イメージのイメージ、イメージをイメージする
世界は化け物だらけ化象だらけ化粧だらけ。
化けた者が化けた物を相手にお化けごっこ。
似せた者が似せた物を相手にそっくりショー。
似せ者が似せ物を相手に偽物ごっこ。
これまでと同じく、おふざけ半分で記事を書きます。テーマがテーマですし、こういうことは本気で論じるたぐいの話ではないと思うからです。
本気に取らないでくださいね。イメージの韻を踏みながら、連想を放ちます。ただし、半分は本気で書いていますので、お読みくださればうれしいです。
目次
イメージのイメージ
イメージをイメージする、イメージをたどる
image、imago
ぺらぺらしたもの
薄っぺらいもの
ぺらぺらしたもの
人の作った四角いもの
文字もぺらぺら
舌べろ
言の葉
ぺらぺらがぺらぺらを生む
言の葉を聞く
言の葉を書く、写す、映す
言の葉を見る・読む
言の葉を写す、言の葉を移す
ぺらぺらというイメージの韻
孤独な賭け
とどかない
たどれない
言葉が生まれた。
言葉と影に先に立たれる
イメージのイメージ
イメージとは、私にとってあくまでも個人的なものです。辞書に載っている語義や、曖昧なかたちで人びとに共有されている意味とは異なり、私的なものだとイメージしています。
ふつう人は他人に自分のイメージについて話しません。荒唐無稽でとりとめがなく、場合によっては口にするのも恥ずかしいものだからです。他人の頭の中を覗くわけにはいかないので、他人のいだくイメージもふつうは知りません。
イメージが、家族や小さな集団や大きな集団、ひいては共同体で共有される場合があります。そこには同調、忖度、強制がともない、きな臭くなりがちです。二人のあいだでも、そうです。
どうしても力関係に左右されます。複数、または多数のあいだで共有されるためには、イメージを固定する必要があるからでしょう。固くなれば頑なになる。分りやすい理屈です。
固定化するためには、文字がつかわれます。明文化というやつです。文字ほど固く頑ななものはありません。
イメージが固まり、決まりやルールや法になります。同調と忖度と強制がはじまります。
辞書の語義も、いわゆる意味も、もとは個人のイメージから出発し、しだいに共有され固定されていく過程で、取捨され淘汰されていったと私はイメージしています。
とはいえ、誰もが密かに個人的なイメージをいだきつづけているのです。個人のいだくイメージは集団に共有されるイメージへのプロテストなのかもしれません。
きな臭い話になってきたので、呆けましょう。呆け、惚け、耄けるのです。
イメージをイメージする、イメージをたどる
「イメージ」に当て字をしてみます。
文字に文字をあてる、音に音をあてる。言の葉に言の葉を当てて重ねる。薄い葉に薄い葉を重ねてその模様を透かして見るのです。言葉は薄いものである気がします。
まっさきに頭に浮かぶのは夢路(ゆめじ)です。夢を広辞苑で引くと、「「寝(い)の目」の意」なんてうれしい文字列が見えます。寝目路(いめじ)と勝手にくっつけてみましたが、そんなのがあればチャーミングですね。
夢路、夢路をたどる、イメージをたどる――。いいイメージです。道が目に浮かんで、その光景に染まりながら歩む自分がいます。
*
夢路といえば、夢路いとし喜味こいし(ゆめじいとしきみこいし)さん。往年の漫才コンビです。月丘夢路(つきおかゆめじ)さんも思いだします。幼いころに、月丘夢路さんと朝丘雪路(あさおかゆめじ)さんを混同した覚えがあります。どちらも字面と響きと浮かぶイメージがとても綺麗な名前です。
竹久夢二(たけひさゆめじ)も連想しました。
夢路、寝目路、イメージ、image。
image、imago
過去の記事から引用します。
*イメージの原語である英語の「image」は、「真似たもの、似せたもの」という意味らしい。つまり、「にせもの=偽もの=偽物=偽者=贋物=贋者」ということ。
いかにも柄が悪そうですね。image は、imagine(※イマジン)、imagination(※イマジネーション)、imitate(※イミテイト)、imitation(※イミテーション)なんかの親戚だと辞書に書いてあります。
フランス語だと、スペリングは image のままで、「イマージュ」みたいに発音するようです。精神分析でつかう imago (※イマーゴ or イマゴ)といって、「子供時代の理想の愛の対象や理想像」を意味する用語がありますが、これも親戚だとのこと。
ちょっと、もよおしてきましたので、ダジャレをさせてください。お題は、イメージ、イメジ、イマジン、イマージュ、イマゴ、です。
*「夢路(ゆめじ)」いとし、喜味こいし(※ちょっと古すぎるし、そうとう苦しいオヤジギャグですね)。
*「いじめ」はだめだよ「迷児(めいじ)」くん(※だからー、あの、どつき漫才のコンビはー、正司敏江・「玲児(れいじ)」だっちゅーの。むぎゅ)。
*「『今語(いまご)』って流行語?」「さあ? ちなみに『 imago 』って雑誌は、休刊中みたいですけど、なかなかいい特集がありましたね。まだ、ときどき、バックナンバーの在庫フェアー、やっているみたいですよ」
*まご、「ひまご」、やしゃご。
*「いま、じゅ」わーって、こなかった?
