私たちはドン・キホーテとボヴァリー夫人を笑えるでしょうか?

 声に恋して悪いでしょうか。言葉に恋することなど、古今東西で行われてきた人のいとなみではないでしょうか。人が、声や書かれた文章(言葉)や、映像で見た表情や身振りや仕草に恋することなんて、ざらにあります。

 私たちは、現実とフィクションと幻想を混同したドン・キホーテやボヴァリー夫人を笑えないのです。誰もが目覚めていながら空を飛ぶ夢の中にいるからです。

(拙文「【小説】声に恋して悪いでしょうか?」より)


目次
赤ちゃんを卒業した人などいない
人は自分に似たものを真似て、どんどんつくっていく
創作活動とは自分を真似て、自分の複製をつくっていくことではないか
自分であると思いこんでいる鏡の中の像には必ず他者が入り込んでいる
つくったものに似せる、つくったものに似てくる
人が真似る、似せる、似る、成りきる、成る
読書案内
真似てつくったものを真似る


赤ちゃんを卒業した人などいない


 絵や写真や映画や動画は、鏡に似ていています。人はそうしたものを目の前にして、鏡に面するのとそっくりな仕草や動作をするからです。


 まず見入ります。そして魅入られます。見入り魅入られるは、なぞるでもあります。なぞることなしに見入るも魅入られるもないと言うべきでしょうか。


 向こうで映っている相手の動き(表情も動きです)に合わせて、こちらも心や頭の中で――あるいはじっさいに――動くのです。身体的レベルでの「うつる」と「伝わる」が起きているのです。


(※「通じる」ではありません。表情や動作が模倣され、反復するだけです。意味やメッセージは、ここでは触れません。)


 ものすごく簡単に言うと、向こうが顔をしかめていれば、こちらもしかめる。向こうで走っていれば、こちらも走る。表情や動作をじっさいに、あるいは頭の中で浮かべてなぞるわけです。


 それが見るであり、聞くであり、読むという行為と言えるでしょう。見たもの、聞いたもの、読んだものを、いったん信じないことにはーー「信じる」は「なぞる」ですーー、見えないし、聞けないし、読めないのです。実際には「ないもの」を見て聞いて読んでいるのですから、変な精神状態にあると言えるでしょう。


 いましているのは、絵、映画、映像、動画、演劇、物語、小説の話です。虚構というものは「ない」を「ある」と一時的に信じ(つまり、思い描くことでなぞり)、しかもそれを自分自身も心の中で表情や動作として演じるわけですから、確かに変なことをしていると言えます。


 要するに、映る、写る、移るです。


 転写された相手が自分の中に入ってくるという感じ。それは鏡を見るときに起きることでもあります。便宜上、「相手」と「自分」という言葉を使いましたが、鏡における両者のさかいは曖昧だという気がします。どちらが主でどちらが従か、どちらが先でどちらが後か、どちらが実でどちらが虚か、こうしたさかいも意味をなくしているのです。


 うつっているからです。うつるは相互的、双方向的なものではないでしょうか。鏡の話です。虚構の話です。見るのは人なのです。人あっての鏡であることを思い出しましょう。


 話がうつりましたね、鏡から虚構へと。そして、虚構から鏡へと。今回は、そういう話をします。


 以上は、スラヴォイ・ジジェク経由のジャック・ラカンについての私なりのまとめとも言えるものなのですが、頭にあるのは赤ちゃんだけではありません。赤ちゃんから成人までを想定しての話です。



 絵、写真、映画、動画は、自分を映すためのものはないでしょうか。世界は自分に似たもので満ちているから、風景を描いても撮っても、人以外の生き物を描いて撮っても、他人を描いても撮っても、そこに描かれている映っているものは自分なのです。広義の自分、複数形の自分、おそらく赤ん坊にとっての「自分」と言えばお分かりいただけるかもしれません。


 人は自分に似たものを目にすると、幼児返りや赤ちゃん返りをするからです。たぶん、ごく短い間だけ、またはとぎれとぎれに、です。人はいくつになっても、まばらな幼児、まだら状の赤ん坊なのです。誰もが赤ちゃんを「卒業」してなどいないのです。それはぜんぜん恥じるべきことはありません。


