本物のない複製の複製、起源のない引用の引用

 

目次
要約
料理は複製
複製度
複製の複数性、無数性
名前の力は強大
にせもの、別物
ずれ、ずれる
似ている、同じ、同一
人間もどき、知能もどき、体感もどき、自然もどき
料理は引用の産物
複製、再現、再演
パフォーマンス
複製の複製、引用の引用、最強で最小最短最軽の引用および複製
何の複製なのか、何からの引用なのかが不明
巨象は虚像であり、象は像でしかない
写しを写す
複製と引用のながれ
知識・情報、権威・権力、普遍・真理
真偽や善悪や正誤の彼岸へ
二項対立、建前、武力
普遍、真理、ローカル
問答無用に「バン!」とか「ドカーン!」
知、痴、稚、血、恥
大量生産、製品
リアル、代わり、写し
いまここにあるふるえ
究極の複製は文字
翻訳、アイドル、崇拝
大風呂敷を広げる


要約


 現在は、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっている気がしてなりません。複製には複製の本物があり、引用には引用の起源があるというモデルが曖昧になっているからでしょう。そもそも真対偽、本物対偽物、実物対複製、起源対引用、正対誤、善対悪なんて図式はウソという感じです。本物や起源の権威が失われてきているだけでなく、本物や起源という概念を成立させている西欧的な知の枠組み自体が危うくなってきているとも言えるでしょう。

 本物や起源の権威が失われていくのと、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっていくのが、シンクロし軌を一にしているのではないか、という意味です。新たな真理も、さらなる本当の本物も、次の正解も、絶対的な善も、もはや現れないという意味です。


料理は複製


 リアルであることに必ずしも実体は要らないのです。

 実物や本物も起源(原型・元祖・出典)も要りません。複製や複製の複製や引用が身のまわりにうようよしているじゃないですか。大量生産された製品、楽曲、料理、絵画、写真、映画、放送、小説、文書、画像、動画……。

 どれも、あなたにとってはリアルな「物」ではありませんか? 複製と引用とはそれ自体で完結した「リアル」なのです。人が「似ている」と「そっくり」の世界、つまり印象の世界に住んでいるからです。

(拙文「空っぽ」より)


 料理は複製である。そう感じていたのですが、必ずしもそうではない気がしてきました。自分の書いた記事にツッコミを入れてみます。


(なお、ここで言う「料理が複製である」とは、現在食材の多くが、複製である化学肥料をつかって大量栽培されたものであるとか、工場で大量に製造されている飼料や薬剤を与えられて大量飼育された家畜を使用しているとか、複製である化学調味料をつかっているとか、材料の多くが工場で大量生産されているという話では必ずしもありません。)


 複製には再製という言葉とイメージがつきまとい、再製といえば再生を連想します。再現や再演も頭に浮かんできて、さらには引用、模倣、反復、変奏というふうに言葉とイメージがつぎつぎと出てきます。


 私は連想が好きです。AといえばB、BといえばC、CといえばD……。こんなふうに進んでいくのが連想でしょう。A、B、C、D……と少しずつずれたり、ときには大胆に飛躍するのが連想だとするなら、連想も一種の複製なのかもしれません。連想が起きるたびに、ずれが生じるのです。


 ずれを考えると、料理は複製とは言えないのではないかという思いに傾きます。レシピやお手本があっても、それを再現するたびにずれが生じるからです。素材や、その時の気温や湿度や天気、火の加減、手順やタイミング、さらには気分によってもずれが起きるにちがいありません。


 ずれは度合いであり程度です。家庭料理とプロによるお店の料理では、再現度に差があるとも考えられます。食べ物屋でも、チェーン店とそうではない食堂では、再現の度合いが異なるでしょう。


※この記事はとても長いので、お時間のない方は、目次にある見出しと、太文字の部分だけでも読み流してください。


複製度


 そもそも忠実に再現された複製はありえないのではないでしょうか。そんなものはない、つまり抽象だという意味です。ずれを程度の問題として受け入れれば、ずれが大きい複製とずれが小さい複製があると考えればいいことになります。


 複製には程度というか度合いがある――これですっきりしました。


 A⇒B⇒C⇒D


 A⇒B

   C

   D


 A、B、C、Dの間にずれが起こります。


 A⇒B⇒B⇒B


 A⇒B

   B

   B


 AとBの間にずれが起こりません。


 複製間のずれには、似ている、よく似ている、酷似や激似、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一という具合に度合いがあって、最後には同一に行き着くという感じです。うまい、へた、正確、不正確、精度が高い、精度が低いという尺度ではかることもできるでしょう。


 料理を複製としてとらえてみると、本物とか元祖があって、それ以外はぜんぶ複製ということになりそうですが、あなたが毎日食べているものが複製だなんて言われたら、むかつきますよね。「それは違うでしょ」と反論したくなります。


 後に触れますが、ここまで述べてきた文章の「複製」を「引用」と置き換えてみても話に大差はないと思います。


複製の複数性、無数性


 複製度、つまり複製の度合いを体感するには、複製の複数性をイメージするといいかもしれません。現在では、美術や音楽や文学の鑑賞のが複製の鑑賞である場合が多いことは注目してもいい事実だと思われます。


 美術においては、作品が有名なものであるほど、実物よりも複製を鑑賞していることは分かりやすいですが、音楽であれば生の演奏よりも放送やDVDやCDというかたちでの複製を鑑賞していることを意識することはあまりない気がします。文学の場合には生原稿を読む人は稀でしょうから、印刷物あるいは電子書籍やネット上でという意味での複製を読んでいるのがほとんどだと言えます。とくにパソコンのワープロソフトでの執筆が主流になっている現在ではどれが生原稿なのかがきわめて曖昧になります。


 絵を例に取ってみます。世界で最も有名な絵画はモナ・リザだと言われますが、あなたはモナ・リザという絵を見たことがありますか?


 モナ・リザの現物を見たことがある人よりも、その複製を見たことのある人のほうが圧倒的に多いでしょう。「実物対複製」と単純に考えがちですが、実物はたったひとつであるのに対し、複製は複数あるいは無数にあります。作者および作品が有名であればあるほどです。有名は無数、無名は有数か、たったひとつなのです。しかも、複製は一様ではなく、さまざまなずれをともなって存在しています。あなたの見たモナ・リザと私の見たモナ・リザはきっと別物でしょう。別の複製ということです。不思議な気がします。


 絵画は有名であるほどたくさん複製され、その複製を見る人が多くなるから当然でしょう。一方で、有名ではないほど展示会などで実物を見る人がいて、その数は少ないでしょうから、あなたの見た〇〇という絵と、私の見た〇〇という絵が同じであり実物であるということになりそうです。複製のありようと、実物や本物のありようは、理屈では分かるのですが、現象としてよく分かりません。不思議でならないのです。


