人は存在しないもので動く
いましているのは、絵、映画、映像、動画、演劇、物語、小説の話です。虚構というものは「ない」を「ある」と一時的に信じ、しかもそれを自分自身も心の中で演じるわけですから、確かに変なことをしていると言えます。要するに、映る、写る、移るです。
(……)
以上は、スラヴォイ・ジジェク経由のジャック・ラカンについての私なりのまとめとも言えるものなのですが、頭にあるのは赤ちゃんだけではありません。赤ちゃんから成人までを想定しての話です。
(拙文「私たちはドン・キホーテとボヴァリー夫人を笑えるでしょうか?」より)
目次
開いた窓
斜めから見る
「見えないもの」を想像して見ることで、それが「ある」と決める
何でも俯瞰できるという錯覚の心地よさ
地球的規模で考えれば、誰もが傍観者
斜めから見ると見えるという話
人は有るものよりも無いものによって動いている
手に届かないAの代わりに、手に届くBで済ませている
あとはレトリックだけの問題かもしれない
開いた窓
ある少女が巧みな話術で、今はここにはいないある人物について語る。それに聞き入るあなた。そこにそのいないはずの人物がいきなり現われる。当然のことながら、あなたはびっくりして腰を抜かしそうになる。それほど少女の話はリアルだった。実在よりも不在のほうが、ずっとリアルだった――。
その村には不気味な廃屋がある。肝試しに村の若者たちが一度は訪ねて一夜を過ごして帰ってくるのだが、そこを訪ねた若者は誰もが口ごもる。それほど恐ろしい目にあったらしい。何を見たのか。その村に、ある男がやって来て、その幽霊屋敷の話を聞きつける。男はその家に行って一夜を過ごし、「何も見なかったし何も起こらなかった」と笑う。男は村人に殺される――。
以上の二つの話に共通するのは、有りもしないことを信じる人間の想像力の強さでしょう。二番目の話では、その有りもしないものの想像が打ち破られることへの怒りも表現されています。
*
人は有るものよりも無いものによって動いているのではないか。そんなふうによく思います。
無いものは力を持っているとしか考えられません。今ここに無いのに力を持っているとも考えられるし、今ここに無いからこそ力を発揮するのだとも考えられます。いずれにせよ、不思議な話であり、恐ろしくもあります。でも、それが人の常態なのです。人にとってだけの話(=フィクション)とも言えるでしょう。
「馬鹿な話だ。無いものが力を持つわけがないじゃないか」そうお思いの方もいらっしゃるでしょう。一方で、「そうそう、そのとおり。無いものこそが力を持っている」とうなずいてくださる方も、少なからずいらっしゃる気がします。
*
そういえば、ないものをめぐっての小説を書こうとしていたことがあります。連作というかシリーズです。
自分にはない男性器を備えた「存在」に取り憑かれた女性の話(「存在」とは「人間」ではなく、小説や漫画やアニメや映画の登場人物のことなのです)――。
自動車事故のために切断された足の痒みに悩まされたり、今はない足にまつわる記憶に耽る少年の話――。
持ち主のない、つまり持ち主を失った物を見るとその物の来歴が頭に次々と浮かんできてとまらなくなる老女――。
そんな具合に、ないものが登場人物を翻弄するという一連の話を書こうとしたのです。
こういう書きかけの小説であったり、小説のアイデアにしかすぎないものについてあれこれ思うのが好きです。つまり、ないものをめぐって考えるというわけですね。
私は本の広告が大好きです。朝刊の第一面から次々とめくっていって各紙面のいちばん下にある書籍の広告を見ていくと眠気がなくなります。そのために朝日新聞を購読していると言ってもかまいません。
知らない本のタイトルやそれに添えられた短い説明を読みながら、その中身を想像、いや空想するのです。わくわくします。書評はたいてい長すぎて興ざめします。読んでもいない本のことをブログに書いていた時期もありました。
「架空書評」を書いているうちに、そこから小説ができあがるというきわめて安直な方法を編み出したこともあります。拙作「【小説】奪還(全10話)」と「架空書評:奪還」がそうです。私の小説はほとんどがそうやって書いたものなのです。
学生時代には文芸作品を読まずに文芸批評ばかり読んでいました。言葉に言葉をかぶせて重ねていく手際がスリリングだったのです。映画を観ないで映画評を見るのも好きです。このことは、「【小説】知らないものについて読む」という記事に書きました。私という人間のいい加減さがよく出ている文章です。
*
話を戻します。
「ないもの」シリーズを書こうとしていた頃に頭にあった作品がいくつかあります。たとえば、サキの『開いた窓』、パトリシア・ハイスミスの『黒い家』(ブラック・ハウス)、そしてW・W・ジェイコブズの『猿の手』です。
この三編の作品はどれも解説するとネタバレになる恐れがあるので気をつけなければなりません(実はもうしちゃいました、ごめんなさい、でも作品を読んだことがある人にしか分からないやり方をしましたので……)。「ないもの」や「目に見えないもの」が人を恐怖や不安や悲しみにおとしいれる(期待や熱狂や幸福感を覚えさせる場合もあります)、とだけ言っておきます。
斜めから見る
上の文章を書いていてあることを思い出したので、確認のために二階に上がって書棚からある本を取り出してきました。
スラヴォイ・ジジェクの『斜めから見る』です。
スラヴォイ・ジジェクという人は、映画や小説や大衆文化や政治を題材に、とても面白いこと(あるいは、ぜんぜん面白くないこと)をめちゃくちゃ面白く語るので、YouTubeで検索してみるのもよろしいかと思います。
私なんかジジェクの動画に見入ってしまいます。話の内容よりも、ジジェクの仕草や表情に、です。そのレトリックだらけの話術に魅惑されないでいるのは難しいのではないでしょうか。
*
私が「ないもの」シリーズという連作小説を書こうと思い立ったのは、このジジェクの本を読んでひらめいたからだとも言えそうです。
この本の文章は決して読みやすくはありませんが、具体的に映画や小説のタイトルや作家名が出てくるので、そこだけに目をやって各作品に当たる、あるいは当たらない、という読み方もできます。げんに私はそうしていました。私の場合には、各作品には当たらないという意味です。
とにかく面白いのです。後ろにある「原註」だけでも、読んでいてわくわくします。原註のほうが断然面白いと言ったら、ジジェクさんと訳者の鈴木晶さんに叱られそうですけど。
映画、特にヒッチコックに関するジジェクの文章は、その訳が分からないところがとても刺激的かつ最大の魅力で、ついさっきも再読しながら酔い痴れていました。