人は自分に似たものを真似て、どんどんつくっていく


 鏡、絵、写真、動画がどんどん増えていく。人が真似てつくり、複製するのですから、当然のことです。「鏡」が自然に増えるわけがありません。人がつくるからどんどん増えるのです。


 つくるだけはありません。似せて、真似てつくるのです。何に似せ、何を真似るのかといえば、鏡なのです。鏡に似せて、鏡を真似て、つくる。どんどんつくる。結果的に、自分に似たものをつくっているのです。


 世界は鏡に満ち満ちています。人は、ふだんは、それに気づきません。意識しないのです。だから、よけいに増えていきます。


 じつは、言葉も鏡。さらに言うと、人も鏡。人は自分に似たものを真似て、どんどんつくっていくのですが、ややこしいですね。屈折しているのです。


創作活動とは自分を真似て、自分の複製をつくっていくことではないか


 他の人に似ているとか、他人を真似るだけではなく、自分に似ているとか、自分を模倣するということがあります。


 詩、小説、造形芸術、演劇、イラスト、漫画、作曲、伝統芸能といったクリエイティブな活動にたずさわっている人たちの作品には、その作り手独自のスタイルや型があります。これはプロ・アマを問わず見られます。悪い言い方をすればワンパターンでありマンネリズムです。


 そうしたものが個性なのであり、オリジナリティーなのであり、本物なのであり、著作権によって守られる対象だと言えるでしょう。


 あ、これ、〇〇の曲でしょ? △△の映画は見始めて三分でだいたい分かるね。確かに、このドラマは、いかにも□□さんの脚本ぽいストーリーね。これって、あの人の作でしょ? まただ! 「なんでレンブラントだって分かったの?」「背景の色、そして筆さばきかな」


 創作活動とは自分を真似ることではないか、自分の複製をつくることではないか、と思えるほどです。


自分であると思いこんでいる鏡の中の像には必ず他者が入り込んでいる


 自分を真似る。自分に似せる。自分を模倣しつづけることは、随時更新することだとも言えるでしょう。鏡に向かい、そこに映った像を眺め、その像(イメージ)を模倣しつづけながら、少しずつずれていく。そのずれが更新なのです。


 自分であると思いこんでいる鏡の中の像には必ず他者たち(複数形です、他者は多者なのです)が入り込んでいるはずです。自分を眺めることが他者たちを認めることでないと誰が断言できるでしょうか。鏡の中の自分の顔や姿に自分以外の何かを認めるのは、誰もが日常で経験することではないでしょうか。


 見るには必ず「ずれ」がともないます。そのずれが何とのずれなのかは、分からないと思います。自と他のさかいのない世界とは鏡の中だ、という気がしてなりません。鏡(この鏡を比喩と取っていただいてかまいません)に映っているものは「似たもの」なのです。「何か」そのものではありません。


 何かに似ているのです。その何かが何なのは分からない。ひょっとすると、鏡(この鏡を比喩と取っていただいてかまいません、たとえば目とか作品とか人生とか世界、です)に映っているのは「何か」の代わりですらないのかもしれません。


 影やまぼろしが自立していないとは、私には言い切れません。ひょっとして、人は影やまぼろしにもてあそばれていないでしょうか。主導権を握られていないでしょうか。


つくったものに似せる、つくったものに似てくる


 荒唐無稽な夢。荒唐無稽な想像。根拠のない空想。


 たとえば、人は椅子をつくったために、椅子に合わせて腰かけるようになった。


 物だけではない。たとえば、映画をつくったために、映画のような夢を見たり、空想をするようになった。


 棺桶をつくったために、棺桶に合わせて埋葬するようになった。冷蔵庫をつくったために、冷蔵庫に合うようなものを食べるようになった。パソコンをつくったために、パソコンの従者や下僕になった。スマホをつくったために、スマホに嗜癖しスマホに合わせて生活するようになった。


 それだけではない。


 大量生産されたそっくりなものを使う人間は、地球のあちこちで同じ仕草同じ動作をするようになる。そっくりがそっくりを生む。そっくりをそっくりが真似る。シンクロ、同期、似ている、激似、酷似、そっくり、同じ。


