仮象、化象

 

 抽象、具象、事象、現象、表象、仮象、印象。

 こんなふうに、言葉を並べてわくわくする人がいます。ここにもいます。辞書や事典で調べたり、ネット検索をする気配はありません。ただながめて、にやにやしたり、うーむとうなってみたり、鼻の穴をほじったり、たまに天井の模様に見入っていたりしています。

(拙文「意味は宙づりのまま、なぞり、えがく」より引用)


 調べずに、ながめているだけというのは、本物のない複製の複製と起源のない引用の引用を相手に積極的に戯れようというスタンスだと言えるでしょう。



目次
仮象
かり、かりる
仮の姿、本当の姿
化象
but skin deep
ネタバレあり、「バット・スキン・ディープ」創作ノート
ぺらぺら、厚みがない
本物と偽物が区別できないどころか、意味をなくしている
お化けごっことしての世界


仮象


 仮象。


 前から気になっている言葉です。ものすごくかっこいいです。ぞくっときます。「かしょう」であって「けしょう」ではないようですが、「けしょう」もいいなあと思います。


 辞書を引いた記憶があります。哲学か美学かの用語らしいのですが、専門用語は苦手なので、勝手にイメージしてみます。私は研究者でも探求者でもありません。



 仮象。かしょう、けしょう。


 姿や形が仮のものなのでしょうね。想像するとぞくぞくします。怪しいというよりも妖しいです。仮の姿ですよ。妖しすぎます。


 仮ということは、本当の姿があるのでしょう。化けているということになりそうです。あるいは借りている。「仮」と「借りる」はつながっていたはずです。


かり、かりる


「『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』」という記事を書いた書いたときに、「かり」と「かりる」について調べたり、考えたことがあるのですが、ほとんど忘れています。


 年を取ったせいか、物忘れが加速度的にひどくなり、集中力がめっきり萎えてきました。



 その記事にざっと目を通しましたが、長いですね。無駄に長いというやつです。もうあんな長いものは書けません。


 仮象も何度か使っています。やっぱり深入りはしていないみたいです。浅い人間なので、深入りできないのです。表面をなぞるだけ。


 本物のない複製の複製と起源のない引用の引用を相手に積極的に戯れるだけ。居直って、ごめんなさい。でも、そのほうが楽しいですよ。


仮の姿、本当の姿


 仮の姿。借りた姿。本当の姿があるはず(ほんまかいな)。どこかにあるのか、隠しているだけなのか?


 姿が変わったのか、移り変わったという感じなのか? 答えなんかありませんから、いろいろ想像してぞくぞくして楽しみます。


 本物の姿があって仮の姿という発想は好きではありません。本物と偽物とか、真偽とか、正誤が苦手なのです。ぶっちゃけた話が、嫌悪感を覚えるのです。


 嘘っぽいのです。本物も偽物も、正統も邪道も、等しいと思っているからでしょう。


 要するに、本物のない複製の複製と起源のない引用の引用です。


化象


 仮象。かしょう、けしょう。


「けしょう」は私が勝手に付けくわえた読みですが、「けしょう」といえば、化粧ですよね、ふつうは。


 仮象、仮生、化生、化粧。


 私はお化粧をする習慣はありませんが、興味はあります。自分のすっぴんに粉や色をつけるようですね。大変でしょうね。


 自分の顔の表面をいじるわけです。表面をいじって変えるのです。根本は変わりません。表面だけ。表面だけでも、あれだけ変わるのです。


 すごすぎます。


but skin deep

――Beauty is but skin deep.(美は皮膜にあるのみ)

(拙文「【小説】バット・スキン・ディープ」より引用)


 美は皮膜にあるのみ――英語のことわざの訳文です。掌編小説のエピグラフとして使ったことがあります。


 美しさは、皮膚の厚さくらいしかないという意味です。どんな美人さんでも、皮をむけば……という感じでしょうか。残酷なフレーズですね。文字どおりに取って、そのさまを想像するとぞっとします。


 でも言えていると思います。お化粧だって、表面だけを変えるのですから、分かりやすいです文句です。


 よく考えると、深さがなくてぺらぺらものに「美しい」と感じさせるものが多い気がします。


「美しい」とか「わんわん」とか「きれい」と口にするなり文字にする行為は、引用であり、「美しい」という声や文字は複製だという気がしてきました。

 真似て、それをくり返しているわけですから、引用の引用、複製の複製でしょうか。しかもその引用の起源と複製の本物が不明なのです。不明どころか「ない」というのが実感です。誰にとってもそうではないでしょうか。

(拙文「美しいって、何が?」より)