「第二部 ヒッチコックについてはいくら知っても知りすぎることはない」にある「第5章 ヒッチコックにおける染み」が面白いです。ここから、ジャック・ラカンに行くという手というか、道もあるでしょう。勉強にもなるという意味です。ジジェク経由ラカンはラカンに赴くのに手っ取り早い方法だと思います。
(※「ヒッチコックについてはいくら知っても知りすぎることはない(One Can Never Know Too Much about Hitchcock)」なんていうタイトルを付けるところが、ジジェクの話術とレトリックのうまさのあらわれです。煽るのです。ちなみに、これはヒッチコックが監督した『知りすぎていた男』(The Man Who Knew Too Much)のもじりでしょう。こういう言葉遊びやアリュージョン(言及・ほのめかし)も、ジジェクは得意であり、かなりの芸達者と言えます。)
この章の冒頭で、ジジェクはヒッチコックの「海外特派員」を取り上げ、チューリップ畑が続くオランダの田舎で「風車の一つが風向きと逆に回っている」ことに主人公が気づく場面に注目するのですが、次のように要約できるでしょう。
見慣れた風景(オランダの風車の並ぶ風景)に、ちょっとした特徴(風向きと逆に回っている、一つの風車)が加わったとたんに、その自然な風景が不気味なものに変わってしまう。そこには属さない場違いな、つまり何の意味も持たない細部が加わったのである。
こんなふうに、ジジェクは指摘するのですが、この指摘に続く部分を引用してみます。
(中略)シニフィエを伴わないこの「純粋な」シニフィアンが、他のすべての要素にとっての補足的・隠喩的な意味の発生をうながす。それまではまったくありふれたものと見なされていた状況や出来事が、どこか奇妙に見えてくる。われわれはいきなり二重の意味の世界に入り、あらゆるものがなにか隠された意味をもっているように見えてくる。ヒッチコックの主人公――「知りすぎている男」はその意味を解読するのである。(後略)
(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、青土社 pp.168-169)
[...] This "pure" signifier without signified stirs the germination of a supplementary, metaphorical meaning for all other elements: the same situations, the same events that, till then, have been perceived as perfectly ordinary acquire an air of strangeness. Suddenly we enter the realm of double meaning, everything seems to contain some hidden meaning that is to be interpreted by the Hitchcockian hero, "the man who knows too much." [...]
("Looking Awry: An Introduction to Jacques Lacan through Popular Culture" by Slavoj Zizek The MIT Press p.88)
以上の見解は、映画だけでなく人の見る行為(ひいては五感を用いて知覚する行為)における不可避な錯覚を示唆しているように私には思えます。
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簡単に言えば、人は「見えている」はずのものをしばしば「見ておらず」、むしろ「見えないもの」を「想像して見ている」(いわば鏡の中に見ている)のであり、「見えているはずのもの」よりも、その「想像して見ているもの」のほうにより興味と愛着を持っていて、その結果として、人には「ないもの」を「ある」と錯覚し、さらにはその錯覚を強化して「ある」と決めるという仕組みが備わっている、ということです。
いま述べたのは、スラヴォイ・ジジェク経由のジャック・ラカンについての私なりのまとめでもあります。
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ふつう人はそれに気づきませんが、何らかの「異化」によって気づきます(または、思い出します)。その「異化」が、このヒッチコックの映画では「風車の一つが風向きと逆に回っている」であり、ジジェクに言わせると「シニフィエを伴わないこの「純粋な」シニフィアン」なわけです。
この「異化」に気づくのは、映画の主人公なのですが、さらには映画の観客の一人である、あなたも気づくことになり、その結果あなたもまた映画にまきこまれる――、ジジェクはそう指摘します。
ジジェクの文章(邦訳と原著の英文)は読みにくいですが、難解ではありません。難解(解きにくい)とは、私に言わせると、ないことをあるように断言したり、ほのめかすからなのです。多くの哲学学者の文章がそうです。ジジェクはないことはないとほのめかします。だから、読みにくいのですが明快であり難解ではありません。「読みにくい」については、後でまた触れます。
「見えないもの」を想像して見ることで、それが「ある」と決める
人は「見えないもの」を「想像して見る」のであり、「ないもの」を「ある」と錯覚し、さらにはその錯覚を強化して「ある」と決めるという仕組みがある――。
それだけにはとどまらないと私は考えています。
人は「見たいもの」(それが「見えない」にもかかわらず)を「見える」と決めるために、その根拠となりそうなものを求めるのです(この「求める」を「欲望」とか「欲求」というもっともらしい言葉で作文することもできます)。
こうも言えるでしょう。人はないものをあると決めるために、その根拠となりそうなものを求める。その根拠は何であってもかまわない。いわば、イワシの頭も信心からの「イワシ」は何でもあってもいいのです。
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たとえば、人は自分の顔や姿を直接見たことはないし見えない。このことにもっと目を向けていいし意識していいのではないかと個人的に思っています。あらためて考えれば不思議なことだし、それを意識しないなんてとんでもない抽象だという気がしてならないのです。
