薄いけど厚いというギャグは猫に通じるのか

 瞳と鏡で私が連想するのは、膜と面です。

 網膜、鏡面。瞳や鏡を覗きこんだとき、見える姿は、膜や面に映った像・影なのでしょう。

 薄い膜と薄い面に映っているのですから、姿や像や影も薄いはずです。それなのに、奥行きや深さや遠さや隔たりを感じるのは、こしらえているからではないでしょうか。

(拙文「鏡「面」画「面」顔「面」」より)


目次
言の葉
ぺらぺらだらけ
ぺらぺらはうつる
言の葉を聞く
言の葉を書く、写す、映す
言の葉を見る・読む
言の葉を写す、言の葉を移す
ぺらぺらしたもの同士が重なる
薄いぺらぺらした網(ネット)にうつる、ぺらぺらしたものたち
ぺらぺらというイメージの韻
人は印象の世界の住人


言の葉


「言の葉」という言い方の「葉」ですが、これも私には薄い面であり膜、つまりぺらぺらに感じられます。


 葉には端や刃や羽とのイメージの韻――「は」という音だけでなく――も感じます。端っこ、鋼を薄くのばした刃、薄く軽い羽という感じ。形も似ている気がします。 


 学問的な関連については知りません。あくまでも個人的なイメージの連想です。


 さらに「言の葉」は、ヨーロッパの「言語」における「舌」のぺらぺらとイメージの韻を踏んでいる感じがします。英語でいえば、 language と tongue です。これは語源でつながっています。


 やっぱり、「言葉・言の葉・言語」はぺらぺら。そんな気がしてきました。


ぺらぺらだらけ


 いま私は薄い液晶のスクリーン上に表示されている自分の入力した文字を見つめています。視覚的に厚みも深みも感じられない、つまり立体感に欠ける文字です。 


 ということは、ひょっとすると文字ってぺらぺらなのではないでしょうか。これまで考えたことがありませんでした。  


 ぺらぺら(紙や画面)にのっかかったり、うつったり、染みついたり、こびりついたり、貼りついたりしているのですから、文字はぺらぺらなはずです。


 私は言葉を広く取っています。話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、視覚言語と呼ばれることもある表情と身振りも言葉と考えて生活しています。 


     *


 で、思ったのですが、言葉つながりの事物や現象はぺらぺらだらけではないでしょうか。 


 舌もぺらぺら。発したとたんに消える声の存在感も薄くてぺらぺら。空気の振動である声をとらえる鼓膜もぺらぺら。話し言葉のことです。 


 手のひらもぺらぺら。手を使って書いたり入力する文字もぺらぺら。紙もぺらぺら。液晶画面もぺらぺら。 


 顔の皮膚を舞台とした表情もぺらぺら。 


 ぺらぺらとした網膜に映ってたちまち消える身振りもぺらぺら。 


 めちゃくちゃこじつけて、ごめんなさい。こんなことを書いている私もぺらぺら。さらに言うなら、へらへらでへろへろ。べろんべろんでないだけ、まし。 


ぺらぺらはうつる


 言葉は「うつる、写る、映る、移る」と親和性があるようですが、ぺらぺらは「うつる」と親和性がある、とほぼ同義ではないでしょうか。


 ぺらぺらな言葉から意味とイメージが立ちあらわれる。というか、人はぺらぺらに意味やイメージを取る。 


 意味自体、そしてイメージ自体は実体を欠いている。実体を欠いているのだから、その存在感はきわめて薄い。つまり、意味とイメージもぺらぺら。 


 ぺらぺら(言葉)がぺらぺら(意味)を生んでいる。そうとしか思えません。


     *


 人はぺらぺらに取り憑かれているようです。


 ぺらぺらをせっせとつくり、ぺらぺらを写して増やし拡散し保存し継承し、ぺらぺらに見入り、さらにぺらぺらをつくる……。これはスマホやパソコンをつかって、私たちがネット上でやっていることです。 