 前回の記事からの引用です。言葉はどんどん口にし文字にしていると擦り切れてきますが、中身が薄くなってそのうち存在感がなくなります。「美しい」は空疎な決まり文句と化しているのです。詳しくは「美しいって、何が?」をお読みください。


 表面だけでぺらぺら、深さというものがない。まさに、これこそ本物のない複製の複製であり、起源のない引用の引用ではありませんか。言葉と激似。いまのは、お化粧のことです。お化粧の下にあるものの話ではありません、念のため。


 ここで脱線します。


ネタバレあり、「バット・スキン・ディープ」創作ノート


(ここからは脱線ですので、飛ばしていただいてかまいません。太文字の部分だけでもお読みください。)


 以下は過去の記事に加筆したものです。


 勢いを生かすために加筆は最小限にとどめています。レイアウトが変ですが、かつてはこんな書き方をしていました。読みやすいように心がけていたのです。やたら「=」もつかっていますが、意味の固定を避けて、こう言えるし、ああも言えるというふうに書きたかったのです。


        ◆


 さてテーマは、


*「視線」と、「美醜」or「虚実」


についてです。


「見る」とは、どういう「いとなみ=行為=行動」なのでしょう? あるいは、どういう「身ぶり=運動=しぐさ=身のこなし」なのでしょう? 個人的には、「いとなみ=行為=行動」とは抽象的レベルにあり、「身ぶり=運動=しぐさ=身のこなし」は具体的な動きをイメージしています。順序が、逆になりますが、「信号」に関して、という限定つきで定義するなら、


*1)「みる・見る」という「身ぶり=運動=しぐさ=身のこなし」は、「視線を投げる・視線を送る・合図をする・めくばせをする・色目をつかう」ことであり、相手(=対象)に働きかけることを目的とした動作である。


と考えています。もちろん、個人的な感想です。一方、


*2)「みる・見る」という「いとなみ=行為=行動」は、世界=宇宙=森羅万象を、「色分けする・区別する・分かる・分ける・知覚する」ことであり、対象への働きかけを放棄=保留することである。


と考えています。これもまた、あくまでも、私見=愚見ですが。


 上で述べた2つの定義=フレーズの大きな違いは、


*「見る者」と「見る対象=見られる対象」とのかかわりの違い


にあります。上記の2つを、さらに別の言葉で言い換えてみましょう。


*1)ヒトは、何かを「みる・見る」とき、何かを期待する。わくわく、どきどきする。


*2)ヒトは、何かを「みる・見る」とき、何かを悟る=発見する=知る。驚き、唖然とする。


 たった今書いた2つのフレーズを、今回のテーマである、


*「視線」と「美醜」or「虚実」


にからめて、さらに書き換えてみます。


*1)すげー美人だ! or かっこいい! or 美形だわー! or なんてぶさいくな!


*2)そうだったのか!=なるほど!=へえーっ!=あれっ!?=ほぉー!=わかった!=Eureka(エウレカ)!


となりますが、少々くだけ過ぎてしまったので、もう少し、かみ砕いて説明を加えます。


 1)の場合には、「美醜」が意識にあります。「美醜」は広い意味にとりましょう。「プラス=快」か、「マイナス=不快」くらい広くとってもいいと思います。何しろ、「ナンパする」「ナンパされる」という「魂胆=期待」というメッセージを帯びて=担って、「視線」という「信号」を相手に送るのです。これから、「快=気持ちいいこと」があるだろうという前提に立っている、とも言えます。


 一方、2)の場合には、「虚実」が意識にあります。バタ臭く言えば、「存在と無」に匹敵する、「理屈=論理=分別」の世界を「覗き見る」行動です。ここでは「ナンパする」「ナンパされる」や「魂胆=期待」といった心理的な余裕はありません。俗な言い方をすれば、「不意打ちをくらう」という「事件=出来事」と遭遇することなのです。


        *


 そろそろ、まとめに入ります。大雑把に言って、「みる・見る」とは、「視線」の働きという点から見た場合には、上述の1)と2)の2つの状況が想定できるのではないかと考えています。


 拙作「バット・スキン・ディープ」は、上述の1)と2)という2種類の「視線」の在り方の「交錯」を主題にしているとも読めます。


 主人公の女性は、1)と2)を混同してしまった。その結果として、悲劇が起こった。このような「解釈」もできるのではないでしょうか。本来は、「美醜」、つまり、「プラス=快」vs.「マイナス=不快」に向けられるべき「視線」が、「虚実」、つまり、「理屈=論理=分別」に向けられてしまった。そんな倒錯した事態に陥ってしまったために、主人公は犬と人を殺めてしまったのはないかと考えられます。