個人として、そしてヒトという種というレベルでも、です。見ると見えるのが当たり前のようになっていて、鏡や写真などで間接的にしか自分を見ていないという事実に考えが行かないのは、いくらなんでもそそつかしいし、うっかりすぎるのではないか。自分を含めてというより自分をど真ん中において、そう思います。
私は考える、だから私は存在する。これは疑いのない事実だから、これを一般化してものを考えていい。そんな言い方があるくらいですから、私も自分の「見る・見える」を前提にして物を考え、それを文章にしていくしかない気がします。
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どんな文学作品も、哲学の著作も、宗教的な文章も、あらゆる学問の論文も、とどのつまりは私的な感想文であり、フィクションという点で物語であり小説に思えてなりません。根本に「私」の知覚があるからであり、「ない」を基盤とする言葉を用いているからです。そこを出発点にして、考え、書くしかないという意味です。
誰もが自分という枠の中にいて、そこから枠の外を見ているわけです。それなのに、自分は枠を超えて見ていると思いこんでいる、あるいは自分は枠を超えた存在だと思っている。自分の姿を自分の目で見たことがない存在なのにもかかわらず。
それでいいのでしょう。致し方ないという意味で、それしかないと言うべきか。それが人なんでしょう。もちろん、この私もそうです。以上の私の文章も私が自分の知覚をもとにして書いた感想文でしかありえませんし、そもそもこの記事は小説として書いています。
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言葉が世界を見えなくしているのではないか。たとえば「見る・見える」という言葉があるから、「見る・見える」が当然で疑う余地のないことだと思いこんでいるのではないか。最近、よくそんなことを考えます。なぜ見えるの? だって見てるんだもん。何が見えるの? 見ているものに決まっているでしょ。というわけです。すごく明快だと思います。
私は見る、だから私は存在する。見ることと見えることに何の疑いもいだかない、いだく必要なんてあろうはずがない――。
見るという行為がどんなことなのかを考えようとしないのは、考える必要がないからでしょう。考えてもいいことはなさそうだと、体が知っている(いや、むしろ体感を裏切って頭が盲信しているのでしょう)のかもしれません。だから、自分の姿も顔も肉眼で直接見たことがないとか、見た人間はいないし、いなかったし、これからもいないという事実に思いが行かないのです。
でも、私はそんなことをこのところしょっちゅう考えています。
何でも俯瞰できるという錯覚の心地よさ
いつだったか、牧羊犬が羊の群れを誘導する様子をドローンか何かで撮影したらしい動画を見たことがあります。羊たちも犬も上空から見るとほとんど点なのですが、その点の動きが美しいのです。犬らしき点が動きまわり、羊たちらしい点の集まりが形を変えて、ある方向へと導かれていきます。犬の動きには無駄がないのです。上から見るとちょっと動いているだけで、羊たちを着実に囲いの中に誘いこんでいるように見えます。
こういうの俯瞰といいますね。犬にはそうした上から見た映像が見えているとは考えられません。それなのに、無駄なく正確に、人が望んでいる方向へと多数の羊たちを誘導するのですから、奇跡を見ている思いがしました。
そのときに連想したのは、テレビで見るサッカーの試合の映像でした。サッカーの選手の動きは、複数のテレビカメラによって映像化されているわけです。遠方の高い位置から俯瞰的に撮影した映像もあれば、各選手の体の動きや顔の表情やその汗の流れさえ間近で見えているような接近した映像もあります。
ある選手に注目していると、敵と味方を含めた選手たちの位置と動き全体を、あたかも俯瞰しているような驚くべき動きを見せることがあります。上で述べた牧羊犬のように、フィールドの中の一点としてその位置からの視点で見ているはずなのに、まるで羊の群れ全体の位置と動きを把握しているかのような動きをするのです。
サッカーの試合のライブも臨場感があってわくわくしますが、試合中に複数のカメラで撮った映像を試合後に編集して見せる場合には、もっと驚くべき動きが紹介されることが多々あって、ぞくぞくします。何であんな離れたところが見えているような動きをするのだろう。背中に目でもあるのだろうか。視界にあるものから視界にないものの動きを察知しているとしか思えない。さもなければあれは魔法だ、いや奇跡なのか。
*
人は俯瞰が好きです。何でも視覚化できるだけでなく、何でも俯瞰できると思いこんでいる節が見られます。地域地図、世界地図、航空写真、宇宙の画像。集合写真も、俯瞰の一種かもしれません。クラスの全員が映っていれば、全員を把握した気分になれるからです。
俯瞰とは、場所、つまり空間だけではありません。時間的な俯瞰もあります。スケジュール表、タイムライン、カレンダー、年表などは、時間を見える化するだけでなく、時間の流れを時系列で視覚化する仕掛けとか仕組みとか装置だといえるでしょう。
地誌・地史、家系図、伝記、国の歴史、世界史、文学史、音楽史、科学史、宗教の歴史というぐあいに、個々の事象にまつわる出来事を時系列で記述しようとする人の試みと情熱には驚かされます。
図書館、博物館、美術館、博覧会も、それぞれが俯瞰の一形態だと見なすことができるでしょう。百科事典、辞書、図鑑、博物誌のたぐいも、空間(地球・宇宙)だけでなく時間(歴史・有史以前)の俯瞰を指向していますね。人の飽くなき意志と欲求に驚かされます。
俯瞰という身振りは、人が初めて水面に「かがみ」こんで自分の姿を見た身振り、そして鏡を作り毎日鏡に見入っているという身振りに重なります。自分を見ているつもり。でもその鏡像と映像は自分ではないのです。見えているのは自分ではなく自分の影、幻影なのです。人は自分を肉眼で見ることはできません。ここに「見る・見える・見ない・見えない」の原点がある気がします。
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ところで、文学史に出て来る人は特定の人物でしかないことに気づき、唖然としたことを思い出しました。よく考えれば当たり前なのです。文学史に限らず、文学について語るさいに登場する作家たちは、文学の歴史すべてをすくい取った人選ではありえません。
