言葉は声と顔が命、意味は二の次
今回は前に書いた記事へのツッコミというか、連想でつなぐというか、しりとりみたいにつなげてみます。
以下の見出しの文章「内容は、ないよう」は「連想でつなぐ、壊れる」という記事からの引用です。この文章につなぐ形で記事を書いてみます。
目次
内容は、ないよう
言葉は声と顔が命
意味が不明、コンセンサスがない
音と文字は物
意味は見えないし聞こえない
冷遇し礼遇する
言葉に言葉を重ねるのは「ない」に対する根本的な解決策ではない
意味の意味について考える意味
「ない」が「ある」ように見える
意味は「ない」から「つくる」
言葉は伝わっても、意味は伝わらない
言葉の意味というまぼろし、言葉の実体というまぼろし
意味はまちまち
刺身のつまの製造を外部に委託する
内容は、ないよう
ゲシュタルト、ザイン、ダザイン、テーゼ、アウフヘーベン。
ドイツ語をカタカナにするとごちごちした感じがします。厳めしいのです。日本語における漢語に匹敵する物々しさを覚えます。濁音のせいでしょうか。あと、字面も。
シニフィアン、シニフィエ、エクリチュール、パロール。
フランス語をカタカナにするとほわーんとした感じがします。厳めしくはありません。私の印象を正直に言うと泡みたいなのです。鼻に抜けていく鼻母音のせいかもしれません。あと、字面も。
『存在と無』(日) がちがち
L'Être et le néant(仏) ほわーん
Being and Nothingness(英) で?
Das Sein und das Nichts(独) ごちごち
El ser y la nada(西) さらさら
言葉における発音と綴りの印象は大きいと痛感します。音と字面、ファースト。まるで内容は、ないようです。
【※引用はここまでです。】
言葉は声と顔が命
たしかに言葉においては、発音と見た目が大切です。
言葉は「声・音」と「顔・字面」が命。意味なんて刺身のつまだという気がしてなりません。
なにしろ、人はまず〇△Xという言葉――「声・音」と「顔・字面」――をつくり、次に「〇△Xとは何か?」――その意味(内容)を問う――と、えんえんと思い悩む生き物なのですから。
まさに内容は、ないようです。
いまもそうですよね。「〇△Xとは何か?」をめぐって、ああでもないこうでもない、ああだこうだともめています。
「あいつらは〇△Xだ」と国のトップが決めて、それに国民も他の国々も付き合わされる形で戦争になっている場合もあります。
暴力を合法的に行使できる権力を握っている人が、「黒いカラスは白いサギだ」と言えば、黒いカラスの意味は白いサギになる。
言葉の意味は、腕力、武力、暴力、権力、要するに力で決まるようです。その次に来るのが、お金と面子でしょうか。
お金をもらうためや失わないために、そしてなによりも自分(たち)の面子をたもつために、人は意味をつくったり意味を決めます。
言葉における「内容は、ないようだ」問題はきわめて深刻なのです。
意味が不明、コンセンサスがない
人はまず〇△Xという言葉――「声・音」と「顔・字面」――をつくり、次に「〇△Xとは何か?」――その意味(内容)を問う――とえんえんと思い悩む生き物である。
無数の〇△Xたちがあり、その内容つまり意味をめぐってのすったもんだが繰りかえされてきて、いまも繰りかえされている。
大昔の〇△Xたちについて意味が不明になっているとか忘れているのならまだいいです。
いまつかわれている〇△Xたちについて、同時代人たち、同じ言語を話すはずの人たちのあいだで、コンセンサスがあるようでないようなのです。
たとえば、「正義」という言葉ですが、相手がどういう意味で使っているのかはつねに不明なのです。
辞書なんか当てになりません。議論の最中に辞書を取りだしたら、相手に笑われます。笑われたら、もう負けたようなものです。
なんでこうなっているのでしょう。
音と文字は物
音と文字からなる言葉において、意味が刺身のつま、つまり二の次であるからに他なりません。
では、なんでこうなっているのでしょう。
意味が刺身のつま状態になっているのは、意味が見えないし、聞こえないし、手で触れることができないものだからとしか考えられません。
*
音は聞こえます。空気の振動として皮膚で感じる(触れる)こともできます。鼓膜を震わせているから聞こえるのですから。
