意味のある影、意味のない影

  影も陰も姿も像も反射も、すべてがかげと呼ばれていることに気づきます。

(拙文「「気づく」は「遅れる」と同時に起こっているのかもしれません。」より)


目次
影をうつす、影がうつる
一対一に対応する目映い影
言葉という影が、影という言葉に
正確に、細かく、うつす
現実をうつす
「似ている」の世界、「同じ(同一)」の世界
もっともっと鮮明にうつす
作られた影
筋書きやストーリーのある影
影に影を投影する
筋書きも、目的も、意味もない影たち


影をうつす、影がうつる


 影といえば、映画や写真を避けて通るわけにはいきません。


 幼いころに映画館で見た映画を思いだします。映画館が真っ暗なのです。いまの映画館は明るいです。


 真っ暗な中で見る映画に惹きつけられ魅惑された記憶がかすかにあります。かすかで断片的なのですが、強烈なわくわくをともなう思い出なのです。


 映画も本来は銀幕上に投げられた「影」なのですね。その影に、人はいろいろなものを投影し重ねるわけです。影に影を重ねる映画の鑑賞はじつにスリリングな体験だと思います。


 銀幕上の影に、言葉という影を重ねる行為もです。



 写真も影ですね。


 私は映画にも写真にも疎いので、知っていることだけを頼りに書いてみようと思います。この記事のためにあえて調べ物はしないという意味です。


 できるだけ、いまここにあるもので、ああでもないこうでもない、ああだこうだをしてみるつもりです。


 映画、写真、映画用のカメラ、写真を撮るためのカメラ、望遠鏡、顕微鏡、影絵、幻灯、スライド、複写機。


 思いつくままに並べましたが、広げすぎたみたいです。それぞれの仕組みについてはよく知りません。まったく知らないものもあります。ただわくわくします。


 私は研究者でも探求者でもないので、分からないという気持ちと不思議だという思いを大切にして、楽しみながら書いてみます。


 気づくは、知るとか悟るとか分かるとは違う気がします。私には、気づくのほうがずっと大切に思えます。目に見えないものを求めて目を宙や彼方に向けるのではなく、目の前にあって気づかないものに目を向けたいのです。


 分からないときには知ろうとしたり分かろうとするのではなく、気づかないものに目を向ける。これが私には合っているようです。横着なのでしょうね。


一対一に対応する目映い影


 話を映画と写真に絞ります。ざっくりと両方とも影だという前提で話を進めます。映画と写真で思いだすのが、写像という言葉です。中学か高校か覚えていないのですが、たしか数学の授業で聞きました。


 ぼんやりとしたイメージは、AというグループとBというグループがあって、それぞれの構成要素が一対一で対応しているとか、多対一とか、そんな話だったと記憶しています。


 調べれば真偽が明らかになるのでしょうが、あえて調べずに、いま述べたイメージに沿って書いてみます。


 大切なのは、一対一で対応するという話です。とても刺激的なイメージです。


 昔の写真で、すごい解像度のものをテレビで見たことがあります。モノクロで見るからに古い写真なのですが、細部が半端じゃなく鮮明なのです。鉱山の写真だった気がします。


 集合写真もあったのですが、百人近い人たちが会しているのです。その一人ひとりの顔がそれなりにはっきりと写っていました。


 写真は影なのに目映いくらい映えるのです。「映る」は「映える」。人が写し映した人工の影だから、映えるし生えるし栄えるのです。


 一対一に対応することを押しすすめた、人のつくる影はあまりにも目映く、人が追いつけないくらいに鮮明なのです。


言葉という影が、影という言葉に


 ここで頭の整理のために、「うつる・うつす」を使って作文をしてみます。言葉は文の中で生きるからです。「うつる・うつす」とは? なんて考えても何も出てきそうにありません。


 写真に姿が写る。母と写っている写真はこれしかない。このページに裏ページの絵が写っている。


 板書をノートに写した。写本。写経。筆写。書写。複写。写生。


 鏡に顔が映る。水面に木の姿が映る。影が壁に映る。障子に人の影が映る。この辺はテレビがよく映らない。テレビにあなたの家が映ったよ。目に映る像。


 プロジェクターを壁に直接投影する。プロジェクター映像を白い壁に映す。映写機。



 難しいですね。こういうのは苦手です。辞書や用字用語集を参照しないと作文できません。大ざっぱな表記と言葉の使い方がつかめたので、これでよしとしましょう。



 影には「物の姿」という意味もあるのですね。


 上の例文を見ていると、言葉は影だとつくづく感じます。影という言葉が言葉という影に擬態して、表情豊かに影の舞と言葉の揺らぎを演じている。そんな気がします。


 言葉という音声の波や文字の形にも、影という光の濃淡にも、それが外にある限りは意味がないのです。それでいて、外にない限りは見て確認することができない。意味は人の中にある揺らぎではないか。そんな気がしてなりません。気がするだけです。


