赤ちゃんのいる空間

赤ちゃんのいる空間

星野廉

2023年3月18日 08:22



 誰もが辺境にある。辺境にあるからこそ、関係が生まれる。

 辺境とは自分ではないでしょうか。辺境という自分の中に、外と内が混在している。

(拙文「辺境としての人間」より)


 先日、病院で見て感じたことと考えたことを書きます。


 子も孫もいない私にとって、総合病院は赤ちゃんを間近で目にすることができる唯一の場所でもあります。病院の待合室や総合ロビーで待機する時間はけっして楽しいものではありませんが、近くに赤ちゃんがいるとそれだけで心と体がやすらぎます。


目次

目と耳で追う
なぞる・なぜる・なでる
まねる、まねぶ、まなぶ
宙を掻く
薄い皮膚だけがデフォルト
ふち、縁、淵
しっくりする、しっくりくる、しっくりいく
赤ちゃんのいる空間


目と耳で追う


 私は言葉を広く取って、話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、視覚言語と呼ばれることもある表情や身振りやしるしも言葉だと受けとめて生活しています。


 赤ちゃんを見ていると、声や音や表情や身振りに敏感に反応します。反応するというのは、真似るという意味です。自分でなぞり演じてみて、その結果がどうなるかを見ています。


 なぞり演じた自分に何かを返してくれるものと、くれないものを分けて覚えていくようにも見えます。その様子を見ていると、赤ちゃんは「似ている」を目と耳で追っているように見えます。


 「異なる」ではなく「似ている」を目と耳で追っている。「異なる」には目を向けない。そんな感じです。


 それだけでなく、「似ている」を舌や鼻や肌でも追っているように見えるのです。やたら口に入れるし手を伸ばすし触りたがります。


     *


 私にとって知覚で「追う」というのは「なぞる」でもあるのですけど、何をなぞっているのかと言えば、それは「似ている」ではないかと思います。


 ひょっとして「異なる」は赤ちゃんにとっては「怖い」ではないでしょうか。「怖い」は見えていても、見ないし触れない。そんな知恵がすでにそなわっているように感じられます。


 「似ている」「異なる」「怖い」と書き、「似ているもの」「異なるもの」「怖いもの」としないのは、赤ちゃんが気配の中にいるように見えるからです。


 まだ名詞的な世界にいないように見えるという意味です。動きと気配だけがある世界。そしておそらく「似ている」だけに目が行く世界。感じるけど感じ分けはしない。


 まだ分けて分れていない世界、似ているが漂う世界、その似ているを目と耳で追うことで、世界は次第に分(わ)けて分(わか)れていくのかもしれません。


 とはいえ、「分れる」は「別れる」ではないと思います。なじんでいくのではないでしょうか。


     *


 私と赤ちゃんのあいだには、話し言葉(音声)と書き言葉(文字)はなく、音と声と表情と身振りがあることに気づきます。


なぞる・なぜる・なでる


 「目で追う」「視線でなぞる」に話を絞ります。


 あれとあれは似ている。これとこれは似ている。あれとこれは似ている。


 話し言葉をまだ覚えていない赤ちゃんは、そんな感じで「似ている」を目で追い、同時に目でなぞっているように見えてなりません。


 そのうち、あっちがこっちに似ている、こっちがあっちに似ているというふうに、世界になじんでいく気がします。


 あっちとは世界、こっちとは自分なのですが、赤ちゃんはそれさえ分けていないように見えます。


     *


 「なぞる」は「なでる・なぜる」に近いのではないでしょうか。赤ちゃんが、離れたものを目で追い、視線でなでる感じです。


 「離れている」――これは赤ちゃんの置かれた状況です。世界は必ずしも近くにはないのですから、手や足や舌でなぜるわけにはいかないのです。


 これはおとなになっても同じではないでしょうか。人は離れたものを知覚を動員して「なぞる・なぜる・なでる」しかないのです。


 そうやって、遠くを近くする、遠くを知覚するのです。


 世界とのあいだには隔たりがあり、それはこちらが働き掛けないかぎり解消しないという意味です。ただし、働き掛けて解消するという保証はない気がします。赤ちゃんにも、おとなにとってもです。


 世界に働き掛けてうまくいくかどうかは、一か八かの賭けなのです。


 たとえば、お乳が欲しくて「おぎゃー」と泣いて世界に働き掛けても、それが聞き届けられるとは限りません。


 後で述べますが、おとなも赤ちゃんも、偶然性の支配する賭けの世界に投げこまれていると言えます。


まねる、まねぶ、まなぶ


 相手や対象とのあいだの隔たりを解消しようとするとき、人は発したり放つのではないでしょうか。


 離れる、離す、放す、放つ、発する、話す。


 こちらから、離れたものに向かって放つ、発する。これが「なぞる」と同時に起こっている「まねる・真似る」だと思います。こちらが真似て、それに気づいて何かを返してくれる存在に気づくのです。


