抽象を体感する、体感を抽象する
目次
たったひとつのものが並ぶ
似ている、そっくり、ほぼほぼ同じ、同じ、同一
見たことがないものが並ぶ
たったひとつではないものが並ぶ
なぜか「ないもの」が「ある」
独り占めしたい言葉
抽象を体感する、具象を体感する
賞賛、嫉妬、恐怖
人間の人形(ひとがた)化、人形(ひとがた)の人間化
たったひとつのものが並ぶ
力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力
不気味なものを感じます。こんなことをしている自分にです。それはさておき、上の文字列を見ていて、なぜ背中がぞくぞくするのかと考えてみると、固有名詞だからかもしれません。この世でたったひとり、たったひとつであるはずのものを指す言葉が、ぞろぞろ並んでいるせいです。
あなたの知り合い、つまりあなたにとって「世界でたったひとり感」の強い人の像がずらりと並んでいるほうが、「顔のない誰か」の人影がずらりと並んでいるより、不気味なのに似ていると言えば、お分かりいただけるでしょうか。あなたがどれだけその人を知っているかにかかっているのです。人にとって「たったひとり」とか「唯一」とはそういう意味です。
たったひとつであるはずのもの(たったひとつ感が強いという意味ではありません)が、ぞろぞろ並んでいるというぞくぞく――。現在の世界は複製に満ち満ちています。大量生産、印刷、電子的なレベルでのコピーが、複製を繰りかえし、コピーが増え、コピーのコピーがまたたくまに拡散するという事態になっています。
ーーそんな物語、話、つまり抽象が上の文字の連続として体感されているかのようです。ぞくぞくは体感です。
*
複製、複写、転写には変異がともなうと言われています。コピーにはエラーとズレとノイズは不可避だという意味です。複製が複製だというのは抽象なのです。じっさいには「似たもの・似せたもの・にせもの」くらいがいいところでしょう。意識的なエラー、つまり改ざんもありますね。生物レベルでいうと、例の変異も複製のさいに起きるズレだそうです。いまいましい変異。
上の文字列で、カタカナのカのひとつが、漢字の力(ちから)であっても不思議はないし、見た目には分からないのです。ひょっとすると、ぜんぶが力(ちから)かもしれません。
本物と偽物のさかいが不明になるのも、複製拡散時代の特徴です。似せたものか、にせものか、似たものかも分からないのです。起源や本物の意味がなくなるとも言えます。
コピーのコピーに満ちているからです。言葉と同じです。言葉に本物はありません。ぜんぶコピーなのです。ぜんぶ真似たものだという意味です。誰もが生まれたときに既にあったのですから、当然です。
似ている、そっくり、ほぼほぼ同じ、同じ、同一
繰りかえします。複製が複製だというのは抽象(努力目標でもいいです)です。じっさいには「似たもの・似せたもの・にせもの」くらいのネーミングがいいところでしょう。
複製とは、「似ている」MAXの「そっくり」であり、ほぼほぼ「同じ」であっても「同一」ではありません。「同一」はこの世(世界でも宇宙でもいいですけど)でたったひとつ、つまり「それ自体」のことです。
人は「似ている」という印象の世界に生きています。「そっくり」は「似ている」の最上級でしょうが「活用」(おこ、激おこ、激おこぷんぷん丸という活用を思いだしてください、似ている、激似、そっくり)しただけです。「同じ」と「同一」は印象の世界にいる人には、器具や器機や機械をつかわないと確認できません。
【※「同じ」と「同一」は学習の成果だとも言えるでしょう。赤ちゃんにとって「似ている」という印象はあっても「同じ」かどうかは知りません。わからないというより、知らないのです。「同じ」かどうかは教えてもらうのです。
柴犬とキツネが動物という点では同じでも同じ種類ではなくて、ドーベルマンとポメラニアンが同じく犬なのは、教わって知ったのです。その意味で知識や情報は抽象であり、体感でも印象でもありません。
「同じ」か「異なる」かは、世界や森羅万象の切り分け方によって異なり、文化であったり学問であったりします。文化や学問はローカルなものです。ある特定の集団が「決めた」ものだからです。抽象であっても普遍ではなありません。】
そんなわけで複製は「そっくり」とかほぼほぼ「同じ」なのです。つまり印象であり努力目標(絵に描いた餅)というか……。「同じ」複製をたくさんつくることは人には荷が重すぎるようです。「同一」の複製とは言葉の綾ではないでしょうか。言葉をつかうと何とでも威勢のいいことが言えますから。