 影は言葉をなぞる。言葉は影をなぞる。なぞるはなぞ、鏡にうつる影のように永遠に解けない謎。


 影を前にして、人はなぞるしかなさそうです。


正確に、細かく、うつす


 上の作文を見ていると、話が大きくなり、どんどん広がりそうな予感がするので、なるべく広げないようにします。


 私にとっていちばん大切というか興味深いのは、一対一に対応するということなのです。


 映画も写真も一対一に対応させるのが目的で作ったものだという気がします。言い換えると、風景や物を正確に、しかも細かく、そのままに「うつす」ということでしょう。


「そのまま」というのは曖昧な言い方ですが、今回は深入りしないでおきます。これを本気で考えるのは素人には無理だという気がします。わくわくしないし、楽しくもなさそうです。


現実をうつす


 物や風景を写真という形で、一対一に対応させる。


 あっさり書きましたが、すごいことです。気が遠くなりそうになります。現実を「うつす」、つまり写し映し移すわけです。そんなことが可能とは思えないだけに、すごいなあと感心してしまう自分がいます。


 うさんくさいのです。荒唐無稽にも感じられます。平たく言えば、「うっそー!」です。「ありえない」です。「よく言うよ」とも思います。


 現実を「うつす」のですよ。信じられません。少なくとも私には。



 現実は現実。現実と写真は違う。現実と映画は違う。写真は写真。映画は映画。ですよね。


 現実は現実。現実と絵画は違う。絵画は絵画。ですよね。


 現実は現実。物は物。言葉は言葉。言葉は現実ではない。言葉は物ではない。ですよね。


 でも、そうじゃないと思っているらしい人が多い気もします。尋ねたことがないので知りません。想像しているだけですけど。


 似ているとは思います。同じとは思いませんが、似ているし、激似、酷似、そっくりだと思うときもあります。


 だから、写真や映画やパソコンやスマホの映像や動画を見て、わくわくぞくぞくはらはら、それに心臓バクバクもします。燃えるし、萌えるし、もよおしもします。


 でも、両者は違うと思います。同じとは言えない気がします。でも、似ていることは確かです。似ていると同じは違います。


「似ている」の世界、「同じ(同一)」の世界


 力フカ


 ふつう「カ」(カタカナ)と「力」(漢字)は区別できません。「ロ」と「口」も区別できないでしょう。



 似ていると同じ(同一)は違います。


 影は「似ている」の世界にいる(ある)と言えそうです。器具や器械や機械をつかわないと「同じ(同一)」を確認できない人間も「似ている」の世界に生きているのでしょう。


 人は「似ている」という印象の世界(見える世界)から「同一(同じ)」の世界(観念の世界)を夢見ているのかも知れません。


もっともっと鮮明にうつす


 一対一に対応する。


 うーむ。対応するのでしょうか。すかすか、まだら、まばらならできる気がします。解像度の問題でしょうか。


 これくらい鮮明なら、ま、いっか。ここまでそっくりなんだから、ほぼ同じっぽい。いや、もっともっと、くっきりはっきり、リアルに。


 欲張れば切りがないと思います。贅沢を覚えるとエスカレートしそうです。これ以上を望みたいとは思いません。


作られた影


 写真や映画は作られた影です。地面や水面にうつった影とはそこが違います。


 なんでわざわざ作ったのでしょう。見るためにでしょうね。


 何を見るためでしょう。「そっくり」を見るためではないでしょうか。


「そっくり」を見るためには、正確で細かくなければなりません。解像度を高めるわけです。これは切りがありません。もっともっとになります。


(何にそっくりなのかといえば、現実にそっくりなのであり、同時にそれは人にそっくりであり、自分にそっくりなのだという気がします。このことについては、いつか記事として書いてみたいです。)



 作られた影には特徴があります。枠があるのです。フレームとも言います。写真や映画には枠があります。うつす紙やスクリーンにも枠というか限度があります。


 無限に広がった紙やスクリーンにうつすわけにはいきません。人間、そこまで欲張ってはならないでしょう。


 映画であれば時間的な枠もあります。制限時間というか作品の時間ですが、これは長いものを編集したもののようです。たとえば、ディレクターカットとか言いますよね。完全版も聞いたことがあります。トレーラー(予告編)もあります。


 いろいろな編集が可能だけど、最終的にとりあえず作られ配給されたのが「作品」みたいです。それぞれ、長さ、つまり上映時間が異なると考えられます。


 いずれにせよ、作られた影には空間的な枠も時間的な枠もあると言えそうです。空間と時間を切り取っているからでしょう。切り取ることにより、切り捨ててもいるにちがいありません。


 やはり作りものなのです。うさんくささがつきまといます。


筋書きやストーリーのある影


 作られた影には筋書きやストーリーもありそうです。筋書きとは作られたものです。物語であり、フィクションのことです。


 写真であれば目的やテーマです。つまり記念写真だとか、エロ写真だとか、可愛い動物とか、報道写真とか、ブロマイドとか(死語ですか?)、カボチャの成長の記録とか、指名手配とか、漠然と「涼しげな風景」とか、キャプションみたいなのです。