(楽曲の複製であるレコードやDVDやCDやその放送やネット上での配信でも、複製は多様をきわめています。それぞれが人によって微妙にあるいは大きく異なって感じられるという意味です。文学作品でも、多種多様なかたち(雑誌での掲載、単行本、文庫本、電子書籍、翻訳)での複製での読書がおこなわれています。私の場合には、小説の読書で活字やフォントやレイアウトが変わると別の作品に感じられることがあります。翻訳書とその原著も私にとっては「似ている」別物です。鑑賞イコール複数の複製の鑑賞だと実感します。)


 モナ・リザの複製はたくさんの画集や美術書に収録されていますが、それを虫眼鏡で見くらべるとずいぶん差があるのに気づきます。図書館で試してみるといいでしょう。撮影や印刷によってかなりずれがあるのです。私が見た美術書にはモナ・リザを写したモノクロの写真がありました。


 インターネット上でもモナ・リザを鑑賞できますが、印刷物として見るのとはやはり違って感じられます。「これはモナ・リザなんだ」と言葉で自分に言い聞かせて決めつけて、頭というか観念で見ると「同じ」でしょうが、「似ている」あるいは「そっくり」なだけです。でも、ふつうは「似ている」とか「そっくり」というふうに見ません。興ざめするからです。


 自力では「同じ」「同一」なのか「そっくり」なのかを確認も検証もできない自分を人はふつう認めたくありません。人間(ホモ・サピエンス)としてのプライドが許さないからです。


 ところで、「同じ」というか「同一」と言ってもいい、モナ・リザの鑑賞法があります。名前で鑑賞するのです。名前という言葉を見るのです。「モナ・リザ」という作品名のことです。固有名詞、なかでも書かれた文字としての名前は最強の複製であり、「似ている」どころかまったく「同じ」なのです。


 名前と名詞の力は強いです。人は名前と名詞にころりと参ります。「モナ・リザね、レオナルド・ダ・ビンチ作ですよね、名画ですよね、美しいとか素晴らしいとか感動したって言わないと笑われますよね」という感じです。


 楽々複製ができます。いとも簡単に引用もできます。モナ・リザ、モナ・リザ、モナ・リザ、モナ・リザ、モナ・リザ……。


 冗談はさておき、「固有名詞、とくに人名は最強で最小最短最軽の引用である」ことは注目していい事実だと思います。ただし、モナ・リザ、Mona Lisa、La Gioconda、La Joconde、蒙娜丽莎、모나리자、მონა ლიზა……というバリエーションもあることを忘れてはならないでしょう。


(※この章を書くにあたっては、ウィキペディアさんのお世話になりました。作品名の複製と引用、つまりコピーペーストをさせていただきました。)


名前の力は強大


 なお、名前と名詞の力が強大なのは絵画に限りません。音楽、スポーツ、料理、製品、映画、放送、お芝居、小説、文書、画像、動画……。小説で考えてみましょう。小説は名前とキャッチフレーズで読むもので、作品で読むものではありません。


「〇〇作のXXですね、文豪(△△賞作家)ですね、〇X△%&(本の帯や解説や評判で読んだフレーズが入ります)ですね、とりあえず感動したって言っておきましょうか、いや難解でしたがいいかも、読んでいない(さっぱり分からなかった・つまらなかった)ことがばれないように気をつけよう」という感じです。名前と文言を引用するだけで事足ります。


「固有名詞、とくに人名は最強で最小最短最軽の引用なのです。」


 おふざけと憎まれ口はここまでにして、まとめます。


 有名とは名前が無数に複製され引用されることであり、有名無実という言い回しがありますが、名をあげることが必ずしも実とは関係がないままに権威や権力につながることはよく見受けられます。いずれにせよ、有名とは無数、無名とは有数またはたった一つの実物であるということですね。


 たったひとつの実物って潔くて格好よくないですか?


 ひっそりと たったひとつの ほんまもん


にせもの、別物


 複製には偽物というイメージがともないます。これはネガティブなイメージでしょう。


 本物とか実物とか現物とか元祖があって、それに似たものや似せたものがある。似ているものは、似せものであり、要するに偽物(贋物)だ。そんな一連の連想が働きそうです。


 偽物も似ている物も別物であることは確かです。偽物とは、似ている物の別称であり、蔑称であると言えそうです。引用やオマージュや翻訳や翻案の別称および蔑称が、盗作とか剽窃(ひょうせつ)であるのに似ています。


 このように人は印象に左右されます。印象の世界に住んでいるからにちがいありません。


 したがって、偽物や剽窃と呼ばれているものが複製だということが、おおいにありそうです。


ずれ、ずれる


 さきほど上で述べたように、同じレシピや作り方にしたがっても、料理は毎回微妙に異なっているのが普通でしょう。そんなわけで、ずれが生じるのを避けることができない料理もまた複製だと言えるのではないでしょうか。


 味、匂い、見た目、舌触り、手触りだけでなく、食器や食べている場所や時間帯、さらにはその時の気分や体調によっても、料理は微妙に、あるいは大きく異なったものとして人に感じられそうです。だいいち、受けとる側(料理であれば食べる側)の心身の状態によっても、ずれが生じることを無視するわけにはまいりません。


 複製という言葉で説明されることの多い、絵や映像を思いうかべると、忠実な複製というものが抽象、つまりありえないものに感じられます。単純に考えて、現実の事物を模した絵は、その事物そのものではないし、現実にある事物や風景を写した写真や動画は、写された対象そのものではないからです。


 複製どころか別物なのですが、絵や写真や動画が複製という言葉で説明されることがよくあります。それは、事物あるいは現実を写した複製であるというよりも、事物や現実を写した複製が、複製されてたくさんある、つまりそっくりなものがたくさんあるという意味で言われているのかもしれません。


 A⇒B⇒B⇒B


 A⇒B

   B

   B


 Aの複製(人は似ているとかそっくりとか同じと感じますが、じつは別物です)がBというよりも(このことはあまり意識されません)、たがいにそっくりな複製であるBたち(よく「似ている」にもかかわらず、後に触れるように「同じ」だとは限りません)がたくさん存在するというイメージです。


似ている、同じ、同一


 絵や写真や動画において、ある事物とそれを模したものを混同しないかぎり、「同じ」という言葉やイメージは出てこない気がします。言葉は物ではない、写真は現実ではないと言えば、当り前に聞こえますが、人はしばしばその当り前を忘れます。つい同じだと思ってしまうのです。


 これが混同であり錯覚です。別物を同じだと見なしているのですから、事実誤認とも言えますが、人間なら誰もがやっていることであってぜんぜん気にならない、気にするほうがおかしいと言う人が多い気がします。私もふだんはそう思っています。


 複製という言葉とイメージの根っこには「似ている」があります。「似ている」は印象ですから、検証できません。頭の中を覗きこむことができないからです。ある物同士を似ていると感じる人もいれば、似ていないと感じる人もいるでしょう。人それぞれ、人生いろいろ、「似ている」もいろいろです。


 一方、「同じ」は数値化するというかたちで検証できそうです。ただし、人は「似ている」を基本とする印象の世界に生きているので、「同じ」を検証するためには器具や器機や機械をつかう必要があります。人はこういう補助具や装置を発明し洗練させてきました。