幸運にも同時代や後世の人たちから注目されたりもてはやされた書き手で、その作品が原稿や日記や印刷物として残っている人だけが、いまも作家として取り上げられているにすぎないのです。中にはある時代に評価され、いまは忘れ去られている書き手もいるにちがいありません。
それなのに、あたかもある特定の作家だけが作品を書いていたかのような扱いを受けているのは、よく考えれば不思議な出来事です。
音楽もそうでしょう。科学もそうでしょう。芸術一般もそうであるにちがいありません。選択と排除の結果です。「評価」や「価値」という言葉には、そうした側面があることを忘れてはならないと思います。綺麗事ではないという意味です。
宗教も例外ではありません。異端、刑、罰、悪などの名のもとに、それだけの人や生活がなきものにされた、つまり排除されたことでしょう。その結果が、現在の各宗教のありようであり、かたちなのです。みなさんがご存じのように、排除が続いている地域が世界にはまだあります。
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ある「特定の人」と「特定の作品や本や理論や法則」だけが残っているを必然と見るのか、それとも「たまたまそうなっている」のだと見るのとでは違う気がしますが、一方で「そうなっている」ということの重みはあまりにも重大なので、「それしかない」という無力感に襲われてしまう自分がいます。
考えても仕方ないたぐいの問題なのでしょうね。考えてもくたびれるだけです。
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いつだったか、「人は一つのテレビ画面しか見えない」みたいなことをブログで書いたことがあります(※「1人に2台のテレビ」と「人面管から人面壁へ」)。もちろんそれは比喩なのですが、何を言いたかったのかというと、人には見える、つまり集中して見ることができる画面は限られているのではないかということなのです。
一つなのか二つなのか数は分かりませんが、複数の画面を集中して見ることはできないという気がいまもします。この「画面」を意識とか認識と言い換えてもかまいません。
いま述べたのは個人レベルの話なのですが、地域とか国とか世界というレベルで考えてみた場合、何千万、何億、何十億という個人を集めても、ある程度限られたキャストの舞台とかドラマとか映画とか小説しか(もちろん比喩です)、人間は見ることができないし、認識できないし、意識できない気がします。要するに限りがあるという意味です。
*
多数(おびただしい数のというべきでしょうか)のものごとを、あるいは多量の情報を処理するには人の脳は容量が小さすぎるとも言えそうです(認識や知覚がからむと脳だけでなく神経系統の機能に限界があるからだとも考えられます)。
だから、書籍とか文書とか資料とか、それを収める図書館や博物館、そして通信機器と情報通信技術、およびそれらが洗練され発展したコンピューターやインターネットなどという記憶装置と伝達装置を人は作って補っているのでしょうね(この辺の知識が乏しいので稚拙な表現しかできなくて申し訳ありません)。
地球的規模で考えれば、誰もが傍観者
ところで、見殺しにするという言葉は的を射てなかなか「言えている」と思います。見えていることで、人を殺しているとか、助けないのですから、自分を含め、誰もが免れない事実ではないでしょうか。地球的規模で考えれば、誰もが傍観者なのです。救える命(たとえば貧困で苦しんで飢え死に寸前でいる人たちです)がたくさんあることを承知しながら、のほほんと生きている。
見ることと殺すことが同義になってしまいます。屁理屈と言われるでしょうが、私はこの理屈を否定できません。さらに屁理屈を言わせてください。スマホに見入っている人は、見ているというより、何かに入りこんでいる。ゲームの世界、誰かとの言葉や映像のやり取り、何かのトレードとか商取引、楽曲の中、動画の中に、です。
要するに、「見る」が、「プレイする(遊ぶ、賭ける、演奏する、演じる、競う)」とか「商う」とか「話す」とか「もえる(要するに欲情するという意味です)」とか「いじめる」とか「幸せにする」だったりするわけです。
ネットを利用して世界旅行もできます。「見る」が「移動する」になるわけです(ゲームもそうでしょうね)。私もよくやっているのですが、ストリートビューで知らない土地や過去に訪ねた場所をよく歩いています。上空を飛んでいる場合もあるみたいです。そういえば、ストリートビューは「見る」のではなく「撮影する」行為なのだという卓見をnoteの記事で読んだことがあります。
たしかに、ストリートビューは見ていると撮影するが同時に起きている気がします。そうなると、スマホのカメラで撮影することと、スマホを見ることの境がとても曖昧に思えてきます。見ると見られるの境も不明になります。ネットに接続することで、誰かに、あるいはビッグブラザーに見られるのです。見ていることは見られていることである、という状況を私たちは生きているわけです。
パソコンやスマホの画面を覗きこんでいる、いま、この時点もです。
SNSなんかであるツイートや記事を閲覧することが傍観することであったり、その文章や映像が何らかの犯罪につながるものであれば、閲覧と拡散が加担や共犯にならないとは言い切れません。
じっさい、そんなケースもありますね。いつだったか、「不祥事」を起こしたとされるある芸能人が記者たちから集団でハラスメントを受けているのを閲覧していて、はっと我に返り、自分はこのハラスメントの共犯者ではないかと思ったことがありました。見ることで、知らない間に「見ている行為に加担している」のです。
かといって、その気づきの上に立ち、私が何か積極的な行動をしたわけではありません。私が共犯者であるなら、共犯をつづけたと言われても返す言葉ありません。
*
話が飛びすぎました。人は「見ている」のではなく「見る」という言葉を使うことで(あるいは使われることで)「見ていると決めている」のではないかという話でした。また、「見る」がほかの行為と同時に起こっているのではないか(たとえば(仲間を)「殺す」が、ほかにもあるはずです)とか、あるいは「見る」が「何もしていない」と等しいこともありえるのではないか、という話でもありました。
鏡に見入る人はそして人類は、鏡の中の住人または囚われ人なのです。鏡の中がどれだけ自分とその世界を反映しているというのでしょう? 鏡や画面に枠があることを思い出しましょう。無限に広がっている鏡なんてないのです。果たして、人はそして人類は「見えている」のでしょうか? 何を、どれだけ、どんなふうに見ているのでしょう?