*
人は「似ている」という印象の世界に住みながら、「同一」の世界に憧れています。この憧れは悲願であり彼岸でもありますから、オブセッションになっています。「同一」の世界に憧れつつ、それが容易ではないため、人はブレない「杓子定規」の世界をつくり出しました。
ブレない機械をつくり、ブレない機械に「杓子定規」な言葉(プログラミングみたいなものでしょうか)でブレない動きをさせるのです。その結果、「自然界にあるものもどき」をたくさんつくってきました。広義の機械です。いろんな機械があります。疲れない、ブレない、杓子定規が優れた機械の特徴です。
自然界にあるものもどき(広義の機械のことです)は、自然界にあるもの「そっくり」なのですが、もちろん「似せてある」だけの「にせもの」ですから、自然界にあるものと「同じ」ではないわけです。でも、人は「似ている」の世界に住んでいるので、満足します。
機械への命令や、機械とのやり取りは、「杓子定規」な言葉(もちろん人がつくったものです、こんなものを他に誰がつくるでしょう? いつか機械がつくるかもしれませんけど)をつかいます。この言葉は普通の人には通じません。私も知りません。
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「同一」の世界に憧れつつ、人は「杓子定規」な言葉をつかって、疲れない、ブレないさまざまな機械にいろんなことをさせています。たとえば、機械特有のぎこちなさを感じさせない、自然界に見られるのとそっくりなしなやかな動き(まことしやかなしなやかさ)を二次元でつくる。それを見て、人は三次元の空想つまり錯覚に浸ります。人にとって大切なのは空想と錯覚(「そっくり」を思いうかべたり思いえがく)なのです。
最近では仮想現実という「まことしやかなしなやかさ」を感じさせる(「感じさせる」だけですが、基本的に「似ている」しか感じられない人にとっては、これがいちばん大切なのです)錯覚製造装置(「似ている」と「そっくり」を思いうかべたり思いえがくための仕掛けです)までこしらえました。
また、人の知能もどきである――「そっくり」なのですが「同じ」ではありません、とはいえ「似ているMAX」の「そっくり」なうえに、学習機能を装備し、日に日に性能を向上させていますから、人は嫉妬や怒りや諦めや蔑視や罵倒や差別や賞賛や媚びという、きわめて人間的な、つまり機械に通じない感情を機械相手に募らせ(非生物相手に近親憎悪でしょうか、というか擬人化は人の得意とするところです)、ぶつけるしかありません――、AIというブラックボックスも進化を続けています。
とはいえ、人は依然として「似ている」という印象の世界に住んでいます。そのため「杓子定規」にも「疲れない」にも「ブレない」にもなれません。
自然そっくり、知能そっくり、人そっくりという具合に、人は「そっくり」を相手に、「そっくり」という印象の世界にとどまっているのです。これが人としての枠なのですから致し方ありません。自然の代わりに自然もどき、知能の代わりに知能もどき、人の代わりに人もどきで済まし、澄ましているしかないのです。
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話がだいぶ逸れてきましたが、人がせっせとつくっている複製というものが、私たちの多くが想定しているほど「同じ」ものではない、ましてや「同一」ではありえないという点が大切です。
複製は「似ている」だけ、せいぜい「そっくり」なだけ、つまり「にせたもの」という意味での「にせもの」なのです。ただし、この場合の「にせもの」の裏には、必ずしも本物や現物があるわけではありません。
本物とか現物と呼ばれているもの自体が、何かに似せたものだったり、人にとって何かに似ているものだからです。すごく短絡した言い方をすると、人が認識しているものはすべてが「何か」に「似ている」ものであり、その「何か」が保留されているというか不明なのです。わけがわからない(つまり恐ろしい)から、とりあえず(必然性はないという意味です)名前を付ける(声を掛ける)のだと思います。手なずけるためです。
話をもどします。
見たことがないものが並ぶ
卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡
中国語ではこうなるそうです。てっきり私は「可不可」だと思いこんでいたのです(可もなく不可もなくの可不可)。自分の名前が見たこともない文字で記されて複製され拡散しているのを知ったら、ご本人はさぞかしびっくりなさるでしょうね。もちろん、「力フ力」も含めての話です。
有名になるとは、名前を奪われ、作家であれば、作品を奪われるようなものかもしれません。まったく知らない人たちが、自分の名前や作品名を知っていて、その名前を口にしたり書いたりするし、さらにはそれぞれの言語や訛りやアクセントや文字で表記したりするからです。
その人たち、ひとりひとりが、私(だけ)の「〇〇」という具合に、固有名詞(人名や作品名)についてのイメージをいだいているはずです。有名になるとは、有名になった自分の名前と作品名が増えて広がると同時に、自分と分身がばらばらにされる、つまり自分と自作の名前が奪われることなのかもしれません。
しかも、小説であれば、読んでもいない人が作品名を口にして読んだ読んだと言うことがおおいにありえます。自分の手を離れてやりたい放題にされているという意味です。いずれにせよ、名前と作品名が無限に複製されて拡散するのです。知らないところで名前が奪われてしまうのです。自分が見知らぬ誰か、自作があずかり知らぬ何かになるのかもしれません。その複数どころか無数の「誰か」と「何か」が、自分と自作の名前を冠しているのです。でもうらやましいですよね。
名前も言葉であり、外にあり、外から来て、外であるものと言えそうです。自分のお名前で想像なさってください。「外である」とは自分の思いどおりにならないという意味です。
作家は、自分の分身であるはずの自分の名前や作品でさえ思いどおりにできないし、じつは奪われているのです。名前や作品名や要約という言葉や文字列として引用され、複製され、拡散されるからです。簡単に言えば、有名になることで、名前や作品が自分の手から離れるのですから手放しで喜べないようです。でもうらやましいですよね。
【※作家に限らす、有名無名を問わず、人は名前や番号(数字)として引用=複製=拡散=保存されます。その発言も行為も作ったものも、言葉として要約され、名前や数字とともに引用=複製=拡散=保存されます。言葉と化した人は無視されたり忘れられたり処分されるのが普通です。言葉が残った人が、「有名」人であったり偉人であったり悪名高き人であったり歴史上の人物なのです。いま人と書きましたが、言葉なのです。人名ほど言葉感のない言葉はないようです。あなたは大切な人や尊敬する人の名前を書いた紙を平気で踏めますか? 私には無理です。】
ちなみに私はあの作家の作品を読んだことはありません(「読んだ」と嘘をついたことは何度もあります)。苦手で読めないのです。読んだという人がたくさんいるので驚きます。そもそも「読んだ」は抽象です。読むなんて本当にできるのでしょうか。「見た」に近い「読んだ」もある気がします。「斜め読み」とも言います。私がそうです。
興味深いのは、ある作品を「読んだ」とおっしゃる人たちが似たような、あるいはほとんど同じ感想を口になさったり書いたりなさっていることです。何かを複製しているとしか感じられないのです。人は読んだもの(ほぼあらゆる小説や文書が複製です)に似てくるのではないかと思えるほどです。似ているがそっくりに似てきて、だんだんそっくりになっていく感じ。
あの作家やあの作家の作品について、決まり文句や感想の定型があるのではないかと疑りたくなります。
とはいえ、確実に読んだ日本人がいます。名前も調べれば分かります。翻訳した人です。そうとう丹念に読まないと翻訳はできませんから、「読んだ」人と言えます。翻訳書は物ですから具象と考えてもいいでしょう。「読んだ」という物証、エビデンス、動かぬファクトです。心から尊敬しています。
たったひとつではないものが並ぶ
マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ
こちらも十分に不気味ですが、上よりもぞくぞくが少ないとすれば、それは世界にたったひとつのものではないからでしょう。
人にとっては、たとえばニワトリがずらりと並んでいるのと同じです。そのニワトリをペットにしているのなら話は別ですけど。「たったひとつ」と「たったひとつではない」とは、人にとっては、それくらいの意味なのです。愛着があるかないか、とか、よく知っているかいないか、にかかっているのです。