 深夜の公園で、火傷の跡のある自分の顔を愛犬に舐められるシーンがあります。そのさいに、自分が同情されているように感じる個所がありますが、これが伏線であり、後の2つの悲劇、つまり、犬の殺害と友人の殺害につながります。


 つまり、


*美醜は皮膜に在るのみ


であるように


*虚実も皮膜に在るのみ


と言えます。これは、


*「美醜」も「虚実」も、実体はなく、「みる・見る」者のまぼろし=幻想として立ち現れる。


ということです。ただし、


*「美醜」は、わくわく・どきどきしながら、「めでる・愛でる=ながめる・眺める」ものである。一方、「虚実」は、「不意にめぐり合う=遭遇する=悟る=知覚する」「事件=出来事」である


ために、「美醜」という感動の対象に、「虚実」という「不意の出来事」を「見てしまった=出合ってしまった」場合には、取り違えた代償として、「錯乱=狂気」または「罰=悲劇」とも言い換えることが可能な「こころの痛み=こころが壊れる」が生じる。そんな事態が起きてしまったように、思えるのです。


 もっとも、犬にとっての「美醜」とは「プラス=快」vs.「マイナス=不快」の感覚であり、飼い主=ボスと犬自身との快い関係と言うべきでしょう。そこに、「虚実」、つまり極めて人間的かつ「知的」な行為である「同情」という「信号」を「事件=出来事」として見てしまった。いわば遭遇してしまった。


 友人を殺めたさいには、美醜というまぼろしに、虚実というまぼろしを重ねてしまった。これも「信号」にそなわっているまぼろしの仕組みに、惑わされ裏切られてしまったのです。ある印(しるし)を「読み間違える」ことによる悲劇。「読み間違える」とはきわめて視覚的な行為、つまり「視線」のなせる業(わざ)です。


 実は「まぼろし」でしかない「美」の存在を「否定=打ち消す」ために、腐り朽ちていくだけの「皮膚=仮面」をナイフで剥ぐ。空しく愚かな行為とも言えます。同時に、象徴的な行為でもあります。


        *


 今、こうやって、自作を分析してみると、大学の卒論で書いたロラン・バルト論でのテーマを、あの小説を書いた頃にも引きずっていたことを感じ、唖然とします。


 ちなみに、卒論で取り上げたのは、『S/Z』というバルトの批評。その批評が扱っていたのが、男女を「取り違える=読み間違える」彫刻家が登場する、バルザックの中編小説『サラジーヌ』なのです。意識していたわけではないのですが、結果的に、バルザックの小説と、バルトの評論と、それを論じた自分の卒論と、後年に書いた自作の小説と、この記事とが、めくばせし合っている。テクスト間のめくばせ、とでも言いましょうか。おこがましいですが、そんなふうにも感じられます。


        *


 込み入っていて、ややこしいですね。考えていることを、正確に書こうとすると、こんなふうになってしまうのです。自分を裏切ると言うか、考えていることを偽ると言うか、不正確になることを覚悟して、思いきって、単純化してみます。


*マジで=真剣に見てはならない「もの=信号」を、マジで=真剣に見ると、取りかえしのつかない間違いを起してしまう。なぜなら、目に見える「もの=信号」は、すべて「まぼろし=幻想」だからである。


では、どうでしょうか? 具体的に言うなら、


*主人公が、自分が同情されているように感じる


ことにより、主人公は「とてつもなく大きな勘違い」をしてしまったのです。「信号」を「読み間違えた」とも言えます。それが2つの悲劇の引き金となったのです。1つは犬の殺害。2つ目は友人の殺害。簡単に言えば、そういうことです。



        ◆


 引用を終わります。脱線はここまです。


 話をもどします。


ぺらぺら、厚みがない


 絵、写真、映画(スクリーンに映します)、液晶画面に映る映像。

 文字、本、雑誌・新聞、液晶画面に映る文書。


 こうしたぺらぺらであったり、厚みを欠いた表面に、いろいろな情報がのっかっているわけです。印刷されていたり、映しだされています。


 すごいですよね。不思議です。不思議すぎて腰を抜かすのを忘れるくらいです。



 薄いのに厚い。表層なのに深層。浅いのに深い。平面なのに遠近が感じられる。小さいのに大きい気がする。狭いのに広い感じがする。


 反対だと言われたり思われていることが、同時に起きているのです。でも、それは言葉の世界と現実世界を混同しているから不思議なのであり、よく観察すればよくあることなのです。


