われ、まばらでまだらであるゆえに
われ、まばらでまだらであるゆえに
星野廉
2022年7月31日 08:06
目次
認知機能のもどかしさ
全体がつかめていないという感覚
まばら、まだら、ぼんやり
初期のワープロ専用機のもどかしさ
全体を意識しながら読む
スクロールしても、やっぱりもどかしい
まばら、まだら、ぼんやり上等
認知機能のもどかしさ
いま、私は note で文章を書いているところです。つまりnoteのサイトにログインして、執筆専用の画面に向かって文字を入力し作文しているわけですが、ある程度の長さになると、自分で書いたはずの文章が把握できなくなり、スクロールして前にもどったり、全体をながめることがよくあります。
よくあるどころではないですね、しょっちゅうあると言いなおします。
年を取り、認知機能が低下してきた私にとっては、日によっては把握できる範囲がきょくたんに狭くなることがあります。波があるのです。認知機能が衰えると、どんな感覚になるのかと言いますと、意識がまばらであったり、まだら状であるという感じになります。ぼやけているという言い方も、なかなか分かりやすいと思います。
ただ、やっぱり波があるというか、濃淡が刻々変化するというか、一様でないことは確かです。体調、気温、湿度、ストレス、機嫌といったもので左右される気がします。この文章を書いている、いまもそうです。
全体がつかめていないという感覚
モニターに向かって文章を書くといっても、パソコン、スマホ、その他の端末によって、画面に映る文章の範囲とか、文字の読みやすさは異なるでしょうね。いずれにせよ、画面とかスクリーンというものには枠があるということです。
この枠とは、長さを測れば数値化できる枠だけでなく、時間的な長さも含まれるというか、空間的な枠と時間的な枠は重なりあっているように考えられます。
どういうことかと言いますと、私たちには全体がつかめていないという感覚なのです。何の全体かと言うと、パソコン上に自分が書いた、または誰かによって書かれた文章だけでなく、本一冊、雑誌のコラム一本、新聞の記事一本でも何でもそうだという気がしてなりません。
こんなふうに感じるのはやはり認知機能が低下しているからでしょうね。あまり、そうした意見を見聞きした覚えはありません。もしかしたら、言うのをはばかるような話なのでしょうか。ひょっとして見聞きしても覚えていないだけなのかもしれません。
*
小説を例に挙げますが、みなさんは、一編の小説全体をつかんでいるという実感をお持ちですか? 自分のお好きな作品、何度か読んだ作品で考えてみてください。掌編、短編、長編で違いますよね。いま挙げた作品の「長さ」を表す言葉ですが、これは曖昧ですよね。
「長さ」というと名詞ですから、「長い」という形容詞とは異なる語感を覚えます。少なくとも私はそうです。ある作品を、長いと感じるか、短いと感じるかは印象の問題です。印象ですから、個人的なものであり、検証はできません。一方で、「長さ」と言えば、これは数値化できるような、つまり検証できるような確固としたものであるというイメージを私は感じます。
そんなことないよ、誰もそう思っていないからね、それは間違い、なんて言われると、反論もできないですから、しょぼんとするしかないのですけど。
こうなったら、私の感覚だけで、話を進めますね。我思う故に我あり、の精神です。というか、自分を基準にして考えるしかありませんよね。自分を基準にして人類を語るような言い方になりますが、ご勘弁願います。あらかじめ、お断りします。
まばら、まだら、ぼんやり
人は、たとえば一冊の本(曖昧な言い方でごめんなさい)を把握できないのではないでしょうか? ひょっとすると、自分の書いたものでも、です。記憶に限りがあるからでしょう。全文を一字一句記憶している人はあまりいない気がします(たくさんいたりして……)。
そこまでハードルを高くしなくても、そこそこ把握できている人、つまり要約できたり、断片的に空で引用できたり(暗唱しているという意味です)、その本を知らない人に、その本の内容をなんとか説明できる人なら、いるにちがいありません。
一冊の本、一編の長編小説、一編の掌編小説、一編の詩、一首の短歌、俳句や川柳一句、このうちのどれでもいいです。全体を把握できている、つまり暗唱できて、その内容や意味や解釈なりを説明できるという状態を想像してみましょう。
まばら、まだら、ぼんやりではなく、はっきりくっきりと全体像をつかんているという意味ですが、どうですか?