音は物であると考えられます。
文字は見えます。紙の上のインクの染みや(かつての活版印刷された文字は指の先で触れました)、液晶上の画素の集まりみたいなのです(いまは文字は手と指で書くというよりも指で触りながら入力するものです)。
文字も物と見なしてよさそうです。
意味は見えないし聞こえない
言葉をなりたたせている音は物だから聞こえるし手で触れることができ、文字は物だから見えるし手で触れることができる。このように短絡して考えてみます。
意味はどうでしょう。
意味は見えません。辞書に載っているのは語義であり文字です。見ているのは文字であって、意味ではありません。というか、意味を見たことがありますか。
意味は聞こえません。手で触れることもできません。
だから、意味は刺身のつま状態にされているのにちがいありません。
冷遇し礼遇する
人は見えないものや聞こえないものや手で触れられないものを冷遇します。苦手だからです。知覚できないもの、知覚しにくいものに対して「んもー、知らない!」と業を煮やしているのです。
冷遇する一方で礼遇もします。見えないし聞こえないけど、言葉は意味なしで成立しないし、だいいちつかえないからに他なりません。
しぶしぶ「お意味さま」を礼遇し、「お意味さま」の確認をするわけですが、その作業の結果であり集大成が、たとえば法典、つまり六法全書や判例集のたぐいであり、契約書や念書や条約なのでしょう。辞書や経典や聖典や法則や公式もそうです。
とはいえ、これらは全部が文字です。目に見えます。音読すれば聞こえもします。要するに、意味は見えないし聞こえないという現実は変わっていないのです。
見えない、聞こえない、手で触れることができないものを固定することができますか? 文字という形で記して固定(複製・拡散・保存)したところで、それは意味を固定したことにはなりません。
言葉に言葉を重ねただけです。文字に文字を重ねただけです。
というわけで、人は
まず〇△Xという言葉をつくり、次に「〇△Xとは何か?」とえんえんと思い悩む生き物である。
という状態から逃れることはできないもようです。人にとってはこの状態が常態なのです。言葉に「内容はないよう」という鉄則はかなりしぶといようです。
言葉に言葉を重ねるのは「ない」に対する根本的な解決策ではない
なんでこうなっているのでしょう。
辞書や法典や経典や聖典や法則や公式をつくったり、議論や約束や契約や知識の更新をしても、言葉に言葉を重ねる(具体的には文字に文字を重ねる)、つまりある言葉やフレーズを言い換えたり置き換えたり変奏しているだけであって(いまやったのがそうです)、言葉に「内容はないよう」の根本的な解決策となっていないからでしょう。
ない袖は振れぬ、ですね。
「ない」に「ない」をどんなに掛けても賭けても欠けても架けても懸けても書けても、「ない」は「ある」にはなら「ない」ようです。いまやったみたいにです。
もしそうであるのなら、みんなで考えてみませんか。難しい問題だからと、機械に委託するのではなく。
意味の意味について考える意味
見えない、聞こえない、手で触れない意味を相手にするのはややこしいし難しいようです。
以下は、参考までに。
意味論(いみろん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
最新 心理学事典 - 意味論の用語解説 - 言語を科学的に研究するための言語学的な区分として,伝統的に単語以下の形態素など
kotobank.jp
意味論 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
河出文庫 意味の論理学〈上〉
ルイス・キャロルからストア派へ、パラドックスの考察にはじまり、意味と無意味、表面と深層、アイオーンとクロノス、そして「出来
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哲学の原点を転覆する試み ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」|好書好日
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「ない」が「ある」ように見える