*「今人(いまじん)=めっちゃチョーナウいヒト」、「暇人」、ワシのこと。
*元暴れん坊のレノンちゃんの「イマジン」も、いったん、お金を儲けてしまえば、平和がいいから、ピース、アンド、ラブ、フォエバーで、あとは奥さん、財テクくるいで、2人の息子(※異母兄弟)に暖簾(ノレン)分けして、今はイン・ザ・ヘブン。合掌。
*「imagine ス、売ってます?=今、ギネス(ブック)売ってます?」(※現 Guinness World Records = 旧 The Guinness Book of (World) Records )
*「imagine ス、売ってます?=今、ギネス売ってます?」「いいえ、でも、クアーズとバドならあります」
*「I'm Age. =ワシの名は英二ちゅうねん」
*「I'm age. =ぼく、おあげだよ(※「あぶらあげくん」が主人公の童話より引用)」
*「I'm Ago. =おれ、あご勇(※「あご・いさむ」さん、Where are you now?)」
*「アイム・アゴ(=顎=jaw=ジョー)」。「おじょうず、お上手」
*「アイム・アゴ(=顎=chin=チン)」。「『おら、ハードボイルドだど』の内藤陳(ないとう・ちん)さんじゃありませんかー、お懐かしーい」
*「アイム・アゴ(=顎=chin=チン)」。「ミスターちんさん、プロレスラーのミスター珍さんとは、ご親戚だったのですか?」
*「アイム・アゴ(=顎=chin=チン)」。「ちんちんかもかも。仲がおよろしいですねえ」(※放送禁止用語では、ないみたいです。広辞苑に載っていますので、お調べ願います。あと、ちんあなごも、ついでにどーぞ。)
*「『今ご』ろになって、『イメ』チェン(=イメージ・チェンジ)して、猫をかぶったり、いい人ぶって、い『い孫』の振りをしても、おばあちゃん、許しません。しょせん、あなたは『イミテーション』、『にせもの』、『まがいもの』なの。いつも『マネ』ー、『マネ』ーじゃない? わたしゃ、もう騙されませんからね」
*imagine のアナグラムは enigma (英語で、謎、謎の人)+ i (虚数単位)。image のアナグラムは、magie (仏語で、魔法、魔術)。「マジ」で、あやしい。上述の imago のアナグラムは amigo となり、スペイン語で「(男の)友達」となるが、いやになれなれしくて要注意。
以上、寸劇を演じました言葉たちの身ぶり・表情・仕草・めくばせから、お分かりいただけたように、イメージという言葉=現象=記号は、その身勝手さ、うさんくささ、テキトーさにもかかわらず、
*思考=想像=妄想を、刺激=撹乱(かくらん)し、錯乱=活性化させる
という意味では、貴重な働き=役割=機能を果たしていると考えられます。
(拙文「あらわれる・あらわす(8)」より)
*
*イメージとは、とても、テキトー=気まぐれ=大雑把=でまかせ的=頼りにならない=不安定なものである、と想定している
と考えてください。ですから、
*「矛盾している」あるいは「論理的ではない」と感じても、いっこうに差支えがない
のです。イメージのテキトーさについては、「あらわれる・あらわす(8)」(安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)で、かなり詳細に論じましたので、ご興味のある方は、ご一読願います。どれくらいテキトーかを知っていただくために、その記事からちょっとだけコピペしてみます。
*imagine のアナグラムは enigma (英語で、謎、謎の人)+ i(虚数単位)。image のアナグラムは、magie (仏語で、魔法、魔術)。「マジ」で、あやしい。imago ⇒ amigo (西語で、男性の友人)とはいえ、気を許してはならぬ。
以上のフレーズが、引用ですけど、英語の image の動詞形である imagine が曲者でして、
*言霊の幸ふ国(=ことだまのさきはうくに)(※意味は広辞苑でお調べください)の言葉で、「分光する=分ける」と、imagine のアナグラムは「imigane =意味がねぇ=意味がない=「意味がね、イマイチなのよ、の『意味がね』」、あるいは、「iminage =意味なげ=「意味なげに思ゆ or 覚ゆ、の『意味なげ』」とも読める
というテキトーぶりなのです。えっつ? 「テキトーなのは、imagine ではなくて、おまえだろう」ですか? そう言われると、返す言葉がありません。その通りでございます。