五七五とか、五七五七七くらいなら、できそうな気が私にはします。とはいっても、「短い」が「短い」であるとは限りません。「短い」や「小さい」はあなどれないのです。
スマホって短くて小さくて軽くて薄くありませんか。あれで世界を空間的にも時間的にも把握したり世界を俯瞰したり展望したり、はたまた理解した気分になっている人がたくさんいるみたいです。そうとしか思えません。
そういえば、薄っぺらい文庫本をかかげて、「僕は世界を理解した」と熱っぽく語ってくれた人が学生時代にいました。
てのひらにのる世界。ヒトにとって世界はちょろいものなのかもしれません。
初期のワープロ専用機のもどかしさ
とにかく、もどかしいのです。モニターの画面で文章を読んだり書いていると、長い文章になるほど、スクロールを頻繁にしないと書けないし読めないのです。テキストエディタの文書もそうです。
最近記憶力が衰えてきて以前のような長い文章が書けなくなりました。全体が把握できなくなるからです。体調が悪かったり熱っぽいとよけいに視野が狭まります。この視野というのは、文字を把握できる範囲くらいの意味です。いまのところ、眼科的な意味での視野には問題はなさそうです。有り難い。
ふと思ったというか、既視感を覚えました。自分の書いたものが把握できないもどかしさ――。
あれです。思いだしました。初期のワープロ専用機です。
出はじめのワープロ専用機は、とてももどかしい機械でした。なにしろ、ほんの数行しか表示されない小さな液晶表示パネルがあっただけで、自分が書いている文章がほとんど見えないのです。印刷してみないと全体が確認できないという意味です。
よく覚えていないのですが、初めて買ったワープロ専用機の液晶画面では、五七五とか、五七五七七くらいしか見えなかった記憶があります。もどかしくていらいらするどころか、情けなくて悲しくなりました。
みなさんが、いまご覧になっている画面のうち、十七文字とか三十一文字しか見えないディスプレーを想像してみてください。
そんな表示パネルがしだいに大きくなっていったので、仕方なく買い換えていました。
全体を意識しながら読む
たとえば、本記事の一行しか表示されないディスプレイであれば、記事全体が頭に入りません。当り前ですが、人が文章を読むときには、その前後を見ながら読んでいるようです。
まして自分が書くとなったら、たとえ自分が書いた文章でも、全体が見えないと混乱するし、だいいち不安でしょうね。もどかしいし、ままならないでしょうね。
認知機能が低下してくるというのは、その感覚なのです。
なんだか気が滅入ってきたので、この辺でまとめますね。
*
我枠がある故に我枠の中でしか書けない。我まばらでまだらである故に我まばらでまだらにしか書けない。なんて、まとめたらどうでしょうか。
なんだか、よけいに萎えそうですね。言葉の最大の効用は、景気づけだとかねがね感じているので、景気づけっぽく書き換えてみます。
われ枠があるゆえに枠の中で書く。われ、まばらでまだらである故にまばらでまだらに書く。
このほうがずっといいです。「そーなんですよー、わたし、まばらでまだらに書いていますけど何か?」って感じ。
こう考えると、今夜はよく眠れそうな気がします。
スクロールしても、やっぱりもどかしい
ワープロ専用機に比べれば、いまのパソコンや各種端末のディスプレー画面は大きく広いものになっています。かなりの数のセンテンスだけでなく、画像や動画の全体が表示されるという意味です。
それはそうなんですけど、やっぱりもどかしさを感じます。スクロールとかスライドをしている、ひとさまの様子を観察していても、なんだか面倒くさそうだし、ときにはいらいらしているように見えます。
贅沢を言ったら切りがないということでしょうか。
それとも、そもそも人の認知機能や知覚機能や意識には枠、つまり限界や容量があるから、逆に大きすぎるモニター画面ではてんてこ舞いするに決まっているから、そこそこの大きさの画面で相応ということでしょうか。
情報の全体(そんなものがあればの話ですけど)を把握するには機能が追いつかない。文字数や画像といった空間的なデータの把握に限度があるだけでなく、楽曲や動画など持続するものの全体をデータや情報として時間的に把握するのにも、人には限界があります。
だから、人は身の程をわきまえて枠を設け、その枠内で情報を処理することに甘んじているのかもしれません。それが人知なのでしょうね。せいぜい複数のモニター画面を一度に閲覧したり、速読したり、動画を早送りするくらいが関の山という感じでしょうか。
そう思うとスクロールという仕組みはとてもよくできています。スクロールをもどかしいなんて言うのは、やっぱり身の程知らずの贅沢だという気が、私にはします。
自分を基準にして人類を語ってごめんなさい。
まばら、まだら、ぼんやり上等
みなさんは、一冊の本や一編の文学作品だけでなく、一編とか一作とか一本の楽曲や絵画や彫刻や映画などを把握できていますか?
そっくりそのまま自分の頭の中で思いだすことができるかという意味です。ハイビジョンやハイレゾ並みにくっきりはっきりですよ。
いや、そこまで厳しいことは言わずに、そこそこまだらやまばらで、そこそこ枠ありで、そこそこ把握していて思いだすことができる程度ならどうでしょう?
作品によりますよね。好きなものならよく覚えているでしょうし。というか、人それぞれ。
というか、ついでにお尋ねしますが、あなたにとって世界は、広く見通しがよく、すっきりくっきりと見えていますか?
私もめげずに頑張ります。まばら、まだら、ぼんやり上等です。贅沢は言いません。
#ワープロ専用機 #意識 #無意識