女優のブロマイドと、商標の付いた缶スープの絵を並べて見せた例のあの「有名な」芸術作品は、発表された時点ではおおいに衝撃的であったはずです。
女優はたったひとりの人(固有名詞と同じ)ですから、上の「力フ力」に相当します。缶スープは大量生産された商品ですから、上のマカロニに当たります。「たったひとつ(ひとり)」と「あちこちにたくさんある」の両者が複製されてずらりと並ぶと、「たったひとつ」も「その他おおぜいのひとつ」もコピーという点で同列になるという衝撃です。複製拡散時代の到来をアートの作品という形で示していたと言えるでしょう。
現在ですが、目の前に複製がずらりと並ぶどころか、世界中のあちこちで複製やにせものや似たものが無数に並んでいるさまを想像すると、あっけにとられて言葉を失います。
話はそれだけにとどまりません。
上のマカロニがマカロニではなくマ力口ニであったとしても分からないのですが、体感していただけたでしょうか。カタカナのカと漢字の力、そしてカタカナのロと漢字の口の区別は難しいです。私には無理です。
複製に見えるまがいものがあります。複製という名のまがいものもあります。言葉の綾ではなく具象つまり物としてです。
現在では、ずらりと並んでいる複製に見えるものさえ、それが果たして複製なのかどうかが怪しくなっているという意味です。完全なコピーなど抽象であるという意味です。
現在は、複製における変異、エラー、ノイズ、意図的改ざんの時代なのです。代理であるはずのコピーが復讐しているのかもしれませんね。一種の代理の反乱です。
マ力口ニという具体的な文字列から、複製というまぼろしのまやかしと、新しい形の代理のありかた・ありようを体感していただけたなら幸いです。
なぜか「ないもの」が「ある」
力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、 力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力
これも気になります。なんであそこが抜けているのだろう。なんか意味があるのだろうか。意味なんてないのだろうか。
なぜかあるべきところに「ないもの」が「ある」ことは人を不安にさせるようです。よろしいでしょうか、「ないもの」はないのではなく「ある」のです(⇒「人は存在しないもので動く」)。「ない」という言葉が「ある」からですが、おそらく人だけに通じるギャグでしょう。これは、人にとって「似ている」はあっても、「異なる」と「同じ」は「ない」のと同じ、いや似ています。
【※なお、人にとって「異なる」は「ない」、「似ている」と「その他もろもろ」が「ある」のでないかというお話は、拙文「誰が語っているのでしょう」で触れています。
簡単に言うと、人にとって基本は「似ている」であり、「異なる」は「同じ」や「同一」のように学習した知識であり情報なのです。教わったものなのです。
詳しく言うと、人にとっては「似ている」と「その他もろもろ」だけがあり、「その他もろもろ」は、「似ていない」でも「異なる」でもなく、むしろ「見えても気に掛けない」とか「見ていない」とか「見えない」とか「気づかない」であり、じつは「見ようとすれば、怖くて不気味で見たくない」(この場合には「手なずける」ためにとりあえす「名付ける」のです)であり「見てもわからない」(気掛かりになるとちゃんと見てつまり観察して「分けて」、やはり手なずけるためにとりあえず名付けますが、「分けた」段階で「分かった」と「決める」ことが多いようです)なのです。
見た目には「似ている」柴犬とキツネが動物という点では「同じ」でも「同じ」種類ではなくて、つまり「異なる」種類であり、一見して「似ていない」ドーベルマンとポメラニアンが「同じく」犬であって、キツネとは「異なる」のは、教わって知ったのです。その意味で知識や情報は抽象であり、体感でも印象でもありません。
純粋に「似ている」世界にいるヒトの赤ちゃんは、ヒトが決めた決まりである「同じ」と「異なる」を学習しながらヒトのおとなになっていくと言えます。生まれたての赤ちゃんには、たぶん急須と湯飲みの「違い」も、玩具と動物の「違い」もわからないでしょう。というか、「知らない」でしょう。
万が一、ヒトの赤ちゃんがオオカミやコビトカバに育てられたら、いま述べた「違い」は「見えても見えない」とか「見えても気に掛けない」のではないかと私は想像しています。ひょっとするとどちらもが「似ている」なのかもしれませんね。
