鏡、境、界
鏡、境、界
星野廉
2023年4月15日 07:41
自分の目こそが異物なのではないでしょうか。というか、自分という異物の目というべきか。
自分という自明な存在が、相手の瞳を覗きこむことによって異物となるかのようです。瞳だけではありません。水面や鏡面を覗きこむことによっても、自分の異物化が起こります。
(拙文「「ひとり」と「ふたり」のあいだを行き来する」より)
目次
かがみ・かげみ・ふたり
鏡、境、界
こっちとあっち、こちらとかなた、これとあれ
あなた、彼方、貴方
幻界、言界、現界、限界
思考まで外に委託しはじめたヒト
幻界も言界も現界も限界である
かがみ・かげみ・ふたり
鏡を覗きこんだときには、見られている気配を感じますが、見ているのは自分です。同時に自分は見られてもいるのです。
赤ちゃんや幼いこどもは鏡の前でびっくりするでしょうね。少し大きくなったこどもも、ときどき不思議な気持ちになるでしょう。おとなも、ときどき不思議な気分になるのではないでしょうか。
もっとも、お化粧をするときには不思議がる余裕はないだろうと、お化粧の経験のない私は想像しています。
*
鏡の語源については調べるのを避けていました。鏡は私にとっては気になるものにはちがいないのですが、ああでもないこうでもない、ああだこうだとわくわくしながら考えたい気持ちが先立つのです。
でも、このさい調べて見る気になって、辞書を引いたり、ネットで検索してみました。
和語だと、耀見・かがみ、影見・かげみ、神・かみ。
漢字の鏡だと境。
わくわくしましたよ。ぞくぞくもしました。
*
私は長いあいだ、「かがみ・鏡」で「かがむ・屈む、かんがみる・鑑みる、かんがえる・考える」を連想してきました。
第一には音の類似があるからですが、それに加えて鏡の前で首を傾げたり、かがみこんだりするさまが浮かんでくるからでもありました。
人類にとって最初の鏡は水面ではないか。水面では身をかがめなければならない。そういった安易な連想もありました。
*
それにひきかえ、「和語だと、耀見・かがみ、影見・かげみ、神・かみ。漢字の鏡だと境。」という辞書とネット検索から得た結果は魅力的なイメージを放ってくれます。
とりわけ惹かれるのは「かげみ・影見」です。
影には地面や壁面や水面に映る姿という意味もありますから、これに鏡面が加わると完璧な説明に思えるほどです。
映った姿を見るから影見。
完璧すぎて面白くない気もします。余白がなく余韻が感じられないのです。
一方で、「神」――例の御神体のことでしょうか――までに行ってしまうと、これまた真に迫りすぎて連想を楽しむ心の余裕がなくなります。
また「神」は思考停止をもたらしもします。ここでは連想ゲームをしています。ゲームに神はそぐわないと思います。
そんなわけで「神」の話にはこれ以上立ち入りません。悪しからず、ご了承願います。
鏡、境、界
和語ではなく、漢字、つまり大昔の中国語の文字としての「鏡」が「境」と関連しているらしいという話は、想像力をかき立ててくれます。
鏡は境。鏡は「さかい」。さらに界も付けくわえましょう。
鏡、境、界。
鏡を「きょう」という音読みではなく(つまりかつての中国語の音ではなく)、勝手に訓読みして「さかい」と読んだときのイメージは魅力的です。
さかい、きわ、あいだ、はざま、わけめ、わかれめ、しきり。
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さかい、ふち、はし、へり。
「辺境」や「周縁」とも重なってきます。
縁(ふち)は縁(えん)、さらには縁(よすが)。ど真ん中ではなく、ふちにいることで、他者やよそ者と出会ったり交わりが生まれるかもしれません。
わくわくするイメージです。
鏡に近づくときのどきどき、鏡の前にいるときのわくわく、鏡を覗きこんだときのぞくぞく。これは「かがみ」という「さかい」で他者との出会いが起きるからではないでしょうか。
でも、その他者は自分でもあるのです。
こっちとあっち、こちらとかなた、これとあれ
要するに「こっち」と「あっち」のあいだの線であったり帯であったりするイメージです。
具体的には川とか道です。塀や壁かもしれません。山や海であってもかまいません。
そこが、「こちら」と「あちら」の、「こちら」と「かなた」、「これ」と「あれ」のあいだにあれば、それが「さかい」なのです。
山の向こうに、川の向こうに、海の向こうに。