*
話を戻します。
「見る・見える」という行為は、実は「見る・見える」という言葉を代理に使って済ませられるほど単純なものではないように思われます。
たとえば、スマホやパソコンを使ってネット上である文章(テキスト)やある画像や動画を閲覧することが、「見る・見える」では済まされなくて、傍観する、見殺しにする、見て見ぬ振りをする、であることは十分ありえる気がします。困った人や困った状態を見ている場合です。
困ったどころか、見ている対象が犯罪行為であれば、共犯にならないとは言い切れません。自動車に装備されているカメラ、あちこちにある防犯カメラやライブカメラや情報カメラ(何というまやかしじみた言葉なのでしょう、恐ろしいものをこういうふうに言えるのですから、言葉は怖いです)は「見ている」あるいは「撮影している」わけですが、人がそうさせていることを忘れてはなりません。特定の誰かの利益になるという意味です。
権力の後ろ盾のある国家やある集団が、そうしたカメラだけでなく、ネットでつながった、あるいはつなぐことが可能な、さまざまな装置(コンピューター、端末、通信器機、医療器機、音響器機、家電一般……)を操ったり管理すれば、どうなるでしょう。
そんなことが妄想とは言えない兆候が、見えますね。もうそうではなく、もうそうなっています。怖くて、どの国とは言いませんけど。
*
自分を肉眼で見たことがない個人レベルの人と、人類というレベルの人が、しゃかりきになって自分の映像(映った像)と鏡像(鏡に映った像)に見入って、それが自分であり、それが「見る・見える」であると思いこんでいるという話でした。
こういうしゃかりきというか、人のなりふり構わない必死ぶりを見ていると、人は自分が見えないことを失念しているどころか、深層ではそれがトラウマに近いほどショックであり(「うちらは人間さまだぞ、こんなはずじゃない、ありえない」、その事実を隠蔽するために無意識に画策しているのではないか(無意識ですから、ふつうは「見えない」し気づかないのです、上のジジェクのレトリックに満ちたお話のように)、なんて妄想してしまいます。
斜めから見ると見えるという話
再び話を戻します。
ジジェクは、上述の「風車の一つが風向きと逆に回っている」という映画のショットを、ジャック・ラカンがよく引き合いに出すホルバインの「大使たち」という絵画に関係づけます。真っ直ぐに見るのではなく、いわば斜めから見ると「染み」が「頭蓋骨」に見えるというわけです。(邦訳pp.172-173)
これも人に気づきの「異化」をもたらすものと言えるでしょう。上述のヒッチコックの映画で、「異化」に気づくのが映画の主人公だけでなく、映画を観る人(つまり、あなた)であったように、あなたもこの絵画にまきこまれるということでしょうか。斜めから見ることによって。
大使たち - Wikipedia
ja.wikipedia.org
このように、ヒッチコックを題材にラカンの考え――人が世界を解釈し、意味を生み出す生き物であること――を語るジジェクの話術とレトリックは巧みで迫力があります。映画好きの人にお薦めの本です。
映画は、スクリーンに映写機で映し出された影、影絵、幻影を見るという仕組みです。影という「ないもの」を見ているとも言えます。そしてその影は作られたものです。カメラで撮影され編集されているわけですね。「ないもの」が「作られた」とも言えます。
(んなこたーない。映画に映っているエッフェル塔に感動したら、それは実在するエッフェル塔に感動したのと変わらんだろーが――。なんて幻聴が聞こえてきたので、お答えします。そういうことを言っているのではないのです。目の前にないもの、つまりエッフェル塔の映像、影、幻影を見て、人は感動するという話をしているのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。エッフェル塔の実在は問題にならないのです。というか「実在」なんてややこしい話はしていません。バンビが実在しなくても、人はその幻影に感動します。あ、バンビじゃなくてオバケのQ太郎でも同じです。大切な点は、「実在するもの」の幻影に対する感動と「実在しないもの」の幻影に対する感動には質的に何ら違いはないことなのです。)
映画は、「ないもの」を「あるもの」だと錯覚させる――「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」をもちいる、つまり代用する――という、人のいとなみの集大成みたいなものなのかもしれません。テレビ(走査線)もネット上に飛び交う映像(画素の集まり)も、影絵の集大成である映画の焼き直しと言えるでしょう。
映像の魔術師であるヒッチコックに、言葉の魔術師のジジェクが惹かれるというのは分かりやすい構図です。
付け加えますが、おそらくジジェクはその華麗的かつバロック的なレトリックを戦術としています。魔術でも呪術でもなく、戦術です(だから私はジジェクの著作を読むのですけど)。魔術や呪術と受け取られることを計算に入れての演出に長けているのです。師であるジャック・ラカン譲りの戦略かもしれません。
*
私の好みの作家や作品を、この本の後ろにある索引から抜き出してみます。
・ロバート・シェクリイ
『夢売ります』(仁賀克雄訳『幻想の怪奇』1、ハヤカワ文庫)
・パトリシア・ハイスミス
『ブラック・ハウス』(鈴木晶訳『ニュー・ゴシック』、新潮社)(※『黒い家』in『黒い天使の目の前で』扶桑社ミステリ)
『見知らぬ乗客』(青田勝訳、角川文庫)
『池』(小倉多加志訳、『風に吹かれて』、扶桑社ミステリー文庫)
・ルース・レンデル
『死を誘う暗号』(小尾扶佐訳、角川文庫)
『ロウフィールド館の惨劇』(小尾扶佐訳、角川文庫)
・スティーヴン・キング
『ペット・セマタリー』(深町真理子訳、文春文庫)
懐かしいです。持っている本もあれば、処分した覚えのあるものもあれば、行方不明のものもあります。私にとって、まさに「ないもの」同然の作品になりつつあるのは確かです。でも、「今ここにない」からこそ、力を持って今ここにいる私に迫ってくるのも事実なのです。
あちこち話が飛んで申し訳ありません。話を戻します。
人は有るものよりも無いものによって動いている
人は有るものよりも無いものによって動かされている、いや動いているのではないか。そんなふうによく思います。
無いものは力を持っているとしか考えられません。今ここに無いのに力を持っているとも考えられるし、今ここに無いからこそ力を発揮するのだとも考えられます。いずれにせよ、不思議な話であり、恐ろしくもあります。