 その甲斐があって、仲間を月面に降り立たせたり、地球の気温を上昇させることができたのです。この星で他の生き物たちと無理心中する準備も整えました。


 私には子も孫もいませんが、この先のことがとても不安でなりません。


人間もどき、知能もどき、体感もどき、自然もどき


 器具も器機も機械も人がつくったものですが、それらは「似ている」なんていう曖昧なものではなく、「同じ」や「同一」という「杓子定規」を基本にしています。杓子定規というのは、プログラミングをイメージすると分かりやすいでしょう。融通がきかないのです。


 機械は、人が指示を間違えると正しく作動しませんし、人の思いや感情を察したり忖度もしてくれません。人のほうが機械に合わせる必要があります。機械が人に合わせるようにプログラムすることも可能なようですが、あくまでもある程度しかできないのが現状みたいです。


 なお、人は自分のつくった器具や器械や機械を用いて、「同じ」と「同一」と「杓子定規」を原理に、人間もどき、知能もどき、体感もどき、自然もどきをつくろうと、あるいは再現しようとしていますが、結果としてつくっているのは――機械の中身としてのハード面ではなく人間と広義の機械との接点という意味でのインターフェースをイメージしてください――あくまでも「もどき」つまり「似ている」であって「同じ」でも「同一」でも「杓子定規」でもないことは注目していいと思います。


 たとえば、スマホをつかうさいに、指先(人にとって最も繊細な部分のひとつです)で画面に軽く触れたり叩いたり撫でたりして文字を入力したり指示を与えたりやり取りをするさまを思いだしてみてください。ほとんど感覚というか勘に頼っていませんか? 


 頭で考えているのではないのです。指で入力していたパスワードや暗証番号を頭が覚えていなくて慌てるという話をよく聞きますが、まさにそれです。あの指の感覚――正確には指でいじっているという意識のない指の感覚と言うべきでしょう――こそが、本物なき複製の複製、起源なき引用の引用の世界におけるリアルでしょう。仮想現実は、いま述べた指と意識が直結した一体感というべき、リアリティをこれでもかこれでもかと押しすすめて極めた全身的なものだという気がします。


 あるいは、パソコンやテレビの画面や映画館で映像を見る、スピーカーで再生された音楽や音声を聞く行為もそうです。そのものではなく(「同じ」や「同一」ではなく)、「似ている」や「そっくり」を楽しんでいるのです。ささやかながら、小規模ながら、これも仮想現実だと思います。仮想現実はそれほど新しいものではないのです。規模と程度の問題でしょう。


 まとめます。


「もどき」による「似ている」と「そっくり」の再現の総決算が人工知能や仮想現実やメタバースなのです。


 人が生きているのはあくまでも「似ている」を基本とする印象の世界――アバウトで感覚的でちゃらんぽらんできまぐれ――であって、「同じ」や「同一」や「杓子定規」の世界――厳格で厳密でデジタルで感覚や感情といった曖昧さを許容しない――ではないのです。「楽ちん」と「気持ちいい」と「あれよあれよ」を原則とします。


料理は引用の産物


 話を料理にもどします。


 料理を複製と見なすのに無理があるのは、上で述べたように「複製」には「偽物」に似たネガティブなニュアンスがあるほかに、料理が引用の産物だからではないでしょうか。


 料理はさまざまなものや方法を組みあわせた結果という意味で、引用という行為の産物だと言えそうです。「引用」に似たものとして「剽窃(ひょうせつ)」や「盗用」がありますが、「複製」と「偽物」ほどの強い連想は私には感じられません。


 料理は、調味料を含む複数の素材を複数の方法を組みあわせてつくるものであり、レシピは素材と方法からなりなっています。方法とは手順や動作です。たとえば、切る、ちぎる、混ぜる、たたく、熱するといった動作を、あるタイミングや時間の長さや程度でおこないます。素材の種類や状態や分量といった要素も大切ですね。


 料理が引用の産物(口に入れるものですから「引用の織物」だとぴんと来ません)だというのは、料理が組み合わせであると考えると分かりやすいかもしれません。組み合わされる要素が異なると全体が異なったものとして出来上りますが、その差異は程度の問題だと考えられます。


 程度を厳格に考えれば、どれとして同じ料理はないと言えそうです。とはいえ、料理は味覚という、さまざまな要因(時や場所、雰囲気、天候、体調、食べ合わせ、つくった人への配慮や忖度など)に左右される曖昧なものです。味だけで味わうのではないのです。


 現実にある個々の料理は何かの複製であるというより、あり合わせの材料の組みあわせという意味での引用ではないでしょうか。冷蔵庫の中身を組みあわせて料理をつくることがありますが、そのイメージです。


複製、再現、再演


 引用の産物としての料理は、複製や再製や再生や再現というよりも、再演なのです。楽曲やお芝居を思いうかべてみてください。演奏や演技には、毎回ずれがともないます。


 A⇒B⇒C⇒D……


 AがあってBが生じ、AとBがあってCが生じ、AとBとCがあってDが起きるのです。これが各回の演奏と演技であり、その繰りかえしの連鎖が再演なのです。再演は複製というより更新に近い気がします。再演は、それ以前の積み上げのプロセスなのであり、絶え間ない動きの中で起きている(うつりずれる)のです。


 うつりずれる⇒うつりずれる⇒うつりずれる……。


 毎回毎回の演奏と演技は引用であり、さまざまな要素の組み合わせだからです。ふつう複製という言葉で連想される再製された製品も、引用と組み合わせの産物ですが、演奏と演技は人が演じるパフォーマンス(行為・芸)であるという点が異なります。これは大きな違いでしょう。


 なお、演奏や演技には、引用の産物よりも引用の織物という言い方のほうがふさわしいかもしれません。綺麗なイメージですね。


パフォーマンス


 最近、スポーツの世界でもパフォーマンスという言葉がよくつかわれます。たとえば、フィギュアスケートや体操競技ではパフォーマンスと言われても違和感を覚えませんが、いつだったか、陸上競技の実況中継をテレビで見ていて、やたらパフォーマンスという言葉が出てくるのに気づいた時には、はっとしました。


 パフォーマンス(行為・技・芸)はどのように評価されるのでしょう。


 採点が多いです。数値とはいえ点数ですから、審判の主観と印象に左右されそうです。陸上競技となると、長さ(距離・高さ)、時間、速度、重さというふうに数値で評価されます。好きな言葉ではないのですが、「客観的な」評価と言えるでしょう。


 サッカーやバスケットボールのように得点を競うスボーツでも、パフォーマンスという言葉がつかわれますが、そのさいには個々の技(業)をいわば芸のように見なしている感じがします。「これは見事なパフォーマンスですねえ。神業としか思えません」という具合にです。


 パフォーマンスとは、体をつかったある特定の動きを指しているわけですが、それは何度も繰りかえされて存在している型(形)だと言えそうです。その意味では複製なのです。


 型は引用・模倣・反復されるうちに必ずずれが生じますから、変奏というのが正確な言い方かもしれません。つぎつぎとずれが起きるうちに、引用元である、元祖・原型・本物・起源が曖昧になります。ある技が模倣され反復されていく過程で、そのモデルが変容するのです。


 たとえば、Aさんが創始したXという技を、Bさんが真似て(引用して)Yという形が生まれ、それがCさんによって反復されてZという形に変容した――というぐあいにです。


複製の複製、引用の引用、最強で最小最短最軽の引用および複製


 上の例においては、X、Y、Zという技がXという名称の技としてそのまま存続する場合もあれば、YとZという新たな名称で呼ばれることもあるでしょう。そのさいには、ZがXの引用であるとは認識されないかもしれません。


 上で述べたように名前の力は強大ですから(人は名前にきわめて弱いでので)、名前(名称)を変える(奪う、売買する、なりすます、すり替わる、なりかわる)行為は、出典や起源を消すための有効な手段と言えそうです。じっさい、そんなことが起きていませんか? 争いが起こっていませんか? 