拙文「意味の論理楽・その2【引用の織物】」より
元気なころに書いた記事です。威勢がいいですね。うらやましくなります。
イメージは個人的なものであり、はかなく、淡く、薄い。ひらひら、ぴらぴら、ぺらぺら。
ぺらぺらしたもの
薄っぺらいもの
絵(写しです)、写真(写しの進化したもの)、映画(スクリーンに映します)、液晶画面に映る映像(いまここです)。
文字、本、雑誌・新聞、液晶画面に映る文書。
こうしたぺらぺらであったり、厚みを欠いた表面に、いろいろな情報がのっかっているわけです。印刷されていたり、映しだされています。
現在の世界は、薄っぺらいものに満ちています。薄っぺらいのにぶ厚いのです。
大昔から薄っぺらいものは自然界にあったようです。思いつくのは葉っぱ(ルースリーフのリーフ、ミルフィーユのフィーユ)です。おびただしい数のぺらぺらの葉っぱがいまも至るところにあります。ただし葉っぱはぶ厚い感じがしません。
現在目につく薄っぺらいものは何といっても紙です。写真やはがきを、枚のほかに、一葉、ニ葉と数えますね。ただの紙はぺらぺらですが、そこに文字がのっかっていると、とたんにぶ厚くなります。文字ののっかっている紙をぶ厚いと感じるのはヒトだけだと考えられます。
なにしろ、文字ののっかっている紙を人が飽きもせずにながめ、大切に保存し、写しを取り、広く配っているのですから、薄っぺらいだけのものでないことは確かでしょう。
たぶん、いや、きっとぶ厚いのです。ただ薄っぺらいものをながめたり、大事にするほど、人は暇ではないと思われるからです。
*
ぺらぺらの紙にのっかっているものは文字だけではありません。絵ものっかっています。絵には手描きのものをはじめ、光学器械で映した写真、印刷されたもの、機械で描いたものがあります。
人は薄っぺらい紙にのっかっている文字と絵をながめているようです。「ようです」と他人ごとのように書いたのは、不思議でならないからです。見慣れた光景だとは言え、不思議でなりません。その状況のありようがうまくとらえられないのです。
なんでこうなっているのだろう、これはいったいどういうことなのだろう、と。
人と仲良し――と、ヒトが一方的に思っているようですけど――の人以外の生き物たち、たとえば犬や猫や金魚や馬や牛や豚や鶏も不思議に思っているかもしれません。尋ねたことがないので想像するだけですけど。
猫なんか、何かを読んでいると攻撃してくることがありますね。スマホも標的にされます。私なんかは、素直に反省します。猫の態度のほうが正しいと思うのです。
ワンコやおさるさんは、紙の上の文字と現実を混同しません。文字と現実を混同するおさるさんがいたら、世界的な大ニュース、歴史的大事件になるでしょう。AI並みにヒトの嫉妬と憎悪と恐怖の対象となり迫害されるかもしれません。
ぺらぺらしたもの
ぺらぺらしたものを思いつくままに、列挙してみます。
*
まず、人にあるもの(内臓は除きます)。
まぶた、舌、皮膚、てのひら、爪、耳、見ようによっては胸。
*
身のまわりにあるもの。
新聞、雑誌、ノート、本、メモ帳、ルースリーフ、ノートパソコン(キーボードおよび本体とディスプレイ)、携帯電話(キーボードおよび本体とディスプレイ)、クリアファイル、紙幣、硬貨
テレビ(画面と本体)、カーペット、座布団、畳、戸・ドア、ガラス窓、障子、時計、カレンダー、写真、写真を入れるフレーム、引き出し、カーテン、鏡
フックに掛けてあるエプロン、そんなこと言ったら衣類ぜんぶ
薬の包み紙(プラスチック製)、皿、まな板、ふきん、見ようによっては食器ぜんぶ、フライパン、見ようにとっては鍋、鍋の蓋
ティッシュペーパー、トイレットペーパー
*
けっこう疲れますね。
身のまわりにあるぺらぺらしたものを探しているうちに、既視感を覚えました。あるものを探していたときと同じものを探しているのに気づいたのです。
四角いものです。人のつくった、つまり人工の四角いものと言うべきでしょう。
人の作った四角いもの
過去の記事から引用します。どれもがイメージの韻というか、イメージを連想形式でつづったものです。
*
この部屋は和室なのですが、引き戸も長方形、サッシの窓も長方形、あと壁のカレンダーも、テレビとそのリモコンも、テーブルも、パソコンの画面も、ティシューの箱も、本も新聞も棚も枠に収めた写真も、ぜんぶ長方形です。あ、畳を忘れていました。目につく正方形は座布団とカーペットくらいです。