「馬鹿な話だ。無いものが力を持つわけがないじゃないか」そうお思いの方もいらっしゃるでしょう。一方で、「そうそう、そのとおり。無いものこそが力を持っている」とうなずいてくださる方も、少なからずいらっしゃる気がします。
*
今ここにないものには確かに力があるような気がします。今ここにないからこそ力を持つ。そんなふうに思われます。
芸術、宗教、科学、哲学、数学、ビジネス、文学、報道といった分野では、今ここにないものを思考したり希求することで、そのないものがあるものになるように努力するという行為が繰り返されてきたのではないでしょうか。
まとめてみましょう。
芸術:ないものを創る・クリエーション・創作・捏造・模造・創ったものもほとんどの場合には複製という名のないものとして流通する。ところで、私たちは「作品そのもの」に出会えないのが普通です。お目にかかれるのはコピー(複製、ある意味で幻影)ばかりなのです。コピー数とかダウンロード数が多いほど、その「現物」の値段が高くなるのは皮肉でしょうか。
宗教:見えないものに祈る、すがる・ないものを呼び寄せる・今はない状態の実現を願う・この世にないものを求める・あの世での便宜を願う。
科学:(今)ないものを発見する・(今)ないものを発明する・(知覚でき)ないものを知覚する(観測・計測)・ないものをないままで、あるいはあることとして証明する。
数学:苦手なので分から「ない」です。考えてはいないことはないのですけど。数学批評(数学史ではないです)があれば、喜んで読むと思います。あるわけ、ないか――。最近は、数学とか論理学は数字や言葉という表象の「ほぼほぼ抽象的な」側面を使っての遠隔操作だと個人的にイメージしています。
ビジネス:そもそもお金は実体がないもの。ないものを欲する・投資する・投機する・生産する・成長させる。もともとないものを欲するわけだから、満たされない、切りがない。
文学:そもそも言葉は実体がないもの。ないものを心の中で見えるようにする・ないものによって心を動かされる(フィクション)。
哲学:各言語、つまり一言語ーーあらゆる言語はローカルなものであり、普遍を目指すのは土台無理な話、もちろん翻訳であっても無理ーーという枠の中での隔靴掻痒の遠隔操作をおこないながらも、メタ指向が旺盛でオブセッションとなり、メタ思考を悲願としつつ、メタ試行を重ねているもよう。要するに、めためた。ないものについては、上記の文学とほぼ同じことが言えそう。
報道:(真実とか事実の検証という地道な作業がつきまとうはずなのにもかかわらず)声の大きさや武力やレトリックや利害関係に左右されるのが報道の「真実」であり「事実」・「ある」か「ない」は保留して、あたかも「ある」ように見せかけるレトリックに長けたデマやプロパガンダやフェイクニュースが横行しているのは古今東西に見られる「真実」であり「事実」。
以上は大雑把なメモですが、こうやって眺めてみると、ないものをめぐっての人の営みに共通するのは、ないものを想うことが、ないものを創る行為に発展するという身振りではないでしょうか。
想像が創造に変わるとか、想像を創造に変えるという言い方もできそうです。自己啓発書みたいですね。いや、みたいじゃなく、そのものという感じがします。人類の歩みは自己啓発書に見られるワンパターンと軌を一にしています。
*
いずれにせよ、大切なことはこうした身振りの根底にあるのは想像(あるいは思考)という、人の頭の中で起きることだという気がします。
人の頭の中での出来事ですから当然のことながら「ない」のです。「ない」から自由自在にいじれるという意味で最強ではないでしょうか。実際に「ある」ものであれば、そう簡単にはいじれません。
ない、最強。
ない、恐るべし。
人は、ないものの持つ力を利用して生きている。
人は、ないものに依存(嗜癖)している。
人は、ないものなしに生きられない。
これは、「あるもの」が手に負えないから、「ないもの」を「あるもの」と錯覚して手に負えるものとして扱うという、いわば魔法として人が身につけた身振りだという気がします。
手に届かないAの代わりに、手に届くBで済ませている
大きいものの代わりに小さいもので済ます。
● の代わりに・で済ます。
長いものの代わりに短いもので済ます。
重いものの代わりに軽いもので済ます。
厚いものの代わりに薄いもので済ます。
たくさんの代わりに一つで済ます。
・・・・・・…… の代わりに ・ で済ます。
ややこしい(複雑)の代わりにすっきり(単純)で済ます。
分からないものの代わりに分かるもので済ます。
遠くにあるものの代わりに近くにあるもので済ます。
手に届かないものの代わりに手に届くもので済ます。
簡単に言うと、手に届かないAの代わりに、手に届くBで済ませているのです。Aが手に届かないもの、手に触れることができないもの、直接に見ても聞いても感じてもいないものだからです。その代わりに、手が届き、手に触れることができ、直接に見たり聞いたりできるBで済ます、我慢する。
なぜこんなことをするのでしょう? そのほうがチョロいと錯覚できるからです。世界や森羅万象はチョロいと錯覚したいからです。
世界や森羅万象は、もどかしいけど、いらいらするけど我慢したり、便利だから有難いと思いなおしたり、Aのことは忘れたり、Aの代わりにBで済ましていることを忘れたり、AはBだと言い聞かせたり、AはBだと思いこんだりしているわけです。
隔靴掻痒の遠隔操作です。つまり、長靴の上から痒いところを掻いているようなもの、めちゃくちゃ長い孫の手を使って欲しい物を移動させているみたいだという意味です。それである程度うまくいくなら、うまくいかないことは忘れて満足しようという魂胆とも言えそうです。
Aには至れない、Aを知ることはできない、Aには出会えないのであれば、BがAだと考えたがるのは人情というものでしょう。その気持ちは痛いほど分かります。これが痛感できてこそ、ヒトなのです。こんな私もヒトの端くれですから、よーく分かりますとも。
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ややこしいですか。
先ほど使った「想像」とか「思考」のことなんです。「妄想」とか「錯覚」といっても大差ないでしょう。「頭の中でおこなうシミュレーション」といえば格好がつくかもしれませんが、どう呼ぶかなんて趣味や面子の問題だと思います。事態はいっこうに変わりません。
想像(妄想)、最強。
想像(妄想)、恐るべし。