 この辺のことは、「「短い」と「長い」が同時に起こっている」という記事に書きましたので、興味のある方はお読みください。


 不思議の国じゃないですか。ルイス・キャロルは、やっぱりすごいわという話になります。そのすごさを指摘したジル・ドゥルーズはやっぱりすごいという話にもなりそうです。


 この辺のことは「夢は第二の現実」と「言葉の綾を編んでいく」という記事に書きましたので、興味のある方はお読みください。


本物と偽物が区別できないどころか、意味をなくしている

 

 現在の世界は、薄いのに厚いものに満ち満ちています。


 絵、写真、映画(スクリーンに映します)、液晶画面に映る映像。

 文字、本、雑誌・新聞、液晶画面に映る文書。


 なんでこうなっているのでしょう。想像力のたくましさと学習の成果だと思います。


 なにしろ、写真に映った「あれ」(「なに」でもいいです)を見て、人は欲情するのです。これがいちばん分かりやすい説明になるでしょう。誰もが経験していると想像できるからです。


 レストランの入口近くに陳列された料理のサンプルを見て、お腹が鳴ったり、口に唾が出てくるのと同じでしょう。条件反射とも言えそうです。


「あれ」(「なに」でもいいです)というのは人、それぞれです。自分にとっての「あれ」(「なに」でもいいです)が何かは普通はひとさまには言いません。プライベートなことだからです。



 写真に映った映像で興奮するのは、想像力のたくましさです。人は本物を相手にしなくても欲情できるという意味です。まさか、インクや紙や画素や液晶に欲情しているのではないのは確かだと思われます。いくらいろんなフェチがあるだろうとは言え、です。


 とは言うものの、偽物や似たものや似せたもののほうが好きだという人がいても、不思議はありません。


 現在は、本物と偽物、「複製」と「複製の複製」、本当か嘘か、こういった区別が困難になり、さらにいうなら、その区別が意味をなくしつつある時代なのです。


 このことが露呈するのは、戦争が起きるときだというのは、悲しい皮肉であり悲劇だと思います。いまみなさんが実感なさっているのではないでしょうか。


 この辺のことは、「本物のない複製の複製、起源のない引用の引用」という記事に書きましたので、興味のある方はお読みください。



「あれ」の映像から、「あれ」が書いてある文章に話を移します。


 人はぺらぺらの紙に印刷された文字でも興奮するのです(紙やインクや文字に欲情しているという意味ではありません、念のため)。これは学習の成果です。文字を何度も何度も見てなぞり、写すことによって、真似て学ばないと、そういう楽しみは味わえないのです。


 したがって、ワンコやおさるさんは、紙の上の文字と現実を混同しません。文字と現実を混同するおさるさんがいたら、世界的な大ニュース、歴史的大事件になるでしょう。AI並みにヒトの嫉妬と恐怖の対象となり迫害されるにちがいありません。


 欲情だけにとどまりません。喜怒哀楽すべてが、文字で引きおこされることはみなさんが日常的に経験なさっていることですね。


 これは小説で偽物だから感動しないよ。これは言葉であって事物でも現象でもないから、何とも思わないもん――。


 そんなの嘘です。万が一そんなことを言う存在がいれば、人ではないでしょう。それは人の姿をした機械かもしれません。いまは、そんな機械がいてもおかしくない時代です。


 冗談はさておき、化象とかお化けかもしれません。いるんですよ、そういうのが。以下のまとめで、その話をします。


お化けごっことしての世界


 まとめます。


 仮象、化象、化粧。

 うわべだけ、ぺらぺら。薄いけど厚い。浅いけど深い。小さいけど大きい。短いけど長い。平面だけど立体。静止しているけど動いている。

 仮の物からなる世界。ぜんぶ仮のもの、ぜんぶ借りもの。


 誰もが生まれときに既にあったもの――言葉のことです――を借りるのです。仮初めに。


 偽物、似たもの、似せたものに満ち満ちた世界。

 情報とは、知識とは、事実とは、「似せたもの」であり「似たもの」――似ているだけですから、実物や本物やソースつまり起源ではなく別物であるのは確かです――である。ひょっとすると偽物かもしれない。


 というか、本物や実物のない複製の、また複製であったり、起源のない引用の、また引用ではないでしょうか。


 あなたがいまご覧になっている端末の画面に映っているものがそうです。ええ、そうです、私です。そして、あなたもです。


 世界は、化け物だらけ、化象だらけ。

 化けた者が化けた物を相手にしてお化けごっこをしている。


 似せた者が似せた物を相手にそっくりショーをしている。


 似せ者が似せ物を相手に偽物ごっこをしている。



 ぺらぺらしたとりとめのない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。



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