そっくりなのは、そっくりにつくってあるから

 


目次
言葉の不思議
文字が入る、何かが移ってくる、乗っ取られている
音声が入ってくる、一瞬変になる、震える
表情や身振りが入ってくる、ダイレクトに感じる
人のつくった影が入ってくる、めっちゃ気持ちいい
そっくりにつくってあるもの、そっくりに見えるもの
まとめーーそっくりな影たち


言葉の不思議


 私は言葉を広く取っています。話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、表情と身振りも含めています。こうした言葉たちとそのありようを観察することが趣味なのです。


 誰もが生まれたときに、すでにあるもの。つねに人の外にあって、それでいてときに人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で、人にとって「外」であるもの――。言葉については、こんなイメージを持っていますが、イメージですから個人的な印象です。


 以前から、不思議でならないことがあります。話し言葉と表情と身振りが、発せられると同時に片っ端から消えていくのに対し、書き言葉だけが残ることです。当り前のようですが、考えれば考えるほど、不思議です。いったいどういうことが起きていて、そう見えるのかが不思議なのです。


 この不思議さは、言葉が発せられる、放たれる、つまり人から出ていくときの不思議さなのですが、今回は言葉が人に入ってくるときの不思議さについて考えてみたいと思います。


 不思議だと思うままに、あれこれ考えながら言葉をつづっていくという方法を取ります。こういう見切り発車は書くときの私の癖なのです。


文字が入る、何かが移ってくる、乗っ取られている


「何か」に「何か」を見てしまう。


 文字や文字列や文章を見て、それを読むときには、人は「何かA」に「何かB」を見てしまっている気がします。「文字」と「その文字で人が見てしまうもの」はふつう似ていません。まして同じではありませんが、その異なる二つのものが、人においては同居しているのです。


「猫・ネコ・ねこ・neko」という文字をご覧ください。みなさんが、この文字を見て、頭に浮かべたものと似ていますか。似ていないのに、見てしまう(思いえがくとか思いうかべるとか呼びさまされる)のです。


 不思議ですよね。文字を学習した成果だと言われれば「ああ、そうですね」と納得する自分と「えっ、どういうこと?」と納得していない自分がいます。


 これは、話し言葉や表情や仕草でも言えることのようですが、文字の場合には、人の外にあって残っているものですから確認しやすい点が、特徴的です。人の外にあって残っているので、他の人といっしょに見て確認できるという意味です。すごいですね。不思議です。


     *


 文字からなる文章を読むとき、人は一種の催眠状態におちいっているのではないか。一時的に変な状態になっている、何かに乗っ取られている、何かが移って生きている。自分の催眠状態と変な状態を棚に上げて、そんな不穏なイメージをいだきます。


音声が入ってくる、一瞬変になる、震える


 信じるとき、人は一瞬あるいは短時間、自分を何かにゆだねます。心ここにあらず。目は宙を見ている。思考停止、判断停止。営業停止。忘我。頭の中が真っ白。言葉になんねー。

(拙文「信じるとき、人は一瞬変になる。」より)


 話し言葉である音声が入ってくるとき、人は何かに自分をゆだねて、どこかに行っている気がします。音声はすぐに消えますから、一瞬とか短時間のことです。


 音声には有無を言わせないところがあります。文字の場合には見たくなければ、顔をそむけたり、目を閉じればいいのですが、耳はそう簡単にはふさぐことができません。


 聞きたくなくても聞こえてしまうのです。有無を言わせずに入ってくるとも言えるでしょう。不思議です。こうやって言葉にすると、分かったような気持ちになるのですが、ぜんぜん分かってなんかいないのです。不思議でなりません。


 やはり音声である、音楽をイメージするとリアルに感じられそうです。音楽は否応なしに入ってきます。どうしても堪えられなくなったら、その場を去るしかなさそうです。


 ぐいぐい入ってくる。これが音声の特徴ですが、入ってきたときには、頭だけでなく体に、こう、ぐっと来ませんか。大げさに言うと、震えるのですが、音声は波だと実感します。


