名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しい

名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しい

星野廉

2023年5月25日 08:39



「動詞(的なもの)」と「名詞(的なもの)」については、以前に記事にしたことがあるので、近いうちにもう一度加筆したうえで投稿しようと考えています。

(拙文「映る、写る、移る」より)


 今回は、上に引用文にある「以前に記事にしたこと」を取り上げます。



目次

名詞的なもの
動詞的なもの
名詞派、動詞派、動名詞派



名詞的なもの


 名詞は、固定と安定を指向します。揺れとぶれを忌み嫌うのです。


 名詞は、固定化と安定を目指す以上、権威や権力と親和性があり、同時に思考停止や判断停止とほぼ同義であることを忘れてはなりません。名詞で「決める」と、「やった!」という具合に思考が止まるのです。そして保身に走ります。革新がいなくなって保守だけになるのです。


 権力は腐ると言いますが、名詞も腐ります(もっともらしかったり、偉そうな名詞は腐っています)。


 名詞は、印刷と相性がいい、あるいは親和性があります。現在はネット上で書きネット上で文章を流通したり拡散することが一般化していますが、印刷しかなかった時代の書き方やレイアウトやルールを踏襲しようとする人が跡を絶ちません。


 ご覧のとおり、いまの私がそうです。十三年前のほうが、自由な書き方をしていました。以下はかつてのブログ記事を電子書籍化したものです。


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哲学がしたい、哲学を庶民の手に――。そんな気持ちを、うつに苦しむ一人の素人がいだき、いわば憂さ晴らしのためにブログを始めた

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 インターネットが普及しはじめてまもなく、ブログが流行しましたが、ブログは日記みたいなものですから、みんなが日記の延長線上で書いていた記憶があります。内容のことです。


 書き方については印刷物を踏襲していましたが、やがて書き方も自由になってきました。新しい工夫も見られるようになりました。なにしろ日記の延長ですから、編集者や校正者の目を気にする必要もないし、ブログを書いてすぐに投稿するのですから、いわゆる誤字脱字が目立っていました。


 書いてすぐに投稿する。投稿、複製、拡散、保存がほぼ瞬時に同時におこなわれる。この属性は「ころころ変わる」という属性と同義です。これが自由を生んだという気がします。インターネットが固定化とは別の方向を向いているからでしょう。この種の自由と変化を「乱れ」や「危機」と考える人はどの時代にもいます。


     *


 noteでは新しい試みをしている書き手がとても多いです。noteでは書体やフォントでの冒険はできませんが、表記、レイアウト、言葉遣いの点でさまざまなバリエーションを楽しめます。


 とくに「詩」では過激なくらいの冒険をしていて、わくわくします。形式だけに目を向けると(私は文章の顔、つまり字面を重視するのです)、「詩的なもの」や「詩のようなもの」や「詩らしいもの」がかなり揺らいでいるという印象を受け、頼もしく感じます。


 ただし形式(書き方)だけです。「詩的なもの」や「詩のようなもの」や「詩らしいもの」を信奉なさっている人は多いようです。


 noteでは小説も自由に書かれている気がします。現在印刷物として書き下ろされている小説とくらべると、書き方(形式)の自由度がnoteの小説のほうがはるかに高いのは、上で述べたブログと同様に編集者や校正者の目を意識しないからだという気がします。校正を機械に任せる人もいるみたいですが、よく知りません。


 なお、詩の場合と同じく「小説的なもの」や「小説のようなもの」や「小説らしいもの」を信奉なさっている人は多い印象を私は持っています。


     *


 話を戻します。


 名詞は、普遍や真理を目指す、あるいはその存在を信奉しています。ないものを信じているわけですから土台無理があります。その無理の上に成り立っているのが名詞的なるものなのです。まさに無理難題。


 名詞は、シンプルや簡潔を求める、あるいは他者にも求めたり強制します。この押しつけがましさに惹かれる人も多いです。きわめて多いというべきでしょう。「シンプルなものじゃなきゃ真理じゃないの!」という威勢の良さはやはり魅力でしょう。容易に否定できるものではありません。