 襲名、のれん分け、跡目争い、盗作、元祖、本家・分家、先発・後発、プロ・アマ、流派、派閥、本流・支流、上流・下流、主流派・掃き溜め、名称、呼称、ジャンル、「これが本当(本来)の〇〇よ」対「これが本当(本来)の〇〇だい」、新〇〇、正統・異端、保守・革新、主従、師対弟子、弟子対弟子、化石対新人、重鎮対軽鎮、粛正・下克上……。


 こうしたものの多くが、名前(名称)の争奪戦というかたちを取ります。人は、最強で最小最短最軽の引用および複製である固有名詞の威力をよく知っているのです。


 真名・真字、仮名・仮字。な(名、字)は、み(身、実、神、霊)なのです。


 いずれにせよ、複製、再製、再生、再現、再演、引用――何と呼ぼうと、そこにずれがあるかぎり、繰りかえされるたびに変容があり、変容の程度やさまざまな事情や状況によって、起源と本物が曖昧になっていくのは当然だと思われます。


 起源と本物のほとんどは、タイムマシンが発明され(そうなれば起源がたどれます)、人間の機械化が実現して(本物かどうかを見きわめるために「同じ」と「同一」が計器や機械なしに感知できます)はじめて検証できるという意味で、人にとっては抽象なのです。


 誇張と半分冗談と屁理屈(屁理屈は理屈の別称であり蔑称でもあり、要するに名称の問題なのです←これこそ屁理屈と言われそうですけど)はさておき、いま述べていることを簡単に言うと、複製の複製であり、引用の引用です。正確に言うなら、本物のない複製の複製であり、起源のない引用の引用です。


 リアルであることに必ずしも実体は要らないのです。

 実物や本物も起源(原型・元祖・出典)も要りません。複製や複製の複製や引用が身のまわりにうようよしているじゃないですか。大量生産された製品、楽曲、料理、絵画、写真、映画、放送、小説、文書、画像、動画……。

 どれも、あなたにとってはリアルな「物」ではありませんか? 複製と引用とはそれ自体で完結した「リアル」なのです。人が「似ている」と「そっくり」の世界、つまり印象の世界に住んでいるからです。

(拙文「空っぽ」より)


何の複製なのか、何からの引用なのかが不明


 不明であるにせよ、そもそもないにせよ、単に決めたものであるにせよ、本物や現物や実物や起源(原型・元祖・出典)が人によって意識されない(感知されない)複製の複製と引用の引用で、世界は満ちている気がしてなりません。


 ここで大切なのは「意識されない(感知されない)」です。本物や現物や実物や起源(原型・元祖・出典)は、「同じ」や「同一」という尺度ではからなければなりません。学んだ知識(抽象)としてではなく、常に自力で(自然に)、です。そうであれば、人は「似ている」を基本とする印象の世界に住んでいるために、その検証はきわめて困難であるにちがいありません。困難どころか、不可能に近いでしょう。


 複製の複製とは、何の複製なのかが人に「意識されない(感知されない)」であり、引用の引用とは、何からの引用なのかが人に「意識されない(感知されない)」である、つまり不明であって分からないし、分かる必要性も人は感じていない、そんな「もののありよう」であると言えそうです。「意識されない(感知されない)」とは、何かの有無が保留されている状態だとも考えられます。判断ができないので棚上げされているわけです。


 その意味で、本物や現物や実物や起源(原型・元祖・出典)あっての複製とは抽象なのかもしれません。抽象とは見えないし触れることができないものですから、体感も体験もできないのです。


 簡単な例を挙げます。写真を複製の複製だと考えてみます。写真の被写体というか実物とされている事物や風景は、ヒトという生き物の知覚機能と認知機能によって写し取られた一面、つまり「写し」であって「そのもの」ではありません。


 部分であって全体はないとも言えるでしょうが、それ以前にヒトの知覚および認知機能に限界があるのです。全体とはヒトがとらえれないという意味で抽象であり観念なのです。


巨象は虚像であり、象は像でしかない


 人は全体をとらえることができなくて、全体は抽象であって観念でしかない。さらに言うなら、人にとっては部分だけがかろうじて体感できるリアルなのであり、全体とは抽象つまり学習した知識である。こんなふうに言えそうです


(その根っこにはローカルをトータルのひな型にしたい(見なす)というオブセッションと化した願望があるようですが、雛型とは大きなものを小さくした複製である模型(大きな物の属性をすべて備えている)と言えそうです。雛人形やひよこのイメージです。俯瞰や展望やその逆の拡大とも重なります。大きなものや長いものや重いものの代わりに小さなものや短いものや軽いもので済まし澄ましているわけです。地図、地球儀、天体図、天体模型、年表、百科事典、顕微鏡を思いうかべてみてください。遠くの代わりに近くで済ます、望遠鏡、電信・電報、電話、テレビもそうです。広義の錯覚や錯視を逆手に取っているわけですが、それで事足りるからでしょう。抽象の恐ろしさと素晴らしさを感じないではいられません。話が大きくなりすぎたので小さくもどします。)


 目隠しした複数の人たちが、それぞれ象のあちこちを触って「〇〇みたいなもの」と言う例の話を思いだします。目隠しをした人たちに、それは「巨大な象」だと教えてあげても、それは学んだ知識でしかないわけです。 巨象は虚像、つまり虚構でしかなく、たとえ目隠しを外して象を見せたとしても、象は像でしかないのです。


 さらに言うなら、実像は虚像、実は実は虚、色即是空、実即是虚。


※以上は、Twitterでのデレラさんとのやり取りから生まれた文章です。ここでデレラさんにお礼を申しあげます。ありがとうございます。





写しを写す


 ある事物の全体ではなく、そのある一面を目という「カメラ」が写しているもの(ヒトが知覚し認知できる側面のうちの一面であり、これ自体が写しなのです)をとらえて、それをさらにカメラで写したものが写真であり、その写真は複製できますし、じっさいに複製されていますね。


 写しを写してさらに写すわけです。大ざっぱに図式化すると以下のようなものとしてイメージしています。


 A⇒B⇒B⇒B


 A⇒B

   B

   B


 AはBの起源であり、Bの本物や実物と考えられていますが、そのAはヒトの知覚および認識の形式という枠の中で写し取られた写しなのです。きわめてローカル(局所的)なものとも言えるでしょう。