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 話し言葉としての音声には語義(意味)があります。文字で書けば「猫・ネコ・ねこ・neko」ですが、訛りや発音や発声の個人差を除けば、同じ音として入ってきます。


 この音で、聞いた人が何をイメージするかは、文字の場合と同じく、確認できません。何をイメージしたかを言葉(とくに文字)にして報告するしかないという意味です。入ってきた言葉が、中でどうなっているかは、言葉でしか確認できないのですが、変なというか不思議な話です。


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 言葉が中に入るとき、人はいったん(一瞬)その言葉を信じます。信じないと受けとめられないからです。「馬鹿!」と言われて、「馬鹿!」と一時的に言われたことを信じないと反論も批判も泣き寝入りもできないという意味です。


 いったん入ってきた言葉を信じてから、事後処理として反論とか否定とか泣き寝入りが生じます。


「馬鹿!」(と言われる) 

⇒ 「はいはい、そうですね」(いったん信じる) 

⇒ A「いや、やっぱり、そんなことはない」(否定する)、または、B「はいはい、やっぱり、そうだよね」(再認識する)、または、C「ふーん」(面倒だから取り合わない)、または、D「……」(言われたことを忘れる)


 いずれにせよ、太文字の部分をスキップするわけにはいかないのです。たいていは、CかDのリアクションに落ちつくでしょう。誰もが、情報処理に忙しいからです。


 ほとんどの場合、言葉が入ってきても、中ですぐに消えるのですが、これは人とその身体に備わった「知恵」です。さもないと体と心が持ちません。だいいちヒトの情報処理能力と保存(記憶・記録)する容量は、各人が想像しているより、はるかに小さいようです。


表情や身振りが入ってくる、ダイレクトに感じる


 表情や身振りは視覚言語(手話も含まれます)と呼ばれることがありますが、おもに見て受けとります。


 話し言葉と書き言葉との決定的な違いは、表情と身振りは生まれたての赤ちゃんの中にも入ってくるという点です。すごすぎます。不思議ですね。考えるとわくわくどきどきします。


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 赤ちゃんを見ていると意味と無意味について考えずにはいられません。赤ちゃんの表情や仕草や声が信号に感じられるからです。信号というのは、前提として意味やメッセージを想定しているわけです。つまり、はらはらどきどきです。


 しかも点滅してあおることもあります。この泣き声はおむつを替えてほしいなのか、お乳がほしいなのか、どこかが痒いのか、痛いのか、暑いのか、それとも熱いのか? こんなふうに解読ごっこになります。


 初めてのお子さんだと心配でしょうね、不安でしょうね。解読地獄におちいる場合もありそうです。


 でも、赤ちゃんとお母さん、お父さん、その家族の人たちの様子を見ていると、赤ちゃんの発するあらゆる信号をつねに正しく受けようとしているわけではないのに気づきます。


 受け流しているように見える場合がよくあります。ほほ笑みにほほ笑み返す、ほほ笑みにしかめっ面をしてみせる、ほほ笑みをただ眺めている。泣いても知らん顔。


 それだけでいい。そこにいて笑みを浮かべているだけでいい。そこで泣いているだけでいい。そこにいるだけでいい。


 信号は解読すべきものではなく、ただそこに「いる」という、おおらかでおおまかな印として、そこに「ある」かのように見えます。


 ただ「いる」という信号として、ただ「ある」だけ。


 意味はそこにあるというより、人の中にあるのでしょう。世界が意味だらけなのではなく、人の中が意味だらけなのでしょう。人は自分の中でたちさわぐ「意味の立ちあらわれ」を静める術を心得ているようです。


(※以上は、拙文「意味が立ちあらわれるとき」から引用しました。)


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 意味と無意味のはざまにいることも可能だという意味で、表情や身振りにはダイレクトに人に「何か」を感じさせる力があると言えそうです。