 名詞は、名詞至上主義であり、名詞原理主義です。当たり前ですね。


 名詞は、不自然で人工的です。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいのではないでしょうか。観念だからです。ないのです。だから、見えません。あるものないもの、見えるもの見えないもの見境なく「名づけた」結果なのです。その意味で、ひょっとすると名詞は不自然どころか反自然なのかもしれません。


 そもそも「名づける」とは、自然と向きあう人間が恐怖と不安を解消しようとして「手なずける」ためにおこなっている操作なのであり、人の心理的な動機から生じた処理法だとも言えるでしょう。人の都合で、代理である表象(言葉、イメージ、映像、象徴、記号など)をもちいて名づけている(手なずけている)にすぎません。


 言葉を持ってしまっただけでも大事件だったのに、人は文字まで持ってしまいました。無文字という選択肢もあったはずなのにです。話し言葉は消えますが、文字はしつこく居直り残ります。まるで名詞みたいじゃないですか。人は文字を手にして、さらに固定化を指向するようになった気がします。人類の言葉化、名詞化、文字化が進行しています。人は言葉に擬態しているのです。


 人のつくったものに人は似ていく。そんなふうに思えてなりません。


     *


 名詞は、結果重視ですから、どこかに到着することが目的であり目標になります。「わかった!」を目指すわけです。概念と悟りという標語で突っ走ります。いや、じつは動いていないのです。名詞は睨みをきかせるだけ。睨まれて動くのは人間です。右往左往しています。


 無いものなのに忖度して右往左往、いや、無いからこそ忖度するのでしょう。無いもののや見えないもの気配に忖度。見られているどころか、睨まれているという気配ほど、恐ろしいものはありません。


 せめて名づけて、その恐怖を誤魔化すしかないという理屈です。名づけることで恐怖は軽減されますから。なにしろ、名前は言葉、言葉はいじれますから。nameをnameる、みたいに。なめてかかれます。チョロいものだ、と。


 この辺については諸説があります。手ごわいから名づけて、つまり名前をあげて、「餌づける」という説です。餌は生きがいいのをあげるのがいちばん。乾物や干物じゃ駄目です。生餌(なまえ)です。なまえをあげるのです。「上げる」ですから高くかかげて差し上げるのです。供物に似ています。生け贄(犠牲)のことです。厳粛な気持ちになります。


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 冗談はさておき、名詞は、Sです。基本は暴力。しかも一方向(一方的)。要するに、攻撃。自己中で相手に有無を言わせない。忍耐強くない。快感を得るためのストーリーはなく、計画性は希薄で衝動的。ある意味、単純。主導権という観念すらない。


 名詞は、端正、重い、厳めしい、存在感あり、がちがち、ごちごち。頼りになる。実は抜けている。短い。簡潔。すっきり。固体。


 名詞は、テリトリー(領土、縄張り)を手放しません。定住者なのです。トーテムポールのように歴史を重んじます。


 名詞的なものとして、男根、顔、まな、真字、真名、ステーキが挙げられますが、イメージがお分かりいただけますでしょうか。


 あと、名詞とつながりが深そうなものは、文字、読書、図書館、記述・記憶・記録、よむ、かんがえる、ろんじる、かたる。だんだんやっつけ仕事になってきて申し訳ありません。辟易しているのです。


 最後に。当たり前のことですが、名詞は名指しますね。「めいし」を「名指」と表記するのが、当たり前で理にかなっている気がします。当て字の名人である漱石先生が夢に出てきて、教えてくださった感字なのです。


動詞的なもの


 動詞は、揺らぎとブレを指向します。固定や安定を横目に(見てないわけではありません)、ぶらぶらふらふらします。


 動詞は、ネットと相性がいい、あるいは親和性があります。現在、ネット上では印刷オンリー時代にはなかった新しく自由な書き方、表記、プレゼンテーションが流通しています。こうした形式はこれからも変化し続けるでしょう。統御する組織や仕組みがない限りですけど。


 動詞は、随時あるいは常時更新中という状況であり、「とりあえず」が常態だと言えます。「これでいい」とか「ここまで」とか「これしかない」とは無縁なのです。


 動詞は、多様性や多層性に対して開かれています。他者への干渉を諦めているふしが見られます。なんでもあり、お好きなようにというイメージです。


 動詞は、文字どおりとにかく動きます。当たり前ですけど。揺らぐ、うつる(映る・移る・写る・遷る・流行るんです)。ゲリラ的な動きをするので目が離せないところがあります。