        *


 つくったものに似せる、つくったものに似てくる。うつったものに似せる、うつったものに似てくる。ミメーシス、模倣、描写。


 うつす、写す。似せる、真似る。かたる、語る、騙る。つたえる、伝える、つぐ、継ぐ、次ぐ、告ぐ、接ぐ。まねる、真似る、ふりをする、振りをする、えんじる、演じる。


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 もしもの話。戯れ言。


 言語を習得させ、海を見せて、海を描写するように指示する。海についてのパーツである、波、浜、砂浜、沖、岩、砂、石、水、海水、大波、小波、しけ、なぎ、太陽、夕陽、朝日、雨、風、カモメ、魚、貝、流氷……といった言葉を覚えさせた上で。器用な人なら作文を書くだろう。お手本なしで。


 絵の具と筆と鉛筆と紙を与えて、海を見せて、海を描くように指示する。器用な人なら描き始めるだろう。お手本なしで。


 果たしてそんなに単純な話なのか。天才なら、書けるし描ける。そんな適当な話なのか。


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 戯れ言のつづき。


 お手本を見せたとする。さらには筆記具の使い方と書き方、画材の使い方と描き方を教える。大切なことは、たくさんのお手本、つまり文章や作品を読ませ、たくさんの絵を見せること。真似させること。たぶん、真似ることで、めきめき作文力がつき、絵の才能が伸びるのではないか。


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 言葉も絵も外から来るもの。借り物。だからこそ、真似る対象になり、真似ることで熟達する。もちろん才能もあるだろう。大切なのは、真似ること。まねる、まねぶ、まなぶ。


 まねる、まねぶ、まなぶをいう身振りだけを覚えた機械やAIは、創作しているのではないか。もしそうだとすれば、まねるやまなぶの対象が外にある外だからはないだろうか。


 独創ではなく、引用と模倣と反復と変奏が芸術の実相ではないか。それにしてもオリジナリティ神話は強い。信仰ではないか。ないもの力は強い。


人が真似る、似せる、似る、成りきる、成る


 荒唐無稽な想像。荒唐無稽な夢。


 人が物語を真似る、物語に似せる、物語に似る、物語に成りきる、物語に成る。

 人が書物を真似る、書物に似せる、書物に似る、書物に成りきる、書物に成る。

 人が演劇を真似る、演劇に似せる、演劇に似る、演劇に成りきる、演劇に成る。


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 写字、写経、写本、書写、筆写。書、書道、カリグラフィー。

 書物や文字を写す職業。筆耕、写字生、写経生、スクライブ。


読書案内


 ここでは複数の小説をめぐって、その解説をウィキペディアに丸投げしながら、第一部で述べたテーマとトピックに沿ってお話しします。読書案内としてお読みいただければ、うれしいです。


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 言葉と言葉によってつくられている知の総体を信じ、その身振りを模倣し、言葉と知になりきろうとした二人の写す人(写字生・筆耕)についてのお話があります。


 ギュスターヴ・フローベール作『ブヴァールとペキュシェ』です。


 これほど表象の仕組み(何かの代わりに何かを用いること)に対しての深い洞察に満ちた小説を、私は知りません。


 ブヴァールとペキュシェは、どちらも独身の写字生である。

 二人はまず農業に着手し果樹栽培に乗り出すが、書物だけにもとづく知識は不十分で、大きな損害を被る。科学的知識が欠けていることを痛感した二人は科学や文学の勉強に没頭し、さらに文学・神学とつぎつぎに対象を広げてゆくが、どれも正統的な訓練を受けず書物を読みかじっただけの研究で、失敗ばかりが相次ぐ。しかし二人はともに知的であることを誇って、社会の無知ぶりを嘲笑しつづける。

(フロベール作「ブヴァールとペキュシェ」についてのウィキペディアの解説より引用)

 私たちは、ブヴァールとペキュシェを笑えるでしょうか?


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 ホルヘ・ルイス・ボルヘス作『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール』については、まず以下の解説でそのあらましを把握するのがよろしいのではないかと思います。


「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」(ドン・キホーテのちょしゃ ピエール・メナール、Pierre Menard, autor del Quijote) は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスによる短編集『伝奇集』に収録された作品の一編。ピエール・メナールという20世紀の作家がミゲル・デ・セルバンテスになりきるなどの方法で、『ドン・キホーテ』と一字一句同じ作品を作りだそうとした、という設定のもと、セルバンテスの『ドン・キホーテ』とピエール・メナールの『ドン・キホーテ』の比較を文学批評の形式で叙述した短編小説である。

(ボルヘス作「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」についてのウィキペディアの解説より引用)

 私たちは、ピエール・メナールを笑えるでしょうか?