寝るためにつかっている部屋もそうです。ベッド、シーツ、布団、枕、エアコン、エアコンのコントローラー、たんす。そして天井の羽目板が長四角です。夜は小さな電球の明かりのもとで寝ているのですが、目を開けると眼鏡を外した目にぼんやりとその羽目板の模様が見えて安心します。安心するのは見慣れているからでしょう。
*
人は長方形に囲まれて生きている気がします。生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。
人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。
*
そういえば、空を見ても長方形は見当たりません。楕円形っぽい長方形にも見える視界の枠が感じられるだけ。お日さまも雲たちにも、お月さまも星たちにも、角というものがない。直線もない。空に見える直線は電線と飛行機の跡の白い線くらい。
そもそも四角や長方形や五角形や六角形は、自然界ではあまり目にしません。直線自体がまれなのです。そうしたものを自然から採取して見るとすれば、顕微鏡や電子顕微鏡という道具をもちいるしかない気がします。結晶には多面体が多いですね。つまり肉眼をふくめた五感では出会えない形ではないでしょうか。
要するに不自然なのです。人の五感で感知できる限りでの自然に反しているとも言えそうです。反自然、不自然。ありえない、抽象、観念。そういうものには整然とした美しさがあるのでしょう。端正なのです。
人のつくる反自然は整然として美しい。おそらく人にしか分らない美しさ。
文字もぺらぺら
よく考えると人の作った四角いものにはぺらぺらなものが、けっこうあると気づきます。
しかも四角いほうが大切にされている気がします。
きわめつけはお札でしょう。紙幣です。それに、クレジットカードも、ポイントカードも。将来は、紙幣が消えるのでしょうか。その前にぺらぺらした人類が消えるのでしょうか。
あと名札でしょうか。各人にとっていちばん大切なものである名前が文字としてしるされている四角いぺらぺらです。
お札(おさつ)と、な札(ふだ)と、お礼(れい)って似ていませんか?
そっくりに見える私は「似ている」に憑かれて疲れてるみたいです。とういうか、「似ている」と思いはじめると何でも「似ている」ように見えます。このしつこさは被害妄想に似ています。
究極のお礼はお札ではないでしょうか? お札(ふだ)もお礼(れい)でもなくお札(さつ)です、念のため。現金な私。個人的な印象を押しつける気持ちはありませんけど。
*
いずれにせよ、文字を書いたり、映したり(印刷やフォトコピーや端末のスクリーンに映す)、写したり(写本・筆写や印刷や複写)、それをまた移したりする(配布や翻訳や拡散)、ぺらぺら(紙や液晶画面のことです)が、ぜんぶ薄っぺらくて四角いことは注目に値します。
みなさんと私をつないでいる端末の画面というぺらぺらも四角いです。
そのぺらぺら上においての話ですが、私は文字、みなさんも文字です。お互いに顔も知らないし声を聞いたこともない仲です。文字どおり、文字同士としての付き合いです。もじもじしないで手をつなぎましょう。
いま私は薄い液晶のスクリーン上に表示されている自分の入力した文字を見つめています。視覚的に厚みも深みも感じられない、つまり立体感に欠ける文字です。
ということは、ひょっとすると文字ってぺらぺらなのではないでしょうか。これまで考えたことがありませんでした(あったりして)。
ぺらぺら(紙や画面)にのっかかったり、うつったり、染みついたり、こびりついたり、貼りついたりしているのですから、文字はぺらぺらなはずです。いま文字のありようを体感した気分になり、どきどきしています。
*
「ぺらぺらしたもの」――。これって自分のことじゃないですか。へらへらしているとは以前から感じていましたが、ぺらぺらでもあるとは……。ぺらぺらがぺらぺらについて書くとは。
*
人は「小さい」や「薄い」や「短い」をうまく利用しているようです。というか、小さくて薄くて短いものをつくるのに長けているようです。身のまわりを見ると、そんなものに満ちています。人自身がそうだからでしょう。
人は自分に似たものをつくり、自分のつくったものにさらに似ていく。
舌べろ
舌べろは方言なのでしょうか。
「べろ」という発音は舌に擬態しているように私には思えます。「べろ」をいう音を舌で転がしてみます。舌で舌を転がすのです。いやらしく聞こえたら、ごめんなさい。
ごいっしょに発音してみませんか?