「見る」は「見る」でも、「見える」は「見える」でも必ずしもなくて、見ない、見えない、見損なう、見損じる、見間違う、見誤る、見逃す、見外す、見過ごすと同時に並行して起きている気がします。「見る」は「見る」なの、すごくシンプルなわけ、なんて言い切る勇気が私にはありません。】
意味と無意味は紙一重とか裏腹とか一心同体とか見方次第とかじつは同じ(いや、そっくり)だなんて感じがしてきます(具象と抽象にそっくりです)。無意味を辞書で調べると意味があったりして、よけい混乱します。
独り占めしたい言葉
話し言葉(音声)と書き言葉(文字)に加えて、視覚言語と呼ばれることもある、表情と身振りと標識・記号というふうに、私は言葉を広く取っていますが、ここでは話し言葉と書き言葉に話をしぼります。とはいえ、ややこしくなりそうなので、さらに書き言葉を中心に話を進めます。
文字は「同じ」どころか「同一」と言っていいほどの抽象性を備えた複製としてもちいられます。同時に、筆跡の違い、筆か鉛筆かペンのどれで書くかといった違い、印刷物やネット上であれば書体やフォントやレイアウトの違いがあるのも事実です。
抽象と具象が別個に存在するというのは抽象ではないかと思うほどです。文字のありようによって抽象であったり具象であったりする気がします。
これが、話し言葉であれば、「わたしはねこが好きだ」というふうに文字に置き換えることのできる音声の発声は、話す人によって個人差があります。声紋レベルでの差もあれば、訛りや、その時点での感情や体調による差もあるでしょう。抽象と具象が同居しているとも言えます。
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話は飛びますが、人には言葉を独り占めにしたいと思うことがあるようです。言葉の抽象的な側面に注目すると、同じ言葉を多数の人が共有していると言えます。たとえば、「いぬ」という言葉(音声と文字)を多数の人がつかっているのです。独り占めはするわけにはいきません。
「わたしはいぬが好きだ」は誰もが口にできるし文字にできます。「わたし」を「ぼく」や「あたい」にしても、「いぬ」を「ワンコ」にしても、「好きだ」を「好きです」「好きやねん」にしても同じです。
それなのに、人が独り占めしたがる言葉があるように私には思えてなりません。
固有名詞(人名、タイトル、地名、商品名、集団名など)や専門用語やいわゆるビッグワードや流行語です。おもに名詞であるという点が興味深いと思います。動詞や形容詞を独り占めしたがるという状況は考えにくいのです。いや、流行語ならあるかもしれませんが……。
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固有名詞とは世の中で「たったひとつ」または「たったひとり」であるはずですが、人の同姓同名や事物の同名は意外とあるようです。いずれにせよ、たいていの場合には「たったひとつ」であったり「たったひとり」を想定してつかわれています。
よろしいでしょうか。「唯一」とされているものや人を指す言葉を共有しているのです。歯ブラシを共有するようなものだとは言いませんが、なんとなく嫌な気分がしませんか。
自分が好きでたまらないアイドル(キャラクターでもいいです)、自分がかなり聞き込んでいるアーティスト(よく読んでいる作家やエッセイストでもいいです)、この人のことならその辺の人よりもよく知っていると言える人――そういう人の名前を、その辺の誰かが得意そうに口にしている。
そんなとき、「えーっ、それは違うんじゃない」、「わかっちゃいないなあ」、「何を偉そうに」、「〇〇さん(ちゃん・さま)は私だけのものよ」という気分になる人がいても、不思議ではない気が私にはします。
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自分にとって大切な人物の名前を、他人が、あるいはたくさんの人たちが口にしたり書いたりしているのです。「むきーっ!」とまでは言いませんが、悔しかったり、腹立たしかったり、舌打ちしたい気持ちになるという感情は、私にはよくわかる気がします。
もちろん、同じ考えの人がいてうれしいという心理もあるでしょうけど。