 気づくに気づく。気づかれていることに気づく。気づくと気づかれるは一人でできることではありません。相手がいて、双方向的な関係として立ちあらわれます。


 この「気づき気づかれる」が「まねる」をうながしているように見えます。「まねる」もまた相手がいて起きる身振りです。しかも、その相手とは「離れている」必要があるのです。


 それが、表情や身振りの「まねる」であり、「なねぶ・学ぶ」であり「まなぶ・学ぶ」なのかもしれません。


宙を掻く


 表情や身振りだけではありません。赤ちゃんは、音や声をなぞり、まねて、まなんでいきます。


 「まねる」という動作が、離れた相手とのあいだを埋める動作でもあるように私には思えます。離れた相手に手を伸ばし、近づこうとするわけです。


 とりわけ、人間の赤ちゃんは世界とのあいだに隔たりがあります。離れているのです。


 馬や犬や猫の赤ちゃんは、生まれて間もなく立ったり、這い回ったり、歩いたりもしますが、人の赤ちゃんはずっと寝ています。


 自立、つまり自分の足で立ち、歩きまわるまでには、他の生きものたちに比べて時間がかかるのです。比較するとかなり長い時間を要しているようです。


 寝たままの状態で世界を仰ぎ、周りを見まわし、自分から手を伸ばしたり、親や周りの人を呼んで、手を差し伸べてもらわないかぎり、世界とかかわることはかなわないと言えるでしょう。


 「よるべない・寄る辺ない・寄る方ない」ですね。人間の赤ちゃんには、まさに寄り掛かるものがないのです。


     *


 仰向けに寝かされている赤ちゃんは、よく手と足で宙を掻くような仕草をします。機嫌が悪かったりすると、何かを訴えているのでしょうか、足掻く、藻掻くといった動作もします。


 宙を掻き、空(くう)を掻き、寄っ掛かりや取っ掛かりを求めているかのようです。


 立つことも歩くこともできない人間の赤ちゃんは無防備で危険にさらされています。病気、事故、事件、犯罪、虐待、放置(ネグレクト)、飢え、渇き、戦争――こうした危機につねにさらされた赤ちゃんが世界中にたくさんいると聞きます。


 過酷で残酷な偶然性の世界に投げこまれているようなものです。その中で、赤ちゃんは賭けを余儀なくされていると言えば言いすぎでしょうか。


 一か八か、生か死かの賭けの中で、藻掻き、足掻き、呼び掛け、気を懸ける。


 掻き掛け懸け賭ける。これはおとなでも同じでしょう。


薄い皮膚だけがデフォルト


 ときどき見る夢に、体育館みたいなだだっ広い屋内で、ニホンザルと取っ組み合いの喧嘩をしているという場面があります。私は素っ裸なのです。口論をするというバージョンもあります。


 いずれにせよ、私が必ず負けます。なにしろ、向こうは毛皮がデフォルトなのです。こっちは薄い皮膚だけ。


 仮に素っ裸で樹海に置いてきぼりにされたら、私はきっと傷だらけになるでしょうし、夜間に凍え死ぬでしょう。実のある木に登れるニホンザルは生きのびるにちがいありません。


 病気、事故、事件、犯罪、虐待、放置(ネグレクト)、飢え、渇き、戦争――人間のおとなもまた、寄る辺ない存在だと思います。


 過酷で残酷な偶然性の世界に投げこまれた人間は、たった一人では、そしてデフォルトのままでは、賭けに負ける気がします。


 人間は一人では大したことができないし、裸――生まれたままの姿――、そして丸腰ではきわめて脆弱なのです。


ふち、縁、淵


 話を戻します。


 よるべない、寄る辺ない、寄る方ない。人間の赤ちゃんには、まさに寄り掛かるものがないのです。


 ふち、へり、きわ、はしっこ、すみっこにいるとも言えるでしょう。世界のふち、人間の世界のふち。


 でも、縁(ふち)は縁(えん)なのです。どういうことかと言うと、赤ちゃんは縁(ふち)に身を置くことで、縁(えん)を呼び寄せているという意味です。


 縁(えん)とは、他者との出会いに他なりません。仮に赤ちゃんがど真ん中にいるとするなら、他者との出会いはないでしょう。縁(ふち)にいるから、外や周りと触れあえるのです。