ぺろぺろ、ぺらぺら、べろべろ、あっかんべえ。ぺらぺら、英語がぺらぺら、へらへら、へろへろ、れろれろ。
なんだか軽薄でいいですね。軽くて薄い感じ。親近感を覚えます。他者とは思えないのです。
*
ヨーロッパの諸言語で、言語を意味する言葉の語源が「舌」であるのは興味深いです。英語だと言語は language であり、tongue ですね。
l と t では、舌の先が上の歯の後ろの歯茎に来ます。 l ではぴったりと舌が貼りつき、t では軽く舌打ちする感じ。
ウラジーミル・ナボコフのLへの、尋常ではないこだわりについて書いた記事がありましたので、以下に引用します。アート・ガーファンクルの動画を使って、英語の L と T の発音をねちっこく、しかも少々エロく語った記事です。
アート・ガーファンクルの大きめの口が大きく開いたときに見える舌の動きに注目してください。
私なんか、見入ってしまいます。同じ口、同じ舌の動きを真似ている自分がいます。自分が舌になっていくような不思議な気持ちになります。
これだけ口と唇と口蓋と舌の動きや形や構えがよく分かる動画は珍しいです。声もいいですね。会場であるセントラルパークの雰囲気も最高です。
では、以下に引用します。
*
*Like a :
L の舌先が口蓋に触れます。学校で習ったとおりです。i (アイ)ははっきり発音されます。little を正確に発音すると分かりますが、単語の冒頭に来る l と最後に来る l は微妙に異なり、冒頭の l は舌先を上の歯の後ろにくっつけるように、最後や途中に来る l では舌先が口蓋の真ん中あたりに来ます。後者の場合には、口蓋にガムが張りついていて、それを剥がそうとする感じで息を吐くと「おー」みたいな深くこもった音になります。
したがって、little は「リロ」みたいに発音されます。apple が「アポ」に聞こえるのと同じです。「リトル」でも「アプル」でもありません。また、アルファベットのLは「エル」ではぜんぜんなくて「エオ」みたいに響きますね。要は舌先が口蓋の歯の近くではなく真ん中についていればいいのです。
単語の最初に来る l を意識的にゆっくり発音すると、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の冒頭を思い出さずにはいられません。
Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
(太文字は引用者による)
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
(『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ著・若島正訳・新潮文庫)
上で引用した原文に施した太文字の L と T をご覧ください(原文に太文字はありません)。やたら目につきますね。作者のナボコフが作品の冒頭で書いた部分ですから、選び抜いた語が並べられているにちがいありません。
これは、もはやLという音を賛美した詩ではないでしょうか。
身も蓋もない言い方になって恐縮ですが、こういう緻密かつ繊細な「音の芸術」は翻訳不可能だと思います。小説は散文なのですが、ここなんかはもう詩だと言いたいところです。詩、特に韻律のある詩を別の言語に翻訳すると別の詩になると言われますが、分かる気がします。
小説の言葉は目で見る文字としてだけではなく、朗読して味わうことができます。この部分は、特にそうです。ぜひ音読してみてください。上の引用では、(私が原文に施した)太文字のTとLに注意しましょう。
L と T は基本的に舌先が同じ位置にあり、T では上の歯のすぐ後ろにある口蓋を舌先が叩くというか弾くようにして発音されます。舌打ちにも近いです。ナボコフはそれを十分に意識しています。
ナボコフの L という子音に対する入れこみようは尋常でありません。L フェチと言ってもお墓の下のナボコフさんは腹を立てないのではないでしょうか。
過去の記事からの引用はここまです。
*
このさい、動画も貼り付けましょう。大好きで何度見たか分かりません。
言の葉
「言の葉」という言い方の「葉」ですが、これも私にはぺらぺらに感じられます。葉には端や刃や羽とのイメージの韻――「は」という音だけでなく――も感じます。端っこ、鋼を薄くのばした刃、薄く軽い羽という感じです。
学問的な関連については知りません。あくまでも個人的なイメージの連想を問題にしています。
さらに「言の葉」は、ヨーロッパの「言語」における「舌」のぺらぺらとイメージの韻を踏んでいる感じがします。英語でいえば、 language と tongue です。
(※「韻を踏む」というのは、通常は言葉の音(おん)の一致や類似に注目して言葉を掛けるレトリックを指します。「イメージの韻を踏む」とは、言葉の語義や、言葉の喚起するイメージの類似に注目して言葉を掛けるレトリックのことであり、私が勝手にそう呼んでいるだけです。)
*
言葉(言の葉、言語)はぺらぺら。そんな気がしてきました。たしかにそのようです。とはいえ、これはあくまでも個人的なイメージの話であり、普遍を意識したり指向しているわけでありません。
イメージの連想というか、直感とか直観というか、体感的な感覚が私は好きです。イメージとは個人的なものですから人それぞれであり、確認も検証もできませんが、だからこそ愛おしいのです。
おそらく死ぬ間際までついてきて、私を楽しませてくれるようなイメージなのです。私はこういう自分だけに受けるギャグを大切にしたいと思っています。