専門用語やビッグワードや流行語だと感情はもっと高まり、争いは熾烈になります。ネット上だと炎上する場合さえありそうです。具体例を挙げるのは遠慮させていただきます。胸に手を当ててお考え、またはご想像願います。
とにかく、ホットなのです。誰もが真剣に熱っぽく口にしたり語ったり議論しているからです。まわりやネット上をよくご覧ください。
本当の〇〇、真(真実)の〇〇、本来の〇〇、「いいかい、そもそも〇〇っていうのはな」、「あんたねえ、〇〇のことをXXだって言っていたけどねえ」――。こんな感じです。
要するに、独り占めしたいのです。
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〇〇という人名、〇〇という専門用語やビッグワードは、みんなで共有している抽象なのです。誰もが自由につかえるし、じっさいにつかっている、これが言葉の共有の実態です。抽象だから共有できるのです。
〇〇という言葉は、誰が口にしようと、誰が文字にしようと、〇〇なのです。誰もがいとも簡単に(たとえその言葉が指すものや人を知らなくても、極端な場合にはその言語を知らなくても、さらには機械やAIやオウムでさえも)引用し複製し拡散し保存できるのです。これが抽象です。
「同じ」であり「同一」だからです。これが抽象なのです。
以上、言葉の抽象(言葉の抽象的な面)について体感していただけたのならうれしいです。
あ、ひとつ言わせてください。言葉を独占したいと思うときには、言葉が「同じ」であったり「同一」であったりするという抽象を、人はたいてい「似ている」とか「そっくり」という体感と印象(要するに具象)でとらえているようです。
(人は抽象を感情で受けとめることはできない気がします。具象に変換する必要があるみたいです。)
抽象を体感する、具象を体感する
眠れぬ夜によく考えることがあります。
定番は、地動説を体感できるかとか、脳が脳を思考するとはどういうことか、です。最近では、具象と抽象とか、具象と抽象を行ったり来たりとか、愚笑と中傷とは?とか、です。頭がさえて眠れなくなることもあります。
先日は、外と中について、考えていました。あっちとこっちと同じく、相対的なものです。向こうから見れば、中が外になります。
こそあど。こっち、そっち、あっち、どっち。here、there、where。
こういうのも不思議でよく考えます。言葉の綾と言葉の抽象と言葉の具象の間を行ったり来たりするのです。そのうちに眠くなります。
*
「そと」と「なか」だけなら、まだいいのですが、「よそ」と「うち」を加えて考えるとまた眠れなくなります。
上下もそうです。「うえ」と「した」ならいいのですが、「かみ」と「しも」を考えるととたんに目がさえてきます。邪念や雑念や妄念――こういうのは言葉の綾という名の抽象ではないかと睨んでおります、いや踏んでおります――でいっぱいになります。
外は外なの、中は中、上は上、下は下、真実と事実はシンプルなの。なんて言い聞かせても無理みたいです。どうでもいい、つまり不毛なことにこだわって、不毛の二毛作三毛作どころか、不毛の多毛作になってしまうのです。毛がないのに。私のことです、誤解なさらないでください。
*
昨夜というか今朝というか、トイレに立ってベッドに戻り、眠れないので寝返りを打っていたところ、上と下が気になり始めて、仰向けになって体感する上と下と、うつ伏せになって体感する上と下と、右を向いて寝ていて体感する上と下と、左を向いて寝ていて体感する上と下とが、異なって感じられることに、この歳になってはじめて気づき、唖然となり、七転八倒していました。ベッドで逆立ちは危険なのでしませんでした。
いまこの文章を読んでいらっしゃる方は、たぶん立っているとか座っていると思います。その状態で上と下を想ってください。考えるというかイメージしてみてください。次に仰向け、うつ伏せ、横向きに寝て、やはりイメージしてみてください。
訳が分からなくなりませんか。とくに、うつ伏せです。次に「かみ」と「しも」で試してみてください。こっちだと、どの姿勢でも、あまり違いはありませんよね。人それぞれですけど。
個人的には、うえとしたは具象で、かみとしもは抽象ではないかと踏んでおります、いや睨んでおります。具象は体感に左右されます。天動説がそうです。抽象は体感には関係なく観念として記憶されている知識や情報だという気がします。地動説がそうです。
今夜、また考えて、いやイメージしてみます。
ところで、無重力空間ではどうなんでしょう?