頭の中では何でもできるという意味で最強なのです。また人は「ない」を「ある」と信じるとか思い込む、つまりその気になってしまうという意味で恐るべしなのです。
まわりを見まわしてみてください。そんな気がしませんか。
錯覚、最強。
錯覚、恐るべし。
語り得ないものについては、錯覚しなければならない。したがって騙るしかない。騙りまくるしかない――。
それにしても、「ないもの」をめぐっての話をしているうちに、自分が「ないもの」を「あるもの」へと一向に創造していないことに気がつきました。想像ばかりで創造していないのです。言葉の遊びに明け暮れて、もうそうばかりして、ぜんぜんもうそうなっていないです。
やれやれ。どうやらこのまま終わりそうに感じられるこの頃です。
あとはレトリックだけの問題かもしれない
サルトルの『存在と無』の英訳を初めて見た時には拍子抜けしました。そのタイトルにです。Being and Nothingness なのです。東京、神田古本屋街にある洋書専門店で見つけて、唖然、そして呆然となりました。
Being and Nothingness ですよ。か、軽すぎです。
サルトルさまの『存在と無』さまに、そんな日本の中学生でも知っているような単語のタイトルを当てるとは何事だ。そうは思いませんでしたが、あまりにも意外で、その本をこぢんまりとした店の床に落としそうになったのを覚えています。
せめて、がちラテン系の、Existance and Non-exisitance くらい存在感のある単語を並べてほしい、なんて、今でもめちゃくちゃを言いたくなります。
あれは、私が高校生で、夏休みに東京に出かけた時のことでした。
原題は L'Être et le néant - Essai d'ontologie phénoménologique だと薄々知っていましたが、フランス語はラジオとテレビの講座で勉強しているくらいで、自分の中では哲学とは結びついていませんでした。
その L'Être et le néant ですけど、軽い。発音も軽いし、字面に存在感がないのです。これも拍子抜けっぽいと言わざるを得ません。
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ちなみにドイツ語訳では、Das Sein und das Nichts - Versuch einer phänomenologischen Ontologie であり、スペイン語訳では、El ser y la nada - Ensayo De Ontología Fenomenológica だそうです。
うーむ。
ドイツ語訳もあっさりしていますが、Das Sein und das Nichts と発音すると厳めしさが増します。ドイツ語を音読する際にはついつい力んでしまうのです。
スペイン語の El ser y la nada はさらさらしています。なだいなださんを思い出さずにはいられません。うろ覚えなので検索してみると、ウィキペディアの解説に次のように書かれています。
「なだいなだ」はペンネームで、スペイン語の "nada y nada"(何もなくて、何もない)に由来する。
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フランス語は軽快で、小回りがきいて、おしゃれで(※「駄洒落」の「しゃれ」も含みます)、明快(※言い古されたイメージです)なところが、いいです。一方、ドイツ語は、重厚で、力強く、生真面目(※「ドン臭い」も含みます)で、魂にぐっぐっとくるところが、いいです。フランス語は滑ります。ドイツ語は停滞します。
フランス語が「下痢」(※失礼!)なら、ドイツ語は「便秘」か「胃もたれ」です。フランス語が「軽いめまい」なら、ドイツ語は「昏倒(こんとう)」か「失神」です(※フランス語、そしてドイツ語を母語とする方々、ごめんなさい)。
で、存在と無ですが、『存在と無』を書いた、あの小柄なフランス人は、確か血筋的にも、また思考のプロセスを踏むうえでも、ドイツ人に近いDNA(※比喩です)の持ち主でした。だから、あの人の著作はフランス語で書いてあるのですが、胃にもたれます。
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『存在と無』 がちがち
L'Être et le néant ほわーん
Being and Nothingness で?
Das Sein und das Nichts ごちごち
El ser y la nada さらさら
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以上は、拙文「存在と無」から引用し加筆したものです。
ジジェクの文章(邦訳と原著の英文)は読みにくいですが、難解ではありません。難解(解きにくい)とは、私に言わせると、ないことをあるように断言したり、ほのめかすからなのです。多くの哲学学者の文章がそうです。ジジェクはないことはないとほのめかします。だから、読みにくいのですが明快であり難解ではありません。「読みにくい」については、後でまた触れます。
ないことをあると断言したりほのめかすのに最適なツールは、日本語では漢語系の言葉および漢字だと思います。
「あるとない」と「有ると無い」と「存在と無」は、同じことを言っているというのは抽象です。それぞれが違います。
「あるとない」<「有ると無い」<「存在と無」
「存在と無」は「あるとない」よりずっと厳めしい、つまり存在感があります。難解な印象を与えますし、実際に難解でもあります。なにしろ、「ないことはない」という振りをして「ないことがある」とほのめかしているのです。「いや」が「いいわ」だったりするSMプレイとそっくりなのです。
漢語系の言葉や漢字は、「ない」を「ある」ようにほのめかします。これは顔の問題だと思います。文字には顔がありますが、漢字のいかめしさはすごいです。漢語系の言葉を使うと頭が良さそうに見えるし、すごいことを言っているように見えます。
字面が強面だとも言えそうです。ないはない、ことばはことば、ことばはものではない。こういう身も蓋もない、がっかりするしかないほど明快なことを「無は無なり」「言葉は言葉である」「言葉は事物ではない」と漢語系の言い回しで言うと、とたんに「ないはある」の振りをしてしまうという事態が生じます。がちで「ある」ように思えてしますのです。いわば顔芸です。
「無」なんて書かれると「ある」を感じてしまうとか、「無」に「ある」がつまっている気がすると言えば、分かっていただけるでしょうか?