山のあなたに、川のあなたに、海のあなたに。
あなた・彼方・貴方。「あなた」に over there と you の意味が重なっています。
境のあなたを思うことは、ひとりのひとが思いの中でふたりになることではないでしょうか。
思いの世界の中でだけ、です。現実、うつつの世界では人はずっと一人です。
人は「ひとり」と「ふたり」のあいだを行き来する「から・空・殻」の器なのかもしれません。
人は、つねに、ふち、きわ、へり、さかいにいるとも言えるでしょう。つまり、境、界、鏡です。
境のあなた
鏡のあなた
堺のあなた
界のあなた
境界
鏡界
「世界」のイメージは、私にとって球体の地球ではなく、海の向こうにある縁(ふち)で深淵へと海水が流れていく果てのある人の世です。
縁から淵へ
淵から淵へ
あなた、彼方、貴方
人と人との間には距離があります。好きあっている同士でも一心同体は夢でしかありません。
というか、同床異夢という言い回しの本来の意味とは違いますが、いっしょに寝ていても二人が同じ夢を見ることなどまずないでしょう。
同じ床にいる二人は寝入った瞬間に一人になります。夢は徹底して一人だけの世界なのです。同床同夢も異床同夢もかなわない夢でしかありません。
たとえ、恋人同士や夫婦間や家族間であっても、距離は避けられません。誰もが基本的には「別人」という意味での「他人」同士です。それでいて、つながっているし、似ていたりもします。
とはいえ、いや、だからこそ、愛していればいるほど、その距離を埋めたくなるのが人間でしょうね。
*
「あなた」という日本語の言葉には、「遠く離れた愛しく近しいあなた」という意味が込められています。
あなたは近くて遠い、まぼろし。美しく哀しい言葉――。
ひらがなの「あなた」を「彼方、貴方」と表記すると、その美しく哀しい意味が立ち現れる。まるで魔法のようではありませんか。
次にその文字を口にすると、今度は二つの意味がいっしょになる。
音でいっしょなのに、文字ではべつ。
生きているとしか考えられない言葉の身ぶりと表情。そんな文字と音のある日本語が私は好きです。
幻界、言界、現界、限界
幻界、思いの世界
言界、言葉の世界
現界、現実の世界
この三つの界のうち、「幻・げん・まぼろし・思い」と「言・げん・言葉」の界では、人は「一人から二人になる」ことができます。思いの中で想像や空想することと、言葉をいじることで二人になります。
二人とは、自分と他者=多者=世界のことです。
*
思いの中で「二人になる」というのは、ぼーっと空想していたり(夢うつつ)、夢を思いだしたり思いうかべることだ言えば、イメージしやすいと思います。
言葉の世界で人が「二人になる」というのは、人が言葉を現実や思いの鏡や写しと見なしていると言えば、分かりやすいかもしれません。
例を挙げます。
私は蝶だ。私は空を飛べる。あの人は私を愛している。世界は私のものだ。私は決して死なない。私は自由に時空を移動できる。
このように言葉をつかうと何とでも言えます。何とでも書けます。自分という枠を出て、二人になっているのです。二人とは、自分と他者=多者=世界のことです。
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つまり、言葉はいじりやすいのです。一方で、思いはなかなか思いどおりになりません。現実はもっと思いどおりになりません。
夢を忘れていました。夢もなかなか思いどおりになりません。夢で自由に動けたら、それは現実です。
思い、現実、夢――どれもままならないのです。それにひきかえ、なんとでも言える言葉は、なんといじりやすいことか。
だから人は言葉に嗜癖し依存するのです。この場合の言葉には、話し言葉と文字だけでなく、映像や楽曲も含まれます。
思考まで外に委託しはじめたヒト
いじりやすい――創作、編集、加工・改ざん、配信・投稿、複製、再現・再生、拡散、保存――のが広義の言葉の特徴です。人以外(機械やAI)に外注・委託することもできます。
人以外(機械やAI)に外注・委託することが可能なのは、広義の言葉(話し言葉・書き言葉つまり文字・映像・楽曲)が「人の外にある外」――人を離れて独自の文法を持ち自立していて人の思いどおりにならない――だからに他なりません。
(※「人の外にある外」である、広義の言葉(話し言葉・書き言葉つまり文字・映像・楽曲)が、人の思いを離れた「独自の文法」を持っている点がきわめて大切です。独自の文法を持っているからこそ、機械やAIでも扱えるのです。言葉は人の専有物ではない(専有物でなくなったのではなく、そもそも人を離れている)、という意味です。)