真似てつくったものを真似る


 荒唐無稽で根拠なしの空想、馬鹿馬鹿しくてがっかりするしかないようなお話があります。


 似せてつくったものに似せる、真似てつくったものを真似る。馬鹿馬鹿しい、馬鹿も休み休み言え、と言いたくなるようなお話なのです。


 そもそも物語は人がつくったものであり、現実なり空想なりを見聞きして、それを「あたかも目の前にあるように」語るのが、物語であるはずです。


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 物語を模倣する人間についての小説があります。


 物語というジャンルについての復習、小説というジャンルの予習と言うべきかもしれません。まさか、小説を壊しているのではないかとも思えます。できたばかりのジャンルが既に壊れかけているのです。


 それが、あのミゲル・デ・セルバンテス作『ドン・キホーテ』という小説なのです。


騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった郷士(アロンソ・キハーノ)が、自らを遍歴の騎士と任じ、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗って冒険の旅に出かける物語である。

(ミゲル・デ・セルバンテス作『ドン・キホーテ』についてのウィキペディアの解説より引用)

 上の引用文を読んで、私たちはドン・キホーテを笑えるでしょうか。これだけもいいようなものですが(さすがにこれは暴言ですけど)、詳しくは以下の資料をお読みください。


ドン・キホーテ - Wikipedia

ja.wikipedia.org

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 既存の物語と小説をまねて、まがい、まげた作品を、さらにまねて、まがい、まげたような趣の作品。そんな小説があります。ローレンス・スターン作『トリストラム・シャンディ』です。


 この作品をまねる、あるいは無意識にまねることとなる、来たるべき作品たちが後世に登場することになるのですから、まさに前衛であり先駆的でもあり予言的とも言えそうです。


 まるで、まがい、まがるしかないのが小説というジャンルの運命であるかのように書かれた作品なのです。


 とはいえ、読み物でもあります。読み物もまた読み物を模倣して、書き継がれていくのです。詳しくは以下の資料をお読みください。それが面倒であれば、原作の翻訳をお読みください。ただし、もっと面倒です。


トリストラム・シャンディ - Wikipedia

ja.wikipedia.org

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 小説を模倣する人間についての小説、小説と現実を混同してしまう人間についての小説があります。ギュスターヴ・フローベール作『ボヴァリー夫人』です。


 たったいま書いたこの小説を要約を読み、私たちはボヴァリー夫人を笑えるでしょうか?


 この小説では、小説というジャンルの始まりと洗練が同居しています。また、律儀と愚鈍が同義であることを露呈させてもいます。


 夢と現実の相剋に悩むヒロインの性癖を表わす「ボヴァリスム」 (bovarysme) という造語も生まれた。

(ウィキペディアの解説より)

 短絡的に言うなら「小説を模倣しようとして幻想をいだく」ボヴァリー夫人を私たちは笑えるでしょうか?


 映画を、テレビドラマを、CMを、アニメを、(演じる)俳優を、ストーリーを、ドラマを、キャラクターを、出来事を、事件を、報道を、ディスプレーに映った像やテキストを真似、引用し、似せて、成りきり、演じようとする私たち。


 ボバリズムとは、私たちのことではないでしょうか。


 フロベール(フローベール)が「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったという神話があるそうですが、そう口にすべきなのは、私たち一人ひとりではないのかと思います。ボヴァリー夫人は私たち一人ひとりなのです。


 作品については、ウィキペディアの解説を丸投げします。


ボヴァリー夫人 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

 ここだけでもお読みください。この記事でいちばん指摘したいことです。


ボバリスムとは - コトバンク

デジタル大辞泉 - ボバリスムの用語解説 - 《「ボバリズム」とも》フランスの作家フロベールの小説「ボバリー夫人」の主人公

kotobank.jp

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 恋に恋する人間。物語にかたられてしまう人間。小説の登場人物と自分を同一視する人間。