 動詞は、自然の状態であり常態であると思います。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいですが、世界と宇宙は動詞的なものに満ちている気がします。


 動詞も名づけられたものであることはまちがいありません。でも、名詞と違って動きや様態に注目している点において、動詞の向いている方向は、名詞の抽象性とは異なる気がします。


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 動詞は、プロセス重視であり結果を重視しません。行き先には無頓着で「ドライブは途中が楽しいよ」派なのです。「えーっと、えーっねえ……」となかなか煮えきらない。体感と直感を重視しますから優柔不断とも言えます。


 動詞は、Mです。基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯ですから、要するに、プレイなのです。しつこい、根気強い。かまってちゃん。


 言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。名詞に負けた振りをしながら、主導権は自分が握っています。Mはじつは「ご主人」なのです。したたかなのです。


 動詞は、いびつ、軽い、飄々、とりとめがない、ひゅるひゅる、ほわん。きわめてテキトーで、冗漫、ぐたぐだ、気体のよう。


 動詞は、領土の境のない草原のようで、そこには遊牧民(ノマド)が住んでいます。リゾーム、器官なき肉体なんてものと近そうです。


 動詞的なものとしては、表情、かな、仮字、仮名。料理だと、スキヤキまたは鍋物、要するにごった煮です。


 あと、動詞と仲がよさそうものとしては、音声、歌、口承、かく・しるす・よみがえる・かえる・かえす・うたう・となえるなんてところでしょうか。


 だんだんやっつけ仕事になってきて申し訳ありません。息切れがしてきました。こういう分類が苦手なのです。「じゃあ、やめれば」なんて聞こえてきたので、ここでストップします。


名詞派、動詞派、動名詞派


 何だか性格占いみたいで楽しいですね。というか、上の図式はそのようにつかっていただいてかまいません。あなたは、どっち派ですか? 名詞派? それとも動詞派?  


 しょせんお遊びの図式ですから、楽しいに越したことはありません。そもそも、こんなことは本気で真面目にやるものではありません。ところで、あなたは、どっちがタイプですか? 恋人としてなら、〇〇派、結婚をするなら、〇〇派なんて言うのも、面白そうですね。


 私は友達にするなら「動名詞」派です。動名詞とは、英語の動名詞という名前をお借りして私が勝手につくったものなのですが、抽象度の高い名詞に「する」をつけるとできます。愛する、哲学する、詩する、小説する、なんて感じです。



 たとえば、愛という名詞は抽象的で役に立ちませんから、「愛する」と動詞にすることで具体的な「行為にうつす」のです。すると生きます。「愛」なんて、「愛して」なんぼです。もらってうれしいのは名詞より動詞でしょ。


 固定を指向する名詞を流動化させるなんてもっともらしい言い方もできるでしょう。


 ジル・ドゥルーズする、みたいに固有名詞を動名詞にしても、「生きる」と思います。固有名詞の主への盲信から生じる思考停止を阻止できるとは夢にも思いませんが、活性化する一助にはなる気がします。


 世界をマルクスる、なんて言い得て妙だし、今夜みんなでニーチェる、なんて楽しそうじゃないですか。サルトる、ボーボワーるはそのまま日本語の動名詞になりますから、サルトれます、ボーボワーれば、というふうに活用しない手はないと思います。それにしても、「サルトる」はいいですねえ、私は「悟る」よりも好感をいだきます。


 おふざけはさておき、名詞を片っ端から動名詞にするといい頭の体操になりそうです。平和してみる、学校してみる、幸福してみる、母親してみる、猫してみる、文学してみる、SDGsしてみる、たんぽぽしてみる、インシテミル――想像力を働かせて演じてみるのです。頭の体操ですから正解なんてありません。楽しくやりましょう。


 いろいろ書きましたが、そもそもこんなことは本気でやることではないのです。本気でやると固定化して保守に走りますから。随時あるいは常時更新中。


【※この記事は以下の「名詞的なもの、動詞的なもの」に少しだけ加筆したものです。】




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