 ぺらぺら(画面)にはぺらぺらな文字や絵がうつっていて、人はそこに厚かったり深かったりする「何か」を見ているようです。


 さもなければ、飽きもせずにこれだけぺらぺらに執着するわけがありません。なにしろ、人は忙しいしせっかちな生き物です。


言の葉を聞く


 震える、届く、震える、聞く。 


 ぺらぺらした舌が放した(話した)、ぺらぺらした声が、ひらひらと空気を震わせながら、ぺらぺらした耳たぶに届き、その奥にあるぺらぺらした鼓膜を震わせる。


言の葉を書く、写す、映す


 話す、放す、映す、写す、書く。 


 ぺらぺらした舌が放した(話した)、ぺらぺらした声が、今度はぺらぺらした文字という影に落とされ、その影がぺらぺらした紙に映る、写る。つまり書かれる。


言の葉を見る・読む


 映る、見る、眺める、読む。 


 ぺらぺらした紙に映った(書かれた)文字が、ぺらぺらしたまぶたの奥にある、ぺらぺらした網膜に映る。つまり、見る、眺める、読む。 


 ひょっとすると、見られた、あるいは読まれたときには、ぺらぺらした網膜に映る影が、ぺらぺらした心のスクリーンに映るのかもしれない。 


 心のスクリーンに映るのかもしれない意味やイメージや物語は、残念ながら目には見えない。


言の葉を写す、言の葉を移す


 写す、移す、掻く、書く、染みる、刻まれる、印刷する。 


 ぺらぺらした紙に写った、移った、掻かれた、書かれた文字(インクの染み)が、別のぺらぺらした紙に写される。筆写や印刷。


     *


 移す、広げる、配布する。 


 ぺらぺらした紙に写った(書かれた)文字(インクの染み)が、紙にのったまま、あちこちに移される。配布。


     *


 写す、書く、染みる、移る、つながる、かさなる、翻訳する。 


 ぺらぺらした紙に写った(書かれた)文字(インクの染み)が、別のぺらぺらした言の葉の文字に移されることもある。翻訳。


ぺらぺらしたもの同士が重なる


 英語と日本語に話をしぼりますが、単語、フレーズ、センテンス、文章、あるいは作品のレベルで、対訳でくらべた場合に、両者は別物(同一ではないという感じ)であり、「似ている」でも「同じ」でも「違う(異なる)」でもなく、強いて言えば「つながっている」と感じます。 


 翻訳は「つながっている」とか「かさなっている」というのが私の印象です。


 ぺらぺらした言葉同士が重なるのが翻訳ではないでしょうか。一方を見ると、もう一方が透けて見えるのです。


     *


 ほんやく(translation)は翻訳とも反訳(速記なんかでは「はんやく」という作業もあるようです)とも書くみたいですが、「ひるがえす・翻す」が見えて、そのイメージにわくわくします。


 ひらりとひっくり返すとか裏返すという感じです。 


 ぺらぺらをひらりとひっくり返しても、やっぱりぺらぺら。


薄いぺらぺらした網(ネット)にうつる、ぺらぺらしたものたち


 投稿する=複製する=拡散する=保存する、映す、写す、移す。 


 デジタル化された情報(信号)が、ぺらぺらしたスクリーンに視覚化されて映る文字(画素の集まり)は、同時に、別のおびただしい数の端末のぺらぺらしたスクリーンに視覚化されて映る。


 ネット上では投稿、複製、拡散、保存がほぼ同時に起きます。


 薄いぺらぺらした網(ネット)で、うつる、映る、写る、移る、ぺらぺらしたものたち。それら(文字・映像・音声)は広い意味での言葉だと言えそうです。


ぺらぺらというイメージの韻


 以上、ぺらぺらという個人的なイメージを感じる、言の葉、舌、まぶた、耳たぶ、目の網膜、耳の鼓膜、紙、スクリーン、ネット・網、声、文字といったものたちを、ぺらぺらという言葉に掛ける形で、遊んでみました。 


 いや、むしろ遊んでもらったという気がします。あくまでも戯れです。 ぶっちゃけた話がこじつけです。 


 ぺらぺらという動き(これが動きであればですが)やイメージのシンクロという言い方もできるかもしれません。


 この「似ている」のシンクロを、私はイメージの韻と呼んでいます。「似ている」だから印象であって、関係あるか(似ている以外につながりがあるか)ないかは関係ありません。


人は印象の世界の住人


 ところで、言の葉、舌、まぶた、耳たぶ、目の網膜、耳の鼓膜、紙、スクリーン、ネット・網、声、文字は似ていますか? 


 いま挙げたものには、見えないものありますが、見たときに似ていると感じますか?  


 でも、イメージの韻でつなげると似ているような気がしてきます。少なくとも、私にはそうです。


     *


 猫という言葉と猫という生き物は似ていませんが、言葉を使っている分には、似ていないという感覚はないと思います。


 たぶん、猫という言葉と猫という生き物は似ているのです。いや、きっと同じなのです。人にとっては。


 だから、「言葉と事物とは違うんだよ」なんて当り前のことを書いて、わざわざ念を押したフランス人がいたのでしょう。


ミシェル・フーコー、渡辺一民/訳、佐々木明/訳 『言葉と物〈新装版〉―人文科学の考古学―』 | 新潮社

ベラスケスの名画「侍女たち」は、古典主義時代における人間の不在を表現している。実は「人間」という存在は近代に登場したもので

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河出文庫 意味の論理学〈上〉

ルイス・キャロルからストア派へ、パラドックスの考察にはじまり、意味と無意味、表面と深層、アイオーンとクロノス、そして「出来

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 似ているって不思議です。


 人は似ているを基本とする印象の世界に生きている。そんな気がしてなりません。


 猫を見ていると、この「似ている」世界とはまったく無縁の世界に住んでいるように見えます。


 世界がぺらぺらに満ち満ちている。薄いは厚いでもある。そんなギャグは、ねこちゃんには通じそうもありません。


 薄いものに熱中する人に対して、猫はひたすら邪魔をするだけです。私はそんな猫がうらやましくてたまりません。


 猫はぺらぺらの言葉と立体で奥行きのある事物を混同していないもようです。