 Aを意識する(感知する)ことは可能ですが、その「意識する(感知する)」は努力目標でしかありえません。「意識する(感知する)」という言葉つまり言い回しがあるということと、「意識する(感知する)」とは別物だと言えます。私はこの状態を「意識されない(感知されない)」と言っています。言っているだけです。


 Aの写しであるBがつぎつぎと写された結果としての写しが、ふつう複製と呼ばれています。手描きの写しや、手書きの筆写や写本の時代が長く続き、つぎに印刷や撮影(写真)やコピーというかたちでの複製が発明され普及し現在にいたります。


 ネット上では、投稿と複製と拡散と保存がほぼ同時におこなわれていますが、デジタルの複製ですから、ノイズやエラーによって起こるずれは飛躍的に小さくなっているようです。


 あっさりと言いましたが、あくまでもBを複数あるいは大量に写す、つまり複製するというレベルの話であり、AからBへの写し、つまり実物から別物への置き換えという途方もないずれと、その前の段階で実物をヒトが知覚し認知するというさらに途方もない根本的なずれは解消されていません。


 ヒトは写しの世界に生きているのではないか、言い換えると、ヒトは世界ではなく「別」世界に生きているのではないかという問題は解消されていないのです。というか、意識されないのです。意識していいことはひとつもないからかもしれません。


 それよりも、世界もどき(人間もどき、知能もどき、体感もどき、自然もどき)をつくることに、人は血道を上げているようです。そのほうが手っ取り早いし楽しいからかもしれません。


 人は自分が「似ている」を基本とする印象の世界に生きていることをよく知っているとしか思えません。ふだんはあまり感知されないし意識しないにもかかわらず、よく知っているにちがいありません。もどきで不満はないようです。諦めているのかもしれません。


複製と引用のながれ


 余談です。


 人は印象の世界にいる。似ているの世界に生きている。まだらでまばらな世界の住人。かわりとうつしの世界に生きている。同一も本物も現物も源泉も、人の思いのなかにしかない。

(拙文「虫眼鏡で写真を見る」より)


 1)料理、パフォーマンス(演奏・演技):ずれを肯定し、楽しみます。 


 A⇒B⇒C⇒D


 2)製品、写真、印刷物、デジタルコピー:ずれをないものとして済ませます。


 A⇒B

   B

   B

   B 

   

 3)2)の一種です。


 A⇒B⇒C

     C

     C

   B⇒D

     D 

     D 


 大切なのはA自体が複製(写し)だということです。人の知覚と認知はうつつ、うつらうつらであり、うつつ(現)、夢うつつ、夢、いめの境はさだかではないのです。


 人という、うすい膜にうつった(知覚)うつし(認知)をうつす(伝達)――という感じでしょうか。すべての段階と過程が「うつし」(複製、複製の複製)であり「うつす・写す・映す・移す」(転写・反映・変移)というイメージ。


 本物や起源は、観念であり抽象であって、人にはたどりつけない「何か」なのでしょう。たどろうとしても、あるのは「うつし」であり「かわり」なのですが、それが何の写しか、何の代わりかは人の知覚、認知、認識をこえたもののようです。


 うつる・かわる、うつる・かわる……。何? 何か、何? 何か……。


知識・情報、権威・権力、普遍・真理


 引用と模倣の産物であり、ずれをともなう反復による変奏と再演の結果でもある、料理や絵や楽曲やパフォーマンス(技・芸)においては、「複製の複製」や「引用の引用」が起きていると私には考えられます。


 物語(広義の引用である口承や写本によって伝承されたもの)や小説(個人が広い意味での引用と曖昧な意味での独創によって書きつづったもの)においても、複製の複製が起きているのではないでしょうか。この点については、拙作「私たちはドン・キホーテとボヴァリー夫人を笑えるでしょうか?」でも触れてあります。


 ただし、学術的な研究や調査によって検証可能なという意味での、明らかに引用や模倣や剽窃や盗作されたものを除いての話です。そうです、話です。ここで述べていることは、お話であり、研究者でも探求者でもない私が勝手にでっちあげたフィクションにほかなりません(居直りですね)。


 ここで短絡し飛躍します。


 そもそも言葉によって記述され、拡散され、複製され、保存され、継承される知識や情報は、複製の複製ではないでしょうか。学問であれ、芸術であれ、公文書であれ、話し言葉と書き言葉であるかぎりにおいては、複製の複製として存在している気がします。


 そもそも言葉が複製の複製なのです。なお、私は言葉を広く取っていて、話し言葉(音声)と書き言葉(文字や記号)だけでなく、視覚言語と呼ばれる表情や身振りも言葉だと受けとめて生活しています。中途の重度難聴者だからかもしれませんが、私にとっては表情と身振りは大切な言葉です。


 現在は、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっている気がしてなりません。こうしたものは、「ある」のではなく「決める」もの、つまり「決まり」ですから、境が薄れたり消えるのは当然だと思われます。決めた結果としての「決まり」の権威がどんどん薄れてきているわけですが、それは権威や権力が本物や起源と親和性があり、権威や権力が本物や起源を支えとしているからかもしれません。


 author という言葉に、著者、作者、作家、創始者、創造者、造物主という意味があり、authority に、権威、権力、権限、先例、権威者、大家、当局という意味があることに注目していいと思います。


 私の中では、権威や権力と、知識や情報が深く結びついています。


実物はたったひとつであるのに対し、複製は複数あるいは無数にあります。作者および作品が有名であればあるほどです。有名は無数、無名は有数か、たったひとつなのです。

(この記事の見出し「複製の複数性、無数性」より)


「固有名詞、とくに人名は最強で最小最短最軽の引用なのです。」


 権威や権力とは名前、とりわけ固有名詞のうちの人名の力を度台にしています。有名こそが権威や権力の支えであり、有名かどうかが権威と権力の大きさを示す尺度なのです。有名であれば無数の名前を複製として持っています(悪名高きや悪評もそうですけど)。名が広く知られていることで複製がさらに増える、つまりさらにその名が引用されます。複製が複製を生み、引用が引用を生む、複製が複製され、引用が引用されるという意味です。名前は知識と情報として無限に拡散するのです。それが有名(著名)であり悪名高き(悪評)のありようと言えます。


 そんなわけで、知識や情報においても、本物のない複製の複製と起源のない引用の引用が起こっているように感じられます。もっとも、広く知識や情報とされるものが人名ばかりではありません。集団名、国名、民族名、地名、作品名、組織名、商標、商品名というぐあいに、さまざまな固有名詞が、複製や引用の対象になり拡散されます。〇〇主義、〇〇法、〇〇制、〇〇方式、〇〇法則といった専門用語やビッグワードもそうです。


真偽や善悪や正誤の彼岸へ


 上で述べたような状況はいま始まった話ではなく、人が言葉を持ってしまった時から始まっていたのではないかという思いが私には強くあります。話を簡単にするために、人名で考えてみましょう。神話や説話や昔話に出てくる人物や歴史上の人物や偉人を思いうかべてください、多くがその名前を知っているだけではありませんか? それが権威であり権力(power より authority、場合によっては power)です。こうした現象が現在では助長され加速化してきている気がするのです。