話を戻します。
「ない」に「ない」をどんなに掛けても賭けても欠けても架けても懸けても書けても、「ない」は「ある」にはなら「ない」ようです。いまやったみたいにです。
*
「ない」は「ある」にはなら「ない」ようですが、「ある」ようには見えます。
面(具象・そのもの・そこにあるもの)に立体(抽象・その向こうにあるもの・そこにないもの)を見てしまうのです。これは「ない」を「ある」ように見ていることに他なりません。
人がのっぺらぼうな面――意味が不在である面(無意味な面ではなく)――に、顔や模様や奥行きや深さや遠近や背後を見てしまうのは、心が壊れないためなのです。
意味は「そこにある」のではなく、「人がそこにつくる」というのが適切な言い方だと私は思います。「意味がある」という言い方は無意味=ナンセンスだという意味です。
意味は「ない」から「つくる」
要するに、意味はないのです。無意味という意味ではありません。無意味には意味があります。どの辞書にも無意味の意味が語義として書いてあります。
「意味は不在なのだ」と苦しまぎれにレトリックを弄するしかなさそうです。
「意味はない」を、「意味はその時々の人の都合でつくるものだ」と言い換えることができる気もします。
つくる、こしらえる、でっちあげる、捏造する――どう言っても大差はありません。
*
ところで、この章のタイトルの「意味は「ない」から「つくる」」ですが、文字どおりに取ると二通りの意味が考えられます。
1)意味は「ない」ので、意味は「つくる」しかない。
2)意味は「ない」つまり「無」から「つくる」ものである。
このように、「意味は「ない」から「つくる」」という言葉はそっくりそのまま伝わっても、その意味はずれて伝わる可能性があります。このことについては次の章で触れますが、大切なことは、意味はないからつくるという意味です。
言葉はあっても意味はないのです。言葉の意味は、その言葉を発した人も受けとった人も、各自がそれぞれ自分でつくる(解釈すると言ってもいいです)しかなさそうです。
*
例を挙げます。
この国に数々ある、そしてこれまでに数々あった政党名を思いうかべてみてください。
名(音と文字)は体(内容・意味)を表わしているでしょうか。口あたりのいい、また見映えのいい美辞麗句にだまされてはならない、という生きた証拠であり教訓が政党名ではないでしょうか。
私なんか「えっ、どこが?」と思う名称ばかりです。与野党、大小、新旧、問わずです。
*
他の例を挙げます。
「真摯に」が「テキトーに」であったり、「スピード感をもって」が「のろのろと」であったりするのは、みなさんがご承知のとおりです。「分かった」が「分からない」、「承知しました」が「知るもんか」だなんて、当たり前ですね。
ある場面では、「だめよ、だめよ」が「いいわ、いいわ」、「ぜったいにいや」が「もっともっと」だったりもします。政治の世界がそうです。ビジネスの世界もそうでしょう。
*
民主主義、謙虚に、真摯に、丁寧に、誠実に、良心に恥じない……
○○を最優先する、守る、尊重する、みなさまの○○……
正義、公明正大、平等、倫理的、道徳的、中立……
絶賛された、評価の高い、今世紀最大の、誰もが泣いた、感動的、世界で最も……
論理的、普遍的、客観的、真理……
〇〇らしい、〇〇らしく、〇〇であるなら、本来あるべき〇〇の姿……
美しい、本当の、本物の、真の、本来の、理想的な、正しい……
以上のような言葉が聞こえたり目についたりしますが、その意味はつねに不明なのです。意味が不明ということは、どんな意味にもなりうるという意味です。
時と場合によってころころ変わります。さきほど述べたように、「だめよ、だめよ」が「いいわ、いいわ」にもなります。「平和的な解決」が「武力による侵攻」であっても不思議はありません。
言葉は伝わっても、意味は伝わらない
言葉は聞こえるし見えますが、意味は見えないし聞こえないからこうなるのです。伝わりもしないでしょう。
言葉は伝わっても、こちらの意味とあちらの意味が、何かのかたちで必ずずれるという意味です。
たとえば、日常生活、学校、仕事、病院、交友、遊びなどで、言葉をつかっていて意味が伝わったという感触をどれだけ得ているのでしょう。時と場合によるし、程度問題でしょうが、ちゃんと伝わっていますか?