あと左右も気になってきました。ぐるぐる回りながら左右が分からなくなったこどもの頃の記憶がよみがえってきました。時計の針の方向に、つぎはその逆に、という具合に回るのです。右が左に、左が右になったりします。しまいにぶっ倒れると、左右が上下になったりします。左右上下は単なる言葉じゃないかなんて言いたくなります。
それはさておき、みぎとひだりは、右大臣左大臣の、左右とは違うみたいです。政治的なみぎひだりとも違う気がします。どっちかというと右往左往のほうみたいです。私の人生そのものじゃないですか(足腰が弱まり最近は千鳥足も加わりました)。
これから、ちょっと久しぶりにぐるぐる回ってみます。転倒に気をつけながら。
賞賛、嫉妬、恐怖
人には人以外の生き物のすることで、笑って済ませることと笑って済まされないことがある。笑うのはプライド。
人には機械のすることで、許せることと許せないことがある。許さないのはプライド。
*
AIに対し、人はきわめて人間的に反応する。ほほ笑む、嫉妬する、怒る、差別する。
チンパンジーやゴリラが絵を描けば賞賛。手話をすれば激賞、あるいは隔離する。言葉を理解すれば絶賛、あるいは隔離する。言葉を話せば沈黙、文章を書けば、即隔離する。
*
見せ物にする、大事件として報道する。極秘事項や国家秘密として隠匿する。
ブラックボックス。何が出てくるか分からない不気味。いつか殖えるのではないかという最大の恐怖。
独立や自治は認めない。権利は言うまでもなく。
*
絵を描くゾウ、絵を描くゴリラ、絵を描くチンパンジー。人の言葉を聞いてわかるらしい犬、文字の違いがわかるように見える犬。人の言葉を話す鳥、人の言葉がわかるように見える鳥。人の言葉を話し、作文し、学習する機械。それ以上は許せない。許すわけにはいかない。
人間の人形(ひとがた)化、人形(ひとがた)の人間化
ひょっとすると、人は「それない、ぶれない、あやまらない」ものの、なすがまま、されるがままを望んでいるのかもしれません。
もしそうであれば、機械がどんどん人間っぽくなる一方で、人間がだんだん機械っぽくなるというギャグ的な事態をまねく気がします(そして、いつか逆転するとか……)。もう、そうなりかけていませんか。
ただし、そこまで言ってしまうと身も蓋もなくなるので、もう少し考えてみます。
*
人は、「それる、ぶれる、あやまる」自分を持てあますどころか、嫌悪しているのかもしれません。
人は、「それない、ぶれない、あやまらない」ものに導かれたい、身をゆだねたい、支配されたいのかもしれません。
人は、「それない、ぶれない、あやまらない」ものになりたいのかもしれません。
究極の「それない、ぶれない、あやまらない」を目指しているのかもしれません。
まわりを見ていると、そんな気がしてならないのです。
*
人は思う。自分の思いに似せて作る。
発明、創作、芸術、文学、科学技術。
*
人は自然のものに自分を見る、人を見る、声をかける、名づける、話しかける、人として扱う、下僕や奴隷にする、恋する、愛する、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
人は自分に似せたものを作る、声をかける、名づける、話しかける、人として扱う、下僕や奴隷にする、恋する、愛する、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
人が自分の作ったものをまねる、自分の作ったものに似る、恋する、愛する、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
*
人が作ったものが、人をうらやむ、人を憎む、人に恋する、人を愛す、自分を人だと思う、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
そんな物語。
人が自分に似せて作ったものが、人をうらやむ、人を憎む、人に恋する、人を愛する、自分を人だと思う、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
そんな物語。
*
人間の人形化、人形の人間化
人間の物化、物の人間化