 話をもどします。


 現在は、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっている気がしてなりません。


 どんどん複製され引用されている固有名詞(これ自体が複製であり引用です)の力が失われていくという現象が起きているのです。


 平たく言うと、複製には複製の本物があり、引用には引用の起源があるというモデルが曖昧になっている、つまり疑問視され、「そんなものはでたらめだ」とか「そんなものはない」とか「そんなものは嘘っぱちだ」という風潮が広まっているからではないでしょうか。


 そもそも真偽、本物と偽物、正誤、善悪なんて図式はウソという感じです。もともと土台無理だった度台が壊れてきたのです。


 もったいぶって言うと、本物や起源の権威が失われてきているだけでなく、本物や起源という概念を成立させている枠組み自体が危うくなってきているようなのです。


 本物や起源の権威が失われていくのと、真偽、本物と偽物、正誤、善悪の境が曖昧になっていくのが、シンクロしているのではないか、軌を一にしているのではないか、という意味です。


二項対立、建前、武力


 現在の世界情勢を見聞きしていると、かつては普遍とか真理と見なされていたものの権威がどんどん失墜してきています。これからもますますその傾向が進む気がしてなりません。


 たとえば、権威の象徴であった、たった一つの実物が標的にされる事件が頻繁に起きていますね。芸術作品のことです。複雑な背景があるにしても、これまでなかったことであり(いや、こういう偶像破壊的行為はけっこうあったようです、しかも大規模にやってきたのはむしろ西側であり北側だったのです)、その衝撃度は強いです。権威を認めているからこそ、標的にするのかもしれません。


 こうした直接的な破壊行為よりも、著作権を無視した複製や海賊版や違法サイトのほうが、権威の無力化にはるかに貢献している気がします。複製と引用は本物と起源の権威を強めると同時に弱めもしながら、本物の複製と起源の引用という制度そのものをしだいに無効にし無力化していくのではないでしょうか。


 大げさに言うと、これまで支配的だった思考の根本にある二項対立――真偽、本物と偽物、正誤、善悪――を成立させていた枠組みそのものが無力化(nullify)されつつあるのです。とはいうものの、二項対立はあくまでも建前であり方便であって、歴史的に見て実際におこなわれてきたのは腕力と武力の行使だった点は注目していい事実だと思われます。実力行使によって奪われ破壊され失われた物や事(言語、制度、宗教、文化、人命、住居、建造物、自然……)、がいかに多かったことか。


普遍、真理、ローカル


 現在、西欧的な価値観、倫理観、世界観、歴史観――たとえば民主主義や代議制や著作権や科学や哲学(philosophy)や論理や進化や進歩というモデルです――に公然と異議を唱える、あるいはそうした観念を蔑ろににし、なし崩しにしようとする勢力が台頭しています。


「私たちはあなたたちとは違うのです」、「私たち独自の〇〇主義(〇〇制)」(※〇〇には普遍で不変だと言われたものが入ります)、「あなたたちに教えてもらわなくてもいい」、「私たちがやっているのは、これまであなたたちがしてきたことですけど、何か?」


 普遍とか真理と見なされていたものの権威が失墜するといいよりも、普遍とか真理と見なす(想定する)度台、つまり知の枠組みそのもののが疑われているのです。そうしたものはあくまでも西と北のものです。普遍や真理と呼ばれているものがローカルなものだという意味です。


 人にはローカルをトータルにしたいとか見なしたい欲望があるようです。


問答無用に「バン!」とか「ドカーン!」


 真対偽、善対悪、正対誤という図式を成立させている思考が揺れてきているのですから、トゥルース対フェイクどころか、問答無用に「バン!」(銃声)とか「ドカーン!」(爆発音)となるわけです。いまこそ、「フェイク!」なんて言っていますが、本音はもはや言葉ではなく腕力と武力なの行使なのです。


 ポスト・トゥルース(post-truth)どころではない時代と世界が現れつつあります。もうその兆しは見えますよね。


 この状況が進むと、新たな普遍とか真理が出てくるのではなく、武力と腕力だけが支配する世界になります。authority ではなく power だけが幅をきかせる時代の到来です。権力や権力という、ある意味紳士的な観念的で抽象的な美辞麗句ではなく、即物的でむき出しの力が支配する世界と時代という感じです。


 大切なことは権力だけが武力を正当に行使できる権利を持っている(担っている、任されている)という事実です。権力は法にのっとって人を拘束したり殺める権利が与えられているのです。誰が与えたのでしょう? 国民です。形式上、つまり言葉の上ではそうなっています。辻褄は合っているのです。


 権力が、知識の学習と情報の拡散に異常なほど警戒することに敏感でありたいと思います。できることなら、国民一般あるいは下流国民は無知であってほしいかのようです。たとえば宗教の教義を理由に女性の教育に過剰なほど干渉し抑制しようとする体制がありますね。一部の人間だけが知識と情報を独占したいとしか考えられません。


知、痴、稚、血、恥


 きな臭くなってきたので、話を変えて転調します。


 知識や情報の学習と習得が、模倣と反復と変奏という行為としておこなわれるのは興味深いです。くりかえしくりかえし、なぞる、まねる、まなぶ、かわる、かえる、というふうにです。たくさんの時間と労力を費やして習得しなければならないほど、(逆に言うと)知識や情報は人為的で恣意的で脆いものなのかもしれません。自然でも必然でも当然でもないという意味です。


 考えの整理がつかないため短絡した言い方になり恐縮ですが、本物や起源、そして普遍や真理という概念――これらが知識と情報の学習と拡散に深くかかわっている気がしてなりません――がフィクションであることが露呈してきているのはないでしょうか。これが露わになるのがパンデミックや大災害や戦争の起きた時であるのは悲しく残酷な皮肉と言うべきでしょう。


 こうした悲劇的状況は、知識と情報の学習と伝達と伝承に支えられてきた広義の知(後に触れますが、究極の複製である文字の果たす役割は大きいです)を、人類が根拠のない(自覚もなければ意識もしていません、「何となく」という意味です)欲望を満たすための方便として利用してきたからではないでしょうか。


 知がずれていったのです。知、痴、稚、血、恥という感じ。さらに言うなら、地(領土、テリトリー、縄張り、領域、分野、範囲)――場所という意味での土地以外に、場というかヒトがつくって決めた抽象的な領域も含んでの話です――を持とう広げようという欲望を人類がかかえていることでしょう。この欲望は他の生き物にも見られますが、ヒトの場合には生を逸脱しエスカレートし大規模になりすぎている点――地、道(路)、馳、笞、置、治――が特徴的だと思われます。しかも、自覚も意識もしないのです(してもすぐに忘れます)。「何となく」とんてもないことをしでかしていると言えるでしょう。


