自分の書いたものが「深い」とか「美しい」と言われれば、小躍りして喜びます。
人は、薄い紙や画面の上のさらに薄いもの――たとえば言葉や映像――に、深さや奥行きを見てしまうのです。これは自分を観察して得た実感です。
また、たとえ見てしまわなくても、その時の乗りで「深い」とか「奥行きが感じられる」と思わず言ってしまうのです。それが人です。
何かに何かを見て、気持ちを静める
さきほどの二点をもう一度見てみましょう。
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私なんか、遠くで見守っている存在と見守られている存在の関係を勝手に想像して涙ぐみそうになりますが、遠くからじっと監視されているイメージを呼び覚まされて身震いする人がいても不思議ではありません。
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いや、そんなふうにはぜんぜん見えないけど。純粋に黒い丸と黒い点にしか見えない。
いや、黒い丸と黒い点には見えないけど。画素の集まりにしか見えない。
以上のような意見や感想があっても私は驚きません。人は印象の世界に住んでいるからです。印象やイメージは、人それぞれです。
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何かに何かを見る。見てしまう。
見慣れない何かに自分の知っている(馴染みの)何かを見る。見たいもの(自分に都合のいいもの)を見る。見てしまう。
どうして、見てしまうのでしょう。
心が壊れないためにそうしているように私には思えてなりません。自分を観察した結果、そのように思います。
見知らぬ「何か」、初めて見る「何か」ほど不気味であったり、恐ろしいものはありません。名前がないからです。そこにドラマや物語がないからです。
たとえ、それの名が「怪物」や「モンスター」であっても、名前がない「何か」よりはずっと不気味ではないし、怖くもないです。
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面(具象・そのもの・そこにあるもの)に立体(抽象・その向こうにあるもの・そこにないもの)を見てしまうとも言えます。
人がのっぺらぼうな面――意味が不在である面(無意味な面ではなく)――に、顔や模様や奥行きや深さや遠近や背後を見てしまうのは、心が壊れないためなのです。
意味は「そこにある」のではなく、「人がそこにつくる」というのが適切な言い方だと私は思います。「意味がある」という言い方は無意味=ナンセンスだという意味です。
上で挙げた例で言うと、単なる点、単なる画素の集まりほど、人の心を壊すほど不気味なものはないと言えるかもしれません。
「単なる〇〇」「〇〇だけ」の、〇〇には名前もなく、意味が不在でドラマも物語もないからです。
逆に言うと、名前と意味とドラマと物語が、人をいい意味でも悪い意味でも「深淵」――日常空間にぽっかり空いたブラックホールのような穴――から守るのです。
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深い
深く
深さ
深み
深い淵
深淵
ブラックホールような穴
ニーチェの言ったあの深淵
私には下に行くほど、深く感じられます。
語呂のよさや字面に左右されて、より「深い」と感じたり(つまり、上で述べた「水が来た。」のように印象とその時の乗りで「深い」と感じているだけ)、自分にとってお馴染みの安心できるイメージに置き換えて満足しているのでしょう。
それが人です。
きっと深い穴を直視して壊れたくないのです。
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話は飛びますが、上で挙げた文字列を、ニュートラルな情報のデータとしてフラットに処理するのが、機械でありAIなのでしょう。機械やAIにとっては、深さも深みも奥行きもありません。
機械やAIは深い穴を直視して壊れることはありません。物理的に壊さないかぎり壊れないのです。
深さや深みや奥行きとは無縁の機械やAIが書いたものに、深さや深みや奥行きを見てしまうのが人です。文字だけでなく、映像や音楽でも同じでしょう。
それが人です。