     *


 一方で縁(ふち)は淵(ふち)でもあります。


 崖っぷちは崖っ縁と書くらしいのですが、淵は川とか沼の深いところのようです。縁、つまり端っこにいるくらいならいいですが、崖っ縁となると恐ろしいです。


 淵だと深淵という言葉を思いだします。辞書には「絶望の淵に沈む」(広辞苑)や「絶望の淵に突き落とされる」(デジタル大辞泉)なんて比喩的な用法の例文があって、絶望の淵に沈みそうになります。


     *


 赤ちゃんの話でしたね。


 よるべない、寄る辺ない、寄る方ない人間の赤ちゃんには、まさに寄り掛かるものがないのです。


 でも、だいじょうぶ。


 「まねる」「まねられる」ことによって、相手と自分とのあいだに架け橋をもうければいいのです。端っこにいても、橋を架ければいいのです。


 端は橋なのです。両者は同源で、二つの端っこをつなぐとか渡すというイメージで橋らしいのです。


 箸もたぶん同源ではないでしょうか。二つの端っこをつなぐ感じがしませんか。「食べる」と「食べられる」という出会いのも何かのご縁ですし。


 いや、冗談ではなく、衣食住のうちの食は出会いに満ちています。食事のときには人と人が会し、食材と食材が会し、食べる人と食べられる物が会します。


 そもそも料理は伝わってきたという意味で、引用であり複製であり変奏なのです。前につくった人といまつくった人、過去と現在、遠い場所とここ――こうしたものの出会う場が料理ではないでしょうか。


     *


 話を戻しますと、「まねる」と「まねられる」によって、赤ちゃんは相手と自分とのあいだに架け橋をもうければいいのです。


 その橋が、広い意味での言葉ではないでしょうか。


 赤ちゃんの場合には文字は無理ですから、音、声、表情、身振りということになります。これが言葉なのです。広い意味での言葉です。


 言葉の根っこには必ず「まねる・なぞる・なでる」があります。


しっくりする、しっくりくる、しっくりいく


 以上述べたようなことは自然に起きているのだろうと私は想像しています。「自然に」を本能的というふうに置き換えててもいいでしょう。


 自然に、本能的に、ですから、文字のように、苦労して学ぶものではない。音、声、表情、身振りと、文字とのあいだにあるこの違いは、決定的に大切だと私は思います。文字は異物であるとさえ、私は感じています。


 だから、音、声、表情、身振りは、しっくりする、しっくりくる、しっくりいくのではないでしょうか。不自然ではないという意味です。


 文字のように、不自然ではないのです。異物のようにつかえない、つっかえない。


 だから、赤ちゃんはつかっているわけです。すんなりと、つっかえずにつかっている。


赤ちゃんのいる空間


 赤ちゃんが近くにいると、まったりして癒やされるだけでなく、わくわくもします。


  赤ちゃんを見ていると私は、広い意味での言葉、つまり、音、声、文字、表情、身振り、しるしについて思いをめぐらさずにはいられないからです。私の唯一の趣味は言葉のありようの観察なのです。


 赤ちゃんを見ながら、意味と無意味とか、意味の発生とか、偶然と必然なんてたいそうな話に思いがおよびそうになる場合もあります。


     *


 まとめます。


 寄る辺ない存在である赤ちゃんは、ふちにいるように私には思えてなりません。ふち、きわ、へり、すみっこです。


 世界のふち、人間のふち。世界にはまだ手が届かない。人間としてまだ十分な動きができるわけではない。


 だから、可愛いのでしょう。放っておけない。おとなに可愛いと思わせる、顔の形と体つき、声、表情(とくに目の表情です)、仕草、身振り、動作――こうしたものを総動員して、世界とおとなに訴えかけているかのようです。


 寝たままの状態で世界をなぞってなでる。ほかの人間たちをまねてまなぶ。


 世界になりたい。自分も世界に加わりたい。赤ちゃんを見ていると、そんなふうに訴えているように見えてなりません。


     *


 子もなく孫もいない老人である私ですが、赤ちゃんの眼差しの世界に加わりたいと思うことがあります。赤ちゃんの目で世界を見てみたいという気持ちなのでしょうか。老人の赤ちゃん返りかも。


 どちらかというと強面で人相もいいほうではない私ですが、赤ちゃんはそんな私にほほ笑みかけてくれます。


 赤ちゃんがじっとこちらを見つめているとします。来るぞ来るぞという気配を感じながら待っていると、にこっと笑うのです。


 補聴器をした耳には高い音や声が聞こえないのですが、声も掛けてくれているのかもしれません。


 私もいまは人生のふちにいます。


 ふちとふち、きわときわ、隅っこと隅っこで、笑みを交わせる。おとな、しかもぼーっとしてきた老人の勝手な思いでしかありませんが、私はそんな瞬間に幸せを感じます。


 薬待ち めとめを合わせ 橋かかる



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