 以上、大風呂敷を広げながら、未整理な考えを垂れ流すだけにとどめて、申し訳ありません。この辺のことについては、今後さらに考えてみます。


 話を変えます。


大量生産、製品

大量生産された製品、楽曲、料理、絵画、写真、映画、放送、小説、文書、画像、動画……。

(拙文「空っぽ」より)


 複製といえば、絵などの芸術作品の複製や印刷物のほかに、大量生産された製品を思いうかべる人が多いと思われます。写真や映画を連想する人も多いでしょう。さらにはインターネット上で投稿と複製と拡散と保存がほぼ同時にかつ並行して起こっている文書や静止画や動画こそが、現在では最も重要な意味を持つ複製であると考えている人も多いかもしれません。


 いま挙げたもののうち、製品に注目してみましょう。


 現在では情報やデータも製品になりうるし、じっさい製品として売買され流通していますが、そうした抽象的なものではなく、たとえば衣食住にかかわる服や食品や家具や電気製品といった、目で見ることができて手で触れることができる具体的な物である製品の例として、靴を思いうかべてみてください。


 みなさんのお持ちになっている愛用の靴は、おそらく大量生産されたものでしょう。つまり複製ということになりますが、その複製である靴を複製として考えることがあるでしょうか。そっくりなものがたくさんあるうちのひとつだと考えることがありますか。


 あなたの愛用の靴の話です。


リアル、代わり、写し


 愛用している製品であれば、どんなものであれ、それは世界に「たったひとつの」「大切な物」なのです。これが、自分にとって親しくない人の持ち物であれば、同じメーカーの同じ製品番号の製品でも、それは「複製」になります。


 この場合の「複製」とは、「それとそっくりなものがほかにもたくさんある」、「そのうちのひとつ」だという意味です。


 あなたは大切な人の写真が踏めますか。大切な人の名前が書いてある紙切れを踏めますか。


 踏めなかったり、踏むのにためらいがあれば、それがリアルなのです。リアルとは、いまここにある、たったひとつ(たったひとり)のものです。複製(その他たくさんのうちのひとつ)であっても複製として意識されない(感知されない)ものがリアルなのです。


 写真も名前を書いた文字も複製(写し)ですが、それによって引きおこされる「大切」や「愛おしい」という感覚や感情にとらえられ、行動を左右されてしまうのが人なのです。


 駄目押しに言いますが、「そっくりなものがたくさんある」はずの複製を前にして、あるいは手にして起きる、この「たったひとつ(たったひとり)のもの」(愛着)という感覚や感情は想像の産物であるとも言えます。


 そうした心境にあって、複製を前にしたり手にした時の人は、ほかにもたくさんあるはずのそっくりなものたちに思いを寄せることはありません。当然のことながら、その複製の起源や本物(実物)を意識することもありません。


 リアルであることに必ずしも実体は要らないのです。

(拙文「空っぽ」より)


 リアルである、つまり、いまここにあるたったひとつのものであることには、実体も、その他のそっくりなものも要らないのです。リアルという感覚が起これば、それでいいのです。


 実体のないリアルとは、「動き」であって、動いている「もの」が意識されない「状態」とも言えます。


 リアルとは、言葉(声・文字・表情・身振り)であったり、映像であったり、音であったりすると考えてください。そうしたものは、代わりであり、写しなのですが、何の代わりであるか、何の写しであるかは感知されないし意識されないのです。そもそも「何」はたどることができないものだからです。


いまここにあるふるえ


 人の中で「いまここにある」という感覚を引きおこす、いわば「ふるえ」や「動き」が作動している状態なのです。その状態(ふるえている)は複製(代わりと写し)によって引きおこされます。というか、きょくたんな言い方をすれば、人にとって世界は複製(引用)であり、複製(引用)しかないのです。


 人にとって、世界や森羅万象は「うつうつ」「うつらうつら」しながらとらえている「うつし」でしかありえないからです。たどりつけない「何か」の「代わり」でしかないからです。


 人は自分が考えているほど、正気でもなく覚めてもいないもようです。さもなければ、自分のつくった「写し」に振りまわされたり、たったひとり、あるいはごく一握りの「代わり」にすべてお任せするような世の中の仕組みをつくって自分の首を絞めたりしていないはずです。


 たとえば、写しであり代わりである言葉をたったひとりのリーダーが発し、それが音声や文字として一瞬のうちに投稿・複製・拡散・複製・保存される。リーダーはいったん放った言葉の辻褄合わせのために、さらに言葉を放ち、既成事実を積みあげていく。ブレは許されません。体裁が悪いからです。面子にかかわるからです。リーダーが体裁と面子にこだわることは、みなさんがご存じのとおりです。


 そのせいで、多くの人命と財産が失われているのもまた、みなさんがご存じのとおりです。人びとは、自分たちの代わり(代理人)の発した言葉(代わりであり写し)にひれ伏していると言えます。代理人(自分は「国民から権力を委託されている」と言います、言っているだけです)の辻褄合わせに付き合わされているのです。この点については、拙文「黒いカラスは白いサギ」で触れています。


 いつのまにか、うつろうつろ、うかつ、うっかりがまかり通っているのです。なんとなく、とんでもないことを、みんなでしでかしているという意味です。この星に住む人以外の生き物たちもそれに付き合わされています。


 うつろうつろ、うかつ、うっかり――。らりっているのかもしれません。これは、私のことです。さまざまなお薬(ほとんどが工場で製造された複製です)を服用してぼーっとした状態でこの記事を書いています。ところで病気も複製であったり引用なのでしょうか。このところ、心身ともに自分が複製であり引用の産物だという気がしてなりません。


究極の複製は文字


 上でも述べましたが、私は言葉を広く取っていて、話し言葉(音声)と書き言葉(文字や記号)だけでなく、視覚言語と呼ばれる表情や身振りも言葉だと受けとめて日々の生活をいとなんでいますが、言葉もまた複製であり引用であることは忘れられがちでです。さきほど、モナ・リザを例に取って、おふざけをしたとおりです。


 話し言葉はおもに聴覚に、書き言葉と表情と身振りはおもに視覚に依存します。どの言葉も発せられると、それを聞いたり見ている相手に記憶されるというかたちで残りますが(もちろん無視もされますけど)、音声と表情と身振りは発せられたとたんに消えていきます。


 受けとった相手はそれを片っ端から、自分の中でなぞり(うつるのです)、記憶(保存)し、真似るというかたちで繰りかえすこともあるし、そうしないこともあります。文字だけが消さないかぎり、残ります。


 このようにしつこく残る複製は文字だけではないでしょうか。しかも、文字は写すことができます。写せば増えるのです。「発する・発せられる」(post=投稿)、「残る・残す」(保存)と「写る・写す」(複製)と「増える・増やす」(拡散)が同時に起きるなんて文字しかなさそうです。


 それだけではなく、「写る・写す」に付きもののずれが起きにくいのです。印刷やコピーという手段を用いれば、ずれはほぼなしになり、デジタルなデータとして複製すれば、ずれは理論的には皆無になります。


 話し言葉は真似て反復されるたびに個人差が発生します。これが集団によって繰りかえされていく過程で、訛りや方言になるようです。表情や身振りも、個人や集団や文化によってそのかたちや意味は変わりやすいと考えられます。