ぺらぺらがぺらぺらを生む
いま私は薄い液晶のスクリーン上に表示されている自分の入力した文字を見つめています。視覚的に厚みも深みも感じられない、つまり立体感に欠ける文字です。
ということは、ひょっとすると文字ってぺらぺらなのではないでしょうか。これまで考えたことがありませんでした。
ぺらぺら(紙や画面)にのっかかったり、うつったり、染みついたり、こびりついたり、貼りついたりしているのですから、文字はぺらぺらなはずです。いま文字のありようを体感した気分になり、どきどきしています。
私は言葉を広く取っています。話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、視覚言語と呼ばれることもある表情と身振りも言葉と考えて生活しています。
で、思ったのですが、ぺらぺらだらけではないでしょうか。
舌もぺらぺら。発したとたんに消える声の存在感も薄くてぺらぺら。空気の振動である声をとらえる鼓膜もぺらぺら。
手のひらもぺらぺら。手を使って書いたり入力する文字もぺらぺら。紙もぺらぺら。液晶画面もぺらぺら。
顔の皮膚を舞台とした表情もぺらぺら。
ぺらぺらとした網膜に映ってたちまち消える身振りもぺらぺら。
めちゃくちゃこじつけて、ごめんなさい。こんなことを書いている私もぺらぺら。さらに言うなら、へらへらでへろへろ。べろんべろんでないだけ、まし。
言葉は「うつる、写る、映る、移る」と親和性があるようです。
ぺらぺらは「うつる」と親和性がある。
*
ぺらぺらな言葉から意味とイメージが立ちあらわれる。というか、人はぺらぺらに意味やイメージを取る。
意味とイメージは実体を欠いている。実体を欠いているのだから、その存在感はきわめて薄い。つまり、意味とイメージもぺらぺら。
ぺらぺらがぺらぺらを生む。
*
それにしても、人はぺらぺらに取り憑かれているようです。ぺらぺらをせっせとつくり、ぺらぺらを写して増やし拡散し保存し、ぺらぺらに見入り、さらにぺらぺらをつくり……。
ぺらぺらにはぺらぺらな文字や絵がうつっていて、人はそこにぶ厚かったり、とほうもなく深かったりする「何か」を見ているようです。さもなければ、飽きもせずにこれだけぺらぺらに執着するわけがありません。
言の葉を聞く
震える、届く、震える、聞く。
ぺらぺらした舌が放した(話した)、ぺらぺらした声が、ひらひらと空気を震わせながら、ぺらぺらした耳たぶに届き、その奥にあるぺらぺらした鼓膜を震わせる。
言の葉を書く、写す、映す
話す、放す、映す、写す、書く。
ぺらぺらした舌が放した(話した)、ぺらぺらした声が、今度はぺらぺらした文字という影に落とされ、その影がぺらぺらした紙に映る、写る。つまり書かれる。
言の葉を見る・読む
映る、見る、眺める、読む。
ぺらぺらした紙に映った(書かれた)文字が、ぺらぺらしたまぶたの奥にある、ぺらぺらした網膜に映る。つまり、見る、眺める、読む。
ひょっとすると、見られた、あるいは読まれたときには、ぺらぺらした網膜に映る影が、ぺらぺらした心のスクリーンに映るのかもしれない。
心のスクリーンに映るのかもしれない意味やイメージや物語は、残念ながら目には見えない。
言の葉を写す、言の葉を移す
写す、移す、掻く、書く、染みる、刻まれる、印刷する。
ぺらぺらした紙に写った、移った、掻かれた、書かれた文字(インクの染み)が、別のぺらぺらした紙に写される。筆写や印刷。
*
移す、広げる、配布する。
ぺらぺらした紙に写った(書かれた)文字(インクの染み)が、紙にのったまま、あちこちに移される。配布。
*
写す、書く、染みる、移る、つながる、かさなる、翻訳する。
ぺらぺらした紙に写った(書かれた)文字(インクの染み)が、別のぺらぺらした言の葉の文字に移されることもある。翻訳。
英語と日本語に話をしぼりますが、単語、フレーズ、センテンス、文章、あるいは作品のレベルで、対訳でくらべた場合に、両者は別物(同一ではないという感じ)であり、「似ている」でも「同じ」でも「違う(異なる)」でもなく、強いて言えば「つながっている」と感じます。
翻訳は「つながっている」とか「かさなっている」というのが私の印象です。
(拙文「つながる、かさなる、むすぼれる」より)
ほんやく(translation)は翻訳とも反訳(速記なんかでは「はんやく」という作業もあるようです)とも書くみたいですが、「ひるがえす・翻す」が見えてそのイメージにわくわくします。ひらりとひっくり返すとか裏返すという感じです。
ぺらぺらをひらりとひっくり返しても、やっぱりぺらぺら。
*
投稿する=複製する=拡散する=保存する、映す、写す、移す。
デジタル化された情報(信号)が、ぺらぺらしたスクリーンに視覚化されて映る文字(画素の集まり)は、同時に、別のおびただしい数の端末のぺらぺらしたスクリーンに視覚化されて映る。ネット上では投稿、複製、拡散、保存がほぼ同時に起きます。
ぺらぺらというイメージの韻
以上、ぺらぺらという個人的なイメージを感じる、言の葉、舌、まぶた、耳たぶ、目の網膜、耳の鼓膜、紙、スクリーン、声、文字といったものたちを、ぺらぺらという言葉に掛ける形で、遊んでみました。
いや、むしろ遊んでもらったという気がします。あくまでも戯れです。
ぶっちゃけた話がこじつけです。
ぺらぺらという動き(これが動きであればですが)やイメージのシンクロという言い方もできるかもしれません。
*
ところで、言の葉、舌、まぶた、耳たぶ、目の網膜、耳の鼓膜、紙、スクリーン、声、文字は似ていますか? 見えないものありますが、見たときに似ていると感じますか?