擬人、擬物
人間の機械化、機械の人間化
人間のフィクション化、フィクションの人間化
人間の作品化、作品の人間化
人間の神化、神の人間化
人間の動物化、動物の人間化
人間の仮想現実化、仮想現実の人間化
*
道具、玩具、呪術、魔術、魔法、機械、人工頭脳、人工知能、仮想現実、仮想幻術。
*
絵、絵に描いたように美しい、人形(にんぎょう・ひとかた)、玩具、愛玩動物・家畜(品種改良)、映像、二次元、写真のように綺麗
人工的な美、自然にはない美しさ、不自然な美しさ
まことしやかなしなやかさ
写真や映画やデジタル画像を模倣する作られた演出された現実
修正、編集、改良、交配、デザイン・設計、外科手術、整形手術
人は見えないものに魂を売りわたし、見えるが至上の世界に没入していく。
見るために見えないものが必要な生き物は、おそらく自然から逸脱してしまった人だけ。
*
サイボーグ、不老長寿、美容整形、容姿端麗、皮膚が異常になめらか、染み一つない肌、しなやかな動き、理想的なプロポーション、健康
神話、擬人、伝説、伝承、口承、物語、文字、写本、印刷、フォトコピー
落書き、壁画、描写、写生、模造、複製
小説やテレビドラマや映画のような筋書きの日常、会話、人生
*
自然を作る、人工の自然
不死は究極の不自然(反自然というべきかもしれません)であり、究極の人工(人工には必ず目的があります)であり、究極の「それない、ぶれない、あやまらない」(しかも見えません、永遠に目にすることはできないでしょう)ではないでしょうか。
究極ですから、不死は、たぶん人のオブセッションになっています。人が言葉を相手にしているからだと思います。言葉は人を不死に誘うからです(不死という夢に誘うのです)。とくに不自然の権化である文字です。だから、人は文字から離れられないのです。
*
人間の非人間化、マスゲーム、軍隊、制服、合唱、規則、行進、一糸乱れぬ
法律、戒律、一本化、画一化、支配、階級、階層、代議制、党支配、政党政治
*
私は文字になりたい、小説の中で生きていたい、映画になりたい、キャラクターになりたい、登場人物になりたい
現実逃避、ボバリズム、ボヴァリー夫人、ドン・キホーテ
人形になりたい、人形のような肌がほしい
*
私は論理になりたい、哲学になりたい、私は数学になりたい
私は詩になりたい、私は言葉になりたい、私は物語になりたい、私は小説になりたい
私は音楽になりたい、私はあの楽曲になりたい、私は音符になりたい、私は音になりたい、私は声になりたい、私は声だけになりたい
私はゲームになりたい、私は世界になりたい、私は地球になりたい、私は山になりたい、私は海になりたい、私は川になりたい
私は犬になりたい、私は猫になりたい、私は金魚になりたい
私はカラスになりたい、私は白鳥になりたい、私はゴキブリになりたい、私はウィルスになりたい
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人は、名づけたものにしかなりたいと思わないのではないでしょうか。呼びかけ、話しかけることは、人にとってとっても大切です。
名前と顔のないものには人は話しかけられません。さらに大切なことは、何かに話しかけたとき、人はそのものになっています。正確にいえば、なりきっています。
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私はあなたになりたい、私はあの人(異性)になりたい、私はこどもになりたい、私はこどもに戻りたい、私は二十年前の私になりたい、私は別人になりたい、私は私になりたい、私は本当の私になりたい
もはや名前のないものになりたいと思うようになる人。「自分」には名前はないはずです。「自分」は世界とのかかわりあいのない場にしかいないからです。かかわりのない場では名は意味を成しません。
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自分と「自分」が離れていく。
分身、変身、変心、分心。
分れた自分。別れた自分。取り戻せない自分。たどり着けない自分。
「見える」だけがある世界。見えれば、それでいい。自分は要らない。