あるあるあるあるある
あるあるあるあるある
あるあるあるあるある
あるあるあるあるある
あるあるあるあるある
無 = あるあるあるあるある……
漢字や漢語には何だか「思い」がつまっているようで「重い」のです。ただし、あくまでも日本語においての話です。また私という個人においての話であることは言うまでもありません。
(日本語において難しい言葉遣いで賢く見せようとする人には、漢字こそが最適のツールとも言えそうです。というか、この芸の達人はたくさんいます。理屈ではなく、体が覚えているのでしょうね。あ、カタカナ、特に元がフランス語である外来語の顔芸もすごいですが――シニフィアン、シニフィエ、ルプレザンタシオン、エクリチュールなどなど、あ、私も上で引用として使いました――、このことについてはまた別の機会に。)
漢語はないことをあると思わせる(におわせる、ほのめかす、ふりをする)日本語における仕組みではないか、なんて思ってしまいます。無い無い、無無なんていくら言っても、あるあると暗にほのめかしているのです(理性理性と感情的に叫んだり、論理論理と支離滅裂に連呼するのと似ています、しかも言葉を使いこなしていると思っている人がそれに気づいていないケースがきわめて多い)。めんどくさいですね。きわめてM的な資質だと思わざるをえません。M的というのは言葉もその生みの親である人もです。両者はMの世界に生きているのです。
言語活動はSMプレイ。※「プレイ」、ここが大切です。遊戯であり競技であり演劇なのです。⇒「*「S、M、そしてM寄りのH」より」in「ふーこー・どぅるーず・でりだ・ばると(その5)【引用の織物】」
【※ちなみに、「意味しているもの」と訳すこともあるシニフィアン(フランス語ではsignifiant)はジジェクの原著の英文ではsignifier、「意味されているもの」とも訳されるシニフィエ(signifié)はsignifiedとなっていますが、親戚関係にある英仏語間では何ら顔芸は生じないみたいです。日本語では、前者を「能記」、後者を「所記」と訳すこともあったらしいのですが、こういう造語には厳めしさは感じられず、ははのんきだねとか納期とか、暑気払いとか食器を連想させて何だか間が抜けて見えないこともないところが救いです。概して、由緒正しいガチな漢語よりも和製の造語のほうがチャーミングですね。概念とか理性とか意識とか演繹とか哲学とか……。あ、これは個人の意見および感想ですので。】
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ないものの力
ないものの持つ力
無いものの力
無いものの持てる力
存在しないものの力
無の力
無のパワー
無の魔法
存在しないものの力で人は動かされる。
人は存在しないものによって動かされる
人は存在しないものによって動く
人は存在しないもので動く
ないものを相手にする以上、それに自覚的であろうとなかろうと、レトリックを相手にしなければならない。レトリックだけが問題になるのかもしれない。
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このところとくに、「真理」(「でたらめ」でもいいですけど)とか「真実」(「フェイク」でもいいです)とか、真理っぽさ(または「でたらめっぽさ」)とか「真実らしさ」(あるいは「フェイクらしさ」)というのは、とどのつまりはレトリックの問題ではないかとよく考えます。
言い方次第、書き方次第、口調次第、プレゼン次第で、本当っぽくも嘘っぽくも、意味ありげにも、深遠そうにも見えるという意味です。言葉は空っぽなのに、です。
言葉は空っぽ。言葉は「らしさ」。言葉は「っぽさ」。言葉は魔法。
人が求めるのは、詩ではなく詩のようなもの、小説ではなく小説っぽさ、哲学ではなく哲学っぽさなのです。いかにも芸術らしい、いかにも文学らしい、いかにも真実らしいではありませんか。なお、いま述べたことには大した意味はありません。内容なんてないようなのです。
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あることないこと
「ある」と「ない」
「有る」と「無い」
あるということと、ないということ
存在と無
こういうふうに、ないことをめぐって言葉をいじることができます。レトリックで遊ぶとも言えるでしょう。
言葉を使えば何とでも言えます。もちろん、読む人や相手が乗ってくれるかどうかの問題は残ります。駄洒落やお笑いのギャグと同じです。説得力があるかないかとも言えそうです。
「人は存在しないもので動く」という、この記事のタイトルも、あれこれといじった結果なのです。
「人はあるものではなくないものによって動かされる」では長たらしいなあと思い、「人は「ないもの」によって動かされる」にしてみたところ、迫力に欠ける気がして、「人は「無いもの」によって動かされる」でもイマイチなので、思い切って「存在」なんていうあまり使いたくない漢語を持ってきて(「存在しない」のほうが「ない」や「無い」よりも「存在」感があるからです)、「人は存在しないものによって動かされる」でもまだるっこいので、「人は存在しないもので動く」と縮めたわけです。
きわめて地道で事務的というか、レトリックに翻弄されている、いや、もてあそばれているといいましょうか。めちゃくちゃかまってちゃんで真性かつ神聖ドMな言葉を前にして、人は言葉の下僕になるしかないのです(Mと本気で付き合うためにはMの世界に浸からなければならないという意味です)。
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以上、本記事は、ないものを相手にすると、たとえばこうなるという例でした。ないものをめぐって、たとえば21224文字からなる文章が書けるのです。
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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