人それぞれですよね。またはケースバイケースだと思います。そのときの気分でも変わる気がします。
要するに、こじつけなのです。
孤独な賭け
どちらにせよ、アルミ缶とミカンの数々の特性の中で、音の類似、つまり言葉として似ているという点が、一瞬両者をつないだのです。簡単に言うと、言葉が事物同士を一瞬つないだのです。
(拙文「駄洒落と比喩と掛け詞」より)
言の葉、舌、まぶた、耳たぶ、目の網膜、耳の鼓膜、紙、スクリーン、声、文字のそれぞれが持つ数々の特性の中で、イメージの類似、この場合には「ぺらぺら」という薄っぺらいものとしてのイメージが、私の中で一瞬ぜんぶをつないだのです。
掛け詞や駄洒落で掛ける要素である、発音や文字の形は、人の外にあるものですから、聞いて、あるいは見て一致や類似が確認できますが、イメージは人の中にあるものですから、確認も検証もできません。
*
私が勝手に作った言い回しである「イメージの韻を踏む」というのは、やはり言葉の喚起するイメージの類似に掛ける比喩に近いのかもしれません。
いずれにせよ、個人的なイメージに頼る孤独ないとなみなのです。ギャグといっしょで、誰かに受けるか受けないかは、賭けだとしか言いようがありません。
掛け詞も駄洒落も比喩も、そしてイメージの韻も、誰かが乗ってくれるかどうかに掛かっているという意味では、賭けだと言えそうです。しかも孤独な賭けなのです。
とどかない
ヒトはヒトという生き物の知覚と認知機能という枠の中で生きています。世界とか森羅万象とか宇宙という言葉をつくっていますが、それが指すものにはとどかないのです。
それが指すものがとうてい届かない、努力目標としか思えない言葉が多いようですが、そうした言葉に憑かれ疲れる人も多い気がします。
世界と呼ばれるものや宇宙と名づけられたものと無媒介的に触れあうことなどなく、隔靴掻痒の遠隔操作をしながら生きているという意味です。
何かに追いかけられて必死で走る夢を見たことがありませんか。
走っても走っても、走っていないようなのです。一生懸命に(命を懸けて)足を動かし手を振っているつもりなのにぜんぜん進んでいないのです。つまり、あがき、もがいているだけ。
これは駆けても駆けてもじつは駆けていないとも言えます。賭けても賭けてもは賭けていないと激似ではありませんか。もどかしい限りです。
気に掛けても掛けても、じつは掛けたことにはならない。絵を描いても描いても、じつは描けてはいない。文章を書いても書いても、じつは書いてはいない。
隔靴掻痒の遠隔操作。まるで夢の中。知覚機能を用いる限り対象には触れることができない。言葉を使う限り直接的に森羅万象を相手にすることはできない。
駆けても駆けても駆けてはいない。掛けても掛けても掛けてはいない。掻いても掻いても掻けてははいない。書けても書けても書けてはいない。要するに、そういうことです。
どう足掻いても藻掻いても現実にたどりつけない私たちは、覚めた夢の中にいるのかもしれません。
(拙文「書いても書いても書いてはいない。」より)
たどれない
オノマトペに限らず、言葉がすっと入ってきたり、すっと出ていくとき、その言葉は「何かに似ている」というよりも「単に似ている」として入ってくるのではないか。そんな気がしています。私の好きな言い方をすると、本物のない複製の複製であり、起源のない引用の引用です。
「すっと入ってくる」「すっと出ていく」がポイントです。意味を考えたり意識したりはしていない状態です。その時点では意味なんてないのです。「似ている」だけがある感じ。オノマトペに限りなく近くなっている状態をイメージしてください。
くり返しますが、どんな言葉でも、フレーズでも、センテンスでもいいのです。オノマトペとか、感動詞とか、決まり文句とか、流行語に近い感じ。条件反射的に、または生理現象のように、すっと入ってきて、すっと出ていくのです。
(拙文「美しいって、何が?」より)
言葉が生まれた。
流行語も新語も、ある言い方や言葉を少し変えたり、組み合わせたという意味で引用であり複製です。引用にも複製にも、ずれが生じます。まったく新しい言葉とか言い回しは可能なのでしょうか。
言葉が生まれた。
このセンテンスというか言い回しは、常に過去形ではないでしょうか。
人類にとっての言語というレベルでも、ある特定の言語というレベルでも、方言(方言と言語の定義は曖昧ですが、「言語(国語)とは軍隊を持った方言である」というフレーズが至言だと思います)というレベルでも、ある話し言葉の単語や言い回し、またはある書き言葉つまり文字の書き方や綴りというレベルでも、言葉の始まりというのはたどることが不可能な夢のようです。
それだからこそ、さまざま人がこれまでに夢見て語ってきたのでしょう。タイムマシンの発明が実現するまでは諸説ありの神話でありつづけるのかもしれません。
言葉と影に先に立たれる
人は時をさかのぼることができません。過去は忘れるか、覚えているか、思いだすか、記録(暗唱、文字での記述、絵や撮影をふくむ映像化、デジタルデータ化)するか、たどって想像するか、他の人と共同であるいは一人で決めるか、でっち上げるしかできないのです。