 ダイレクトというのは、いわば無媒介的に表情が表情を、身振りが身振りを誘発する、つまり受け手が相手の表情と身振りを模倣する(「なぞる」)という意味です。


 相手の動き(表情も動きです)に合わせて、こちらも心や頭の中で――あるいはじっさいに――動くと言えば、お分かりいただけるでしょうか。


 身体的レベルでの「うつる」と「伝わる」が起きるのです。必ずしも「通じる」わけではありません。なぞってうつるのです。「何か」が伝わることは確かでしょう。この伝わり方をプリミティブと言う人もいそうです。


 その伝わる「何か」は各人の中で起きていることですから確認できません。確認するためには、やはり言葉にして報告するとか説明するしかなさそうです。


 身も蓋もない言い方になりましたが、じっさいにはそんなことはありません。みなさんの中で起きていることです。ご自分の日々の体験を振りかえってみてください。


 というか、いまも、その「何か」があなたの中で起きているのです。


人のつくった影が入ってくる、めっちゃ気持ちいい


 ここで、人のつくった影も、言葉のように人の中に入ってくることに気づいたので、取りあげます。


 人のつくった影とは、写真、絵、映画、映像、動画をイメージしてください。ぜんぶ、「うつる・うつす、映る・映す、写る・写す」の産物です。広く取ると本や絵本も入りますが、上で取りあげた文字がからんでくるので、ここでは無視します(いつかもっと体調のいいときに考えます)。


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 つくられた影には特徴があります。枠があるのです。フレームとも言います。写真や映画には枠があります。うつす紙やスクリーンにも枠というか限度があります。映画であれば時間的な枠もあります。上映時間というか作品の時間です。 


 つくられた影には筋書きやストーリーもありそうです。筋書きとはつくられたものです。物語であり、フィクションのことです。だから、わくわくするのです。どきどきもするのです。ぞくぞく、あらら、という感じです。


 人はこのわくわくどきどきぞくぞくを求めて、自分たちのつくった影を自分の中に入れます。入れるとめっちゃ気持ちいいからという単純な話に落ちつきます。


 このあたりの話は、拙文「意味のある影、意味のない影」の一部を引用したので、興味のある方は、お読みください。


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 ところで、人のつくった影は、どうして、入れるとめっちゃ気持ちがいいのでしょう?


 入れるとめちゃくちゃ気持よくなるように「つくってある」からにほかなりません。人のつくった影の、文字や音声(人がつくったというよりも備わっている)に比べての大きな違いは、それです。


「猫・ネコ・ねこ・neko」という文字は猫に似ていますか? 「猫・ネコ・ねこ・neko」と発音したときに出てくる音声は猫に似ていますか? ぜんぜん似ていませんよね。


 それに対し、「猫・ネコ・ねこ・neko」に似せて「つくった」影は、似ています。というか、たいてい「そっくり」なのです。絵、写真、映画、ネット上の静止映像や動画は、ふつう猫にそっくりにつくられています。


 複製、似せたもの、似たもの、似せもの、偽物――お好きな言い方を選んでください。共通点は「別物」だということです。現物や実物ではないという意味です。


 でも、「似ている」し「そっくり」なのは、そうつくってあるからです。


そっくりにつくってあるもの、そっくりに見えるもの


「そっくり」に見えるのは、それに愛着を覚えないからだという場合もあります。「そっくり」な点に関心があっても、そっくりではない点、つまり個性はどうでもいいのです。


「そっくり」を感じているときの人の眼差しは残酷だと言えます。差別し排除しているからです。しかも排除しているものが見えていません。


 人はそっくりなものに囲まれて生きていますが、そっくりなものは二つに大別できます。人が「そっくり」につくったものと、人の目に「そっくり」に映るもの(自然界にいるもの、あるもの)です。


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  人がそっくりにつくったものが並んでいるさまは壮観です。一方、人の目に「そっくり」に映るから並べられているものたちのありようには、人を一瞬すくませるものがあります。