 小説や物語を、映画や演劇やテレビドラマやゲームに置き換えても、事情はそれほど変わらないのではないでしょうか。または、歴史や神話や信仰や哲学や生き方に置き換えても、事態はそれほど変わらない気がします。


 仮に、政治や社会現象を、世界や国家や地域を舞台とした、物語や劇としてとらえるとするならば、これまた事情も事態もそっくりなのではないかと思います。


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 登場人物と読者、演じる者と観客、舞台に立つ者とそれを眺める一般人。


 人は観客や読者であることを忘れて自分が主人公だと思い込みます。そうした観劇の仕方や読み方を否定しているのではありません。そもそも否定できるたぐいの問題ではないのです。


 どんな子どもでも、読み聞かされた話に自分を重ねます。それがフィクションというものの仕組みなのです。


 観るとは、聞くとは、読むとは、そういうことなのでしょう。そうした事態に自覚的であるかどうかは、趣味や気質や、その時の気分の問題なのかもしれません。


うつったものに似せる、うつったものに似てくる


 鏡を見たり、鏡に見入るのは、誰でも毎日やっていそうなことです。そこに映っているのは自分だと疑わないのが普通でしょう。人前に出て恥ずかしくない顔と格好をしているか確かめる。お化粧をする。身だしなみを整える。それだけなのでしょうか?


 本当に、そんなふうに単純なものなのでしょうか。世の中には、変なことを考える人がいます。変なことを書く人もいます。小説にまで書く人がいるのです。


 変だから書くのか。変だから小説なんて書くのか? 


 人が小説に似る。小説が人に似る。


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 かがみ、鏡、かんがみる、鑑みる。見入る、魅入る、見入られる、魅入られる。うつる、映る、移る、入る。


 鏡の中に入る――。ルイス・キャロル作『鏡の国のアリス』です。


鏡の国のアリス - Wikipedia

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 鏡の中に入る前に、言葉という鏡に見入る、魅入る。言葉はかがみ、屈み、鏡、鑑。


 かがみ、しなり、おれる。屈折、reflection、inflection。


 写真術のパイオニアだったルイス・キャロル。数学者・論理学者でもあったルイス・キャロル。その符合と屈折ぶりはただ事ではありません。


不思議の国のアリス - Wikipedia

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 作品と、作者の人生を重ねたくなる。それがルイス・キャロルです。


ルイス・キャロル - Wikipedia

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向こうへと落ちていく


 水面に映った自分の姿を見る。鏡を見る。かがみ、かがむ、うつる、映る、写る、移る。


 おちる、落ちる。墜ちる、堕ちる。


 鏡像。姿。反射。自分のようで自分ではない。自分そっくり。そっくりなところがそっくりとしか言いようがない。


ドリアン・グレイの肖像 - Wikipedia

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最後に


 そもそも小説が物語に還元できないものであるなら、ましてや小説をあらすじに置き換えて論じるのが許されないのであれば、このような記事を書くことは言語道断だと言うべきでしょうが、自分の頭の整理のために、あえて書きました。


 取りあげたテーマは盛りだくさんで、しかもどれもが大きいです。


 いずれにせよ、私の力不足で、短絡と丸投げだらけの記事になったことは確かです。申し訳ありません。


 恥ずかしい話なのですが、小説のストーリーをつかんでそれを要約することが、私はとても苦手なのです。ストーリーが頭に入らないという感じ……。たぶん先天的な欠陥とか欠損なのだと思います。このことについては、わりと自分をさらけ出した(我流の変な本の読み方をしているという意味です)以下の記事でも触れました。よろしければ、お読みください。



 本記事がみなさんの読書案内になれば、うれしいです。


        *


 最後に。


 私たちはドン・キホーテとボヴァリー夫人を笑えるでしょうか? さらには、ブヴァールとペキュシェと、ピエール・メナールを笑えるでしょうか? 


 こんな受け売りと決まり文句と引用だらけの記事を書いている私は、とうてい笑えそうにはありません。


 私はドン・キホーテでありボヴァリー夫人であり、たぶんにブヴァールとペキュシェであり、ある意味ではピエール・メナールだという気がします。ドリアン・グレイ……。ドリアン・グレイにはなりたくないです。というか、なれそうもありません。



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