「外にある外である」とはニュートラルで非人称的なものとも言えるでしょう。
だから、機械やAIにも文章が書けるのです。書いていると、書いているように見えるのさかいはないのです。さかいがあるのは人においてだけであり、さかいはおそらく外にはないのです。
(拙文「素描、描写、写生」より)
最近では、人は言葉の制作だけでなく、思いすらも、人以外(機械やAI)に外注・委託するようになってきたようです。思考まで外に委託して、ヒトはいったい何をするのでしょう。
文字どおりの「ホモ・サピエンス」ではなくなります。どうせあいつらには負けるからと、学んだり考える意欲を喪失したのでしょうか。
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じっさいには人が学んだり考える意欲を失ったというよりも、敵や競争相手(敵もライバルも人です)を打ち負かすために、機械やAIに思考を委託していているように私には見えます。
要するに、自分のため、または自分の仲間や身内のために、心や魂までヒト以外に託そうとしているようなのです。
ただし、その結果がどうなるかが必ずしも分かっていないし予測できていないようにも見えます。
思考をヒトの外部に全面的に委託するという状況はいま始まったばかりなので、致し方ないのかもしれませんが、きわめて危険だという気がしてなりません。
そう思う一方で、敵やライバルを打ち負かしたり殺めるために、自分の手を汚さず、また労を省くために、道具(武器を含む)や機械をもちいるというのは、人類の常套手段であり、人類の歴史そのものだったことを考えると、妙に納得してしまう自分がいるのも確かです。
人類には学習機能が備わっていないのかもしれません。というか、それが強みなのかもしれません。
幻界も言界も現界も限界である
話を戻します。
いじりやすい言葉ですが、いったん口にしたり、文字にすると、一瞬だけ、人はそれを信じます。信じないことには、話すことも聞くことも、書くことも読むこともできないからです。
嘘だ。馬鹿らしい。空想にすぎない。妄想だ。訂正しよう。書きなおそう。いや、それとは真逆だ。
こうした評価や判断は、いったん言葉を信じたあとの後付けなのです。そのままずるずる信じつづけたり、言ったことや書いたことや聞いたことや読んだことを忘れる場合もあります。
つぎからつぎへと話さなければならない、書かなければならない、聞かなければならない、読まなければならない。これが人の現実です。人は忙しいのですが、ますます忙しさに拍車が掛かっているのが現在でしょう。
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現実の世界だけで、人は一人になります。
しかも思いどおりにならないし、言葉のようにいじることもできません。
とはいうものの、人は一つの界にとどまっているわけではなく、行ったり来たりを繰りかえしているだろうし、一度に二つの界にいることもある気がします。
幻界、現界、言界、このうちのどれがベースにあるのかは、人それぞれだという気がします。
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「行き来する」という言い方は言界の慣用的な言い回しであって、私としては三つの界は濃淡としてあるようにイメージしています。グラデーションとか「まだら」とか「まばら」という感じです。
三つの界は別個にあるわけではないという意味です。その意味で各界が、さかいにあり、さかいである、つまり限りがある限界なのです。
幻界も言界も現界も限界である。
げんかいもげんかいもげんかいもげんかいである。
音にすると同じです。そもそも別個にあるわけではないので、分ける必要はないのです。
あるときには、ある界の濃度が高くて、別の界の濃度が低いというぐあいです。三つの界が混在しながら、それぞれの濃度が変化しているという言い方もできそうです。
この辺のイメージも人それぞれでしょう。お好きなイメージで想像してみてください。
あほらしい、付き合い切れんわ、とお感じになる方は、忘れてくださいね。
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