 スーパーに並んでいる製品たちと、スーパーで並べられている生きものたちの遺体を思いうかべてください。


 後者を目にして一瞬すくむのは、無言で並べられているものたちに一瞬命を感じるからにちがいありません。そっくりに見えるというのは、感情も命も無視されているという意味なのです。だから並べられるのです。


 飼育されている動物たち(囚人)、スーパーで並べられている魚たち(ご遺体)はどれもそっくりに見えませんか? 私にはそっくりに見えます。


 人も――生きている場合も生きていない場合もあります――ずらりと並べられることがありますが、そんなときの人びとはそっくりに見えます。一部の人たち――たいてい上(トップ)にいます、たった一人の場合もありますね――によって感情と命を無視されているからでしょう。その無視は感染します。上から下へと移るのです。


「そっくり」は恐ろしいのです。


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 ところで、似ている(印象)と同じ(同一)は違います。


 私たちは「似ている」の世界にいると言えそうです。器具や器械や機械をつかわないと「同じ(同一)」を確認できないからです。


 人は「似ている」という印象の世界(見える世界)から「同一(同じ)」の世界(観念の世界)を夢見ているのかも知れません。


 とりわけ、工学や自然科学、そしてメタ指向(思考ではありません)が強く、それがオブセッションになっている哲学は、「同一(同じ)」の世界を夢見ている気がします。


 このうちで、ある程度うまく行っているのは工学でしょう。コンピューターや重機や電気メス、そしてミサイルは「同一(同じ)」の世界に頭を突っこむことなしには(体は突っこんでいませんけど)動かせないからです。


まとめーーそっくりな影たち


 人類および個人という意味でのヒトの言葉とのかかわりを、時系列でまとめてみましょう。


 狭い意味での言葉(話し言葉と書き言葉)を持つ以前の段階では、ヒトにとって表情や身振りが言葉であり(ほんまかいな)、ある意味ではダイレクトに(うさんくさい言い方でごめんなさい、私もうさんくさいと思います)世界と触れあっていたのかもしれません。


 やがて(適当な言葉ですね)、話し言葉を持つようになり、見よう見まねで言葉を身につけ、ヒト同士でつかようになった(まるで見てきたような嘘)。話し言葉をヒト以外の生き物や森羅万象にまで当てはめる(拙文「【戯言】あなたと呼びかけて手なずける」)ようになった(文字どおり戯言です)。この辺から変になり、ぶるぶる震えることを覚えます(嘘つけ)。


 なぜか(いい加減ですね)、書き言葉を持つようになって、もともとヒトに備わっていた「何かに何かを見る」に拍車がかかり、何かが移ってくる、何かに乗っ取られるという事態が生じ(もー、勝手にしてください)、ヒトは言葉の世界に生きるようになります。


 上記の過程で、ヒトは世界や森羅万象に似ていたり、そっくりな影(映したり写したもの)をつくって、「そっくり」を楽しむ快楽を覚えました。現物や実物や「そのもの」にたどりつけない代償でしょう(※註あり)。自分のつくった影を見て、めっちゃ「気持ちいい」状態になるという自己完結的な快楽です。


【※註:「現物や実物や「そのもの」にたどりつけない代償でしょう」とは、「移る・移す」(移動する・させる)ことができないから、その代わりに「映す・映る」と「写す・写る」で済ますという仕掛け(機械)=仕組み(システム)=手品(錯覚製造装置)をつくったのです。絵、文字、印刷、電話、映画、動画、インターネット、要するに複製(「似ている」と「そっくり」)の製造とその拡散のことです。】


 その快楽にヒトは嗜癖し依存して、いまに至ります。


 分かりやすく言うと、「あそこ」「あれ」「なに」(何なのかは人それぞれですが、これまでにもっともたくさん描かれ写され映されてきた対象でしょう)の代わりに「あそこ」「あれ」「なに」の絵や写真や画像で萌えるようにと、ヒトは進化したのかもしれません。(※「あそこ」「あれ」「なに」については、拙文「【小話】短いの反対は長いではないという話」が詳しいです。)