 映画であれば、作品名、あらすじ、脚本、受賞歴、批評家や映画誌での評価、ジャンル、成人向けか否か、サウンドトラック……、あとが続きませんけど、いろいろありそうです。とにかく、目的やテーマのほかに、話というかストーリーがあります。


 ネットなんかの動画であれば、情報カメラによる映像とか、お笑いとか、ユーチューバーの動画とか、PVとか、MVとか……、目的やテーマやジャンルや用途があります。


 要するに、地面の影、水面の影、鏡に映った影(像)とは違って、何らかの目的やストーリーがあって作られているわけです。



 鏡像というのも、じつは作られた影ですね。そもそも鏡は作るものです。丹念に磨きあげて作ります。作られたものに映る影は特別なものであるはずです。


 自然界で水面を覗きこむのとは一線を画してしかるべきだと思われます。


 鏡には枠があります。何らかの目的があって、作られているし、それぞれの目的があって各人が枠のある鏡を覗きこむわけです。目的があるのですから、その始まりと終りという時間的な枠もあります。


 お化粧、試着、顔色を見るため、歯磨き、うっとりするため、白髪を確認するため、毛の残り具合を確認するため、口内炎の状態を見るため、鼻毛を抜くため……。


 ぱっとしない目的とストーリーですけど、ドラマがあることは確かです。じつに人間くさいドラマです。



 作られた影には作られたストーリーとドラマがある。


 なんてまとめることができるかもしれません。したがって、筋書きがあるとも言えますし、フィクションであるとも言えそうです。


「そのまま」撮ったと言っても、ある視点から撮影したのであり、機器を用いる以上、修正と調整と加工と編集なしには撮影と再生はありえません。


 また、作意も作為もノイズもアクシデントも、撮る者の意図なしに生じるものですから、撮ったものは(写し映したものは)、どうしてもフィクション(作り物)であり、偶然の産物になります。


 こうしたことは、私のような素人がここで指摘するたぐいの話ではなく、現場で撮っていらっしゃる当事者の方々がいちばんよくご存じのはずです。



 ストーリーとドラマは動きです。広い意味でのプレイ(play)、つまり演技、演劇、ドラマ、遊戯、演奏、競技、パフォーマンスがつまっているとも言える気がします。


 だから、わくわくするのです。どきどきもするのです。ぞくぞく、あらら、という感じです。撮る側ではなく見る側の私はそれを楽しむだけです。


影に影を投影する


 作られた影には、作られたストーリーがあるという話でしたね。そう考えると、やっぱり現実ではないわけです。作った物ですから当然です。フィクション、虚構です。


 ましてや、一対一に対応しているなんて、まさにフィクションでしかないわけです。



 現実は現実。現実と写真は違う。現実と映画は違う。写真は写真。映画は映画。ですよね。


 現実は現実。現実と絵画は違う。絵画は絵画。ですよね。


 現実は現実。物は物。言葉は言葉。言葉は現実ではない。言葉は物ではない。ですよね。



 とはいうものの、写真や映画という人工的な影に、人は自分を投影したり、現実を投影したり、世界を投影したりするのでしょう。影に影を見ているとも言えそうです。


 影に心を投影する。影に心を投げて、そこに心の影を見る。


 わくわく、ぞくぞくする話であることは間違いありません。


筋書きも、目的も、意味もない影たち


 テレビ、映画、写真、絵画、文学、美術、映像、動画――こうしたものは人が現実の影、つまり現実とそっくりなものを求めて作った影です。


 目的があり、ストーリーやドラマ、つまり意味のある影です。だからぞくぞくわくわくするわけですが、これだけ意味に満ちた影に囲まれて生きていると疲れることがあります。


 外に出て、たとえば木々が地面や水面に落とす影たちを見るとき、ほっとする自分がいることも確かです。その影たちには意味がないのです。ストーリーも目的もありません。ただそこに「ある」あるいは「いる」だけです。



 外に出なくても、屋内でまわりを見まわせば、意味のない影たちがいます。さまざまな家具や製品という人工物の影のことです。いま私のいる居間にはいろいろな光源があり、いろいろな物たちがあちこちに影を投げたり落としています。


 映ったり写ったり移ったりする影たちもいます。誰かが動けば、何かが動けば影は移ります。揺れます。時の経過とともにもうつります。そうでなくても、つねにかすかに震えているのが分かります。


 そこには筋書きもドラマもありません。


 意味に疲れているからでしょうか。私は最近、意味のない影たちの意味のない揺らぎに心を動かされます。ほっとするのです。


 影を前にして、人は迂回するしかなさそうです。おそらく言葉という影にまどわされながら、でしょう。人が(に)先立つ影に、人が導かれるはずがありません。人は影には追いつけません。気づくのにいつも遅れるのです。全体像を目にすることさえできないのです。


 ぼけーっと影をながめながら生きる。これは人に備わった健全な知恵だと思います。さもなければ壊れるでしょう。だから、ぼけーっとしているのです。私のことです。手遅れかもしれませんけど。



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