 文字だけが、ずれのない複製として存在できるし、ずれのない複製として読まれるのが可能です。なお、書体やフォントや書き文字としての差異や、インクや紙質や画素の濃度による差や、レイアウトによる違いは、ここでは扱いません。というか、これまでに記事にしたことがありますが、話がややこしくなりすぎて私には扱えないのです。


 文字は究極の複製ではないでしょうか。そんな究極の複製を用いるさいにずれが起きるとすれば、それは人の中で(人の側で)起きるのです。文字は不変で不動、人がうつろう。


 いずれにせよ、文字からなる文章(文書)が、本物のない複製の複製であり、起源のない引用の引用である点は、ほかの複製や引用と変わらない気がします。


(ひとつ気になるのは、書き言葉である文字が、話し言葉(音声)や表情や身振りという言葉とは異なり、その習得に多大な時間と労力を要するという点です。さきほど「知識・情報、権威・権力、普遍・真理」という見出しの文章で述べた、知識や情報の習得と似ているというより、両者がぴったり重なっている点も、気になります。文字は人にとって自然でも必然でも当然でもないのではないでしょうか。この星に他の生き物といっしょに棲んでいる人類というかホモ・サピエンスの歩んでいる道は、これでいいのでしょうか。人類のつくり残しているもの(なかなか元に還らない、しつこく残っているのがきわだった特徴です、短時間で消し去る準備が整っているのにです、後に放射性物質がしつこく残りますけど)は、この星にとって「正しい」ものなのでしょうか。)


翻訳、アイドル、崇拝


 文字の複製というと、写本や写経と翻訳が頭に浮かびます。そうです。宗教と関係してきます。単に知識とか情報の拡散と伝承の問題ではないのです。


 世界一のベストセラーは、バイブル=聖書だと聞いたことがあります。実際、あれほど多数の言語に翻訳された書物はないのではないでしょうか。しかも、何語で書かれて(訳されて)いても聖典だということらしいのです。一方で聖典としての翻訳を絶対に認めないクルアーン(コーラン)があり、翻訳は解説だと考えられているという話を見聞きした覚えがあります。


 私はお勉強や調べ物が苦手なので、深入りはしません。したくもありません。空想のほうが身の程に合っているようです。そんなわけで、翻訳については見聞きして知っていることだけを書きますが、忘れていることが多いので、拙文「引用の織物」と「定型について」と「言葉の夢、夢の言葉」を見ながら思いだして書きます。


 聖書といえば、ルター聖書が成立する苦労話を思いだします。英語訳の聖書もたくさんありますね。日本語訳も複数あります。うちの書棚にもありますが、英語でも日本語でもそれぞれ微妙に異なるというか違った印象をいだきます。頭の中で浮かぶイメージ(心象・印象)や絵が違ってくるのです。恥ずかしい話ですが、仏教の経典であるお経についても無知です。お経を口にした記憶もありません。


 経典や聖典とされる文書の特徴には隠喩や寓意があるようです。つまり多義的多層的なのです。ただ一義的なメッセージや意味を伝えるだけの目的で書かれていないということでしょう。しかも隠喩や寓意だけでなく、さまざまなレトリックが駆使されているようですから、これを翻訳するのは至難の業と言えそうです。


 多様な解釈が可能で、喧喧諤諤、百家争鳴の議論が起こって現在に至ると聞きます。こうなると原文を横目で見ながら解説と注解を読んだほうがいいのかもしれません。文学作品を連想します。とくに詩です。たとえば、韻のある場合には、まず韻を他言語にうつすことを断念しなければならないでしょう。韻だけではありません。


 簡単には「うつせないもの」や「うつしてはならないもの」もあるのです(おそらく「うつせるもの」よりずっと大切なものだという気がします)。

(拙文「伝わるもの、伝わらないもの」より)


 私的な感想ですが、小説でもたとえば英語で読んでいるのと日本語で読んでいるのとでは別物に感じます。日本語の原文から英語へ、英語の原文から日本語へのどちらの場合にでも。翻訳は私にとっては別物なのですが、絵画の複製を見て感じる「似ている別物」とか「そっくりの別物」とはこれまた異なる印象を覚えるのです。


 同じではないことは確かで、異なる、違う、別物なのだけど、似ているとは異なる気がする。こうとしか言いようがないのです。よく分かりません。


 話は飛びますが、イコノクラスム(iconoclasm、聖像破壊運動)とか、それとは別の話らしい偶像破壊とか、その逆みたいな感じの偶像崇拝(idolatry、idolism)という言葉を連想しました。「らしい」とか「みたいな感じ」だなんて不勉強丸だしの言い方で申し訳ありません。


 idolatry と idolism には idol (アイドル)という言葉が見えます。アイドルは写真や動画や音声で複製されるほど、アイドル度が高まるようです。アイドルは、崇拝の対象になるくらいの熱い存在ですから、宗教に近いと言えるかもしれません。アイドルは崇拝され、複製にされてなんぼという感じでしょうか。模倣されるという意味で、引用されてなんぼとも言えそうです。


 そもそもアイドルは偶像であって、実物ではなく像なのです。複製なのです。現代のアイドルもそう簡単に人前に出るべきではないと思います。握手をするなんて、とんでもない邪道だとは言いませんけど。 


 それにしても、よく分かりません。不思議です。何がって、翻訳とアイドルのことです。そしておそらく文学と経典や聖典のことです。


 いずれにせよ、翻訳とアイドルについて考えるさいには、本物のない複製の複製と、起源のない引用の引用という言葉とイメージが参考になる気がします。本物とか複製とか起源とか引用を超越した現象であり話なのかもしれません。


大風呂敷を広げる


 本物のない複製の複製と、起源のない引用の引用の世界に、本物と起源がないのは、人が「似ている」を基本とする印象の世界に住んでいるからでしょう。人にとって「同じ」と「同一」は扱えないし、扱えないから意識されないのです。人にとっての「ない」とは「意識されない(感知されない)」とも言えそうです。


 人はいまや、「似ている」ではなく「そっくり」をつくるようになり、それをきわめようとしているかのように私には思えます。そっくりはどんなにその度合いを高めても「そっくり」であって「同じ」ではありません。


 ロボットや機械のしなやかな動きは、生き物のしなやかな動きとはそっくりであっても同じではないのですが、人はそれを感知できないのです(知識や情報として学ぶことはできても)。人は自分が感知できない「同じ」を知識や情報として学ぶ必要があり、「同じ」は「知識」や「情報」と同様に人にとっては抽象だという意味です。


 ヒトの棲息する「似ている」の世界、つまり印象の世界は、人類が出現してからずっと本物なき複製の複製と起源なき引用の引用の世界であるような気がします。いま始まった話ではないのです。ひょっとすると、他の生き物たちもそうなのかもしれませんが、これ以上大風呂敷を広げるのはやめておきます。


 私にとって、こういう空想(大風呂敷を広げること)だけが楽しいのです。ああでもないこうでもない、ああだこうだ、と。