 ほら、世界は、人のつくったそっくりな影たちに満ちています。印刷物もネット上の映像も、そんなんばっかりです。


     *


 人は、影だけでなく、「そっくりなもの」に囲まれて生きていますが、上で述べたように、「そっくりなもの」は人のつくったものと、自然界にいるもの(あるもの)の二つに大別できます。


 前者は気兼ねなく消費できますが、後者の場合にはその自由や命を奪わなければ消費できないので、人はある程度の後ろめたさを覚えます。


 そんなわけで、人が「そっくりなもの」をせっせと量産するのは理にかなっていると言えるでしょう。「そっくりなもの」は自分でつくったほうが――つくったものには感情や命がないので――心置きなく利用したり消費できるという意味です。


     *


 いまや人は、「似ている」の世界というよりも、「そっくり」の世界に生きているかのようです。この世界では何にそっくりなのかが不明になっているどころか、しだいに問題にされなくなっています。真偽の境も曖昧だし不明です。それが急速にエスカレートしています。


 そっくりな点だけがそっくりなのです。目にし耳にし舌であじわい肌で感じているものの多くが、複製の複製の複製……なのです。一方で、目にし耳にし舌であじわい肌で感じているものの多くが、複製として残され続けているのです。


 食べるよりもそっちのほうが気になって忙しい。景色を見るよりもそっちのほうが気になって忙しい。人と時間をいっしょに過ごすよりもそっちのほうが気になって忙しい。生きるよりもそっちのほうが気になって忙しい。


 そっちというのは、そっくりをつくって保存すること。


 文字にして、映像にして、音声にして保存するほうが大切。生きるより大切。


 ひょっとして、そっくりに乗っ取られるのではないでしょうか。


 誇張でしょうか。妄想でしょうか。この時点でも、見たり聞いたり嗅いだり味わったり触れたりして楽しむものが複製にされつつありませんか。どんどん映像や音声や文字としてネット上で投稿・配信され、ほぼ同時に保存・拡散されていませんか。


 撮る。つまり、映す、写すです。撮影(影を撮る)の「撮」は、手元にある漢和辞典によると親指と人さし指と中指の三本でつまみとることだとか書いてあります。


 この三本の指ってよく使いませんか。これだけあれば操作も入力もできます。世界中で、この三本の指をつかって「そっくり」なことをしています。これも、そっくりにつくってあるからに他なりません。機械がそうつくられているのです。


 指三本でパネルをタッチして撫でまわす世界。タップ、フリック、スワイプ。世界を操作するのは簡単。世界は手のひらに乗る。世界はちょろい。


 複製としての世界。そっくりとしての世界。世界にそっくりな世界。いや、気分は世界そのもの。世界はちょろい。世界は自分のもの。


 そっくりなのはそっくりにつくってあるからでしょう。何にそっくりなのかはもはや不明。そっくりだけが空回りしている――。複製の複製の複製……。引用の引用の引用……。本物と実物のない複製。起源のない引用。


 人は自分のつくったものに合わせて、そっくりなことをこの星じゅうでやっている。みんなが一様にうつむいて、手のひらの上の板を指で撫でまわしている。空は見ない。天に用はない。手のひらに空がある。天がある。うつむいている限り、恐いものはない。


 そっくりはうつるのです。うつるんです。そう考えると、そっくりは恐ろしい。


 なんでそんなことをやっているのでしょう。気持ちいいからでしょうか。気持ちいいというよりも、やめられなくなっているのではないでしょうか。嗜癖です。脳内なんとがどばどば分泌。


 妄想でしょうか。もうそうかもしれませんよ。


※この記事は拙文「中に入ってきたときに、中で起きること」に加筆したものです。言葉(意味・複製)が人の中に「入る・出る」――といったことに関心が出てきたので(現にPCやスマホを使用しているいまも「入ったり出たり」していますよね?)、ここで一度過去の記事を読みかえしたうえで、新しい記事を書こうと思います。


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