その意味で、「言葉は伝わる」とか「言葉は意思伝達の手段である」というのは、「意味が(なかなか)伝わらない」という深刻な現状を無視した脳天気な美辞麗句であるとか、片手落ちの不正確な言い方であると言えそうです。
そうした言い回しがまかり通っているのですから、つまりきわめて大きな存在であるはずの意味が考慮されていないのですから、意味がないがしろにされているとか、意味が刺身のつまにされている証左とも言えます。
誇張ではありません。意味が伝わっていないことで、戦争が起きたり、そこまで行かない争いや、事故や事件や犯罪や問題が起きたりしているじゃありませんか。新聞を読んでください。ニュースを見てください。
もし私が意味だったら、腹を立てますよ、きっと。人は意味にリベンジされているのではないかと妄想しそうになります。
「私のことをちゃんと見てくれなきゃ、いや!」という感じ。
ちゃんと見てやりたいのですけど、意味さんは見えないのですよね。たしかに、ややこしい……。
もっと気に掛けてやりましょうよ。「面倒くさいやつだ」と避けないで。
言葉の意味というまぼろし、言葉の実体というまぼろし
話を少しずらします。
「言葉の意味」というまぼろし――意味は見えないし聞こえないし「ない」のですからまぼろしに他なりません――をちょっとずらして、「言葉の実体」というまぼろしについて考えてみます。
言葉(音と文字)と実体(まぼろし)とは関係がない。
そう言えそうです。
*
さらに話を少しずらします。
まず前提を確認します。
人はまず〇△Xという言葉――声・音と顔・字面のことです――をつくり、次に「〇△Xとは何か?」――その意味(内容)を問うのです――とえんえんと思い悩む生き物である。これが前提です。
そもそも言葉に実体があるとは夢にも思っていない私ですが、実体をその言葉が指し示す事物くらいの意味で考えてみましょう。
名付ける、名指す、AをBと呼ぶーーこうした人間の習慣と実体とは関係がない。そもそも実体という言葉に実体がないから。
そう言えそうです。
話を戻します。
意味はまちまち
繰りかえします。
意味は「ある」のではなく、「つくる」ものなのです。意味は「ない」から「つくる」という意味です。
誰が意味を「つくる」のかと言えば、個人であったり、特定の集団が「つくる」と考えられます。
しかも、それぞれが自分の勝手でまちまちにつくっているようです。
意味の意味はまちまちだという意味です。コンセンサスがないのです。辞書の語義は建前です。
辞書の語義どおりに話したり書いたりするほど、人は機械――機械はぶれないし疲れないし誤っても謝りません(ぶれたり疲れたり謝るようにプログラムすれば別ですけど)――ではありません。
刺身のつまの製造を外部に委託する
これからは、ぶれないし疲れないし誤っても謝らない機械やAIも意味を「つくる」にちがいありません。もうそうなっているのかもしれません。
人は考えることまで機械やAIに委託しはじめたようですから、機械やAIが意味をつくるのは妄想ではないでしょう。もうそうかもしれません。
作文はもちろんのこと、これからは思考と判断をはじめ、刺身のつま、つまり意味の製造も外部に委託することになりそうです。そうなれば、晴れて心置きなく思考停止と判断停止に邁進し、有意義に日を送ることができるでしょう。
妄想でしょうか。もうそうかも。
もし、もうそうであるのなら、みんなで考えてみませんか。機械に委託するのではなく。
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