人にとって、「はじまる」「はじめる」「はじまり」は、「いま」か、「これから」でしかなく、その「はじまる」「はじめる」「はじまり」は、もはや「くりかえす」「くりかえし」でしかない気がします。
「はじまる」「はじめる」「はじまり」は永遠に失われているという意味で、人にとっては抽象でしかないのかもしれません。知識と情報としてでさえ、その存在はあやしく危ういのです。この場合の抽象というのは「失われている」、つまり「ない」、言い換えれば「過去」だという意味です。いましているのは、言葉の話です。
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もはや、おそいのです。おくれたし、おくれているし、おくれつづけるのしょう。まるで影のようではありませんか。
影に気づいたとき、人はすでに影に先に立たれているのです。人が先に立って、できたはずなのにです。
影とは言葉のことでもあります。比喩とも言えるでしょうが、どっちがどっちの比喩なのかが不明なのです。いまはそういう話をしているのです。
言葉に気づいたときには、人はすでに言葉に先に立たれているのです。人が先に立って、できたとか生まれたはずなのにです。
かつて先立ったはずの私たちが、いつのまにか影や言葉に先立たれ、その私たちがいつか影や言葉に先立つことになる。「先立つ」には「前に立つ」や「先に起こる」と「先に亡くなる」の両義があります。
ことのはに さきだつひとを おくるかげ
(拙文「影に先立つ【引用の織物】」より)
人が先か、影が先か、言葉が先か。
似た話がありますね。こけこっこー。ぽとり。
人が先だというのは抽象ではないでしょうか。影に気づいたときや、言葉に気づいたときには、人はもう後れて遅れているのですから。
言葉は影、影は言葉。
影と言葉がはじまった、つまり生まれたとき、人は人になったのであり、人は人として生まれたのではないでしょうか。
短絡を覚悟で言えば、影というものを人が認識したとき、言葉というものを人がつかいはじめたとき、影と言葉が生まれた、つまりはじまったのです。
こうも言えるでしょう。はじまりを意識したときには既に、はじまりに後れていて遅い、はじまりを口にしたときにはさらに遅い、はじまりを文字にしたときにはもっと遅い、と。はじまりを言葉や影に置き換えても同じです。何でも、そうなのです。追いつけないのです。
とどかない、たどれない、追いつけない、はひょっとすると同じなのです。または、つながっているのかもしれません。
でまかせで言いましたが、もうそうであれば、「はじまる」「はじめる」「はじまり」をたどれるでしょうか。
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人は「はじまる」「はじめる」「はじまり」をイメージして、「はじまる」「はじめる」「はじまり」という言葉をつくったのかもしれません。
「はじまる」「はじめる」「はじまり」が「過去をさかのぼる」あるいは「たどる」ことではなく、人にとって「はじまる」「はじめる」「はじまり」とは「これから」つまり未来での動作と出来事でしかないことは興味深い事実です。「これから」「つくる」のです。
過去も「はじまり」も未来であるというのが、人にとっての現実なのです。「はじまり」も「過去」も「起源」も、「これから」「先に」仮設し仮説し架設するかないという意味です。虚構をつくるとか、こしらえるとも言えます。
「はじまり」も「過去」も「起源」も言葉ですから、当然のことながら、言葉で、こしらえるのです。
これを逆説だか詭弁だととらえるのは自由ですが、逆説なんて言葉でまとめたところで、気安めになっても事態は変わりません。
言葉をつかう限り、記述は、既述であり、奇術であり、詭術でもあるのです。⇒拙文「記述は、既述であり、奇術であり、詭術でもある。」
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現実には現実の文法があり、思いには思いの文法があり、言葉には言葉の文法があり、イメージにはイメージの文法があると私はとらえています。この場合の文法とはもちろん比喩です。
現実と思いとイメージと言葉が別物だからです。
逆説とかトートロジーとかいう言葉でまとめて思考停止するのは、言葉の文法にこだわっているからだと私には思えます。一対一に対応しない別物のあいだに食い違いがあるのは当然なのです。
人は言葉での辻褄合わせや帳尻合わせにこだわりすぎている気がしてなりません。このことに敏感だったのはニーチェであり、ジル・ドゥルーズだったように私はイメージしています。
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言葉で現実の帳尻合わせをするより、言葉が喚起するイメージと積極的に戯れるのが、私は好きです。わくわくするからです。
長い記事を投稿して疲れました。しばらく夢路をたどりたいと思います。
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