人の外にあって、人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で「外」であるもの
人の外にあって、人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で「外」であるもの
星野廉
2022年7月9日 07:55
言葉は謎です。謎だらけで訳が分かりません。これまで私は言葉について記事を書いてきましたが、それは言葉がどういうものか分からないからです。
私は分からないことについてしか記事を書きません。そんなわけで、分からないままに記事を書きはじめます。それでいて記事を書きおえたときには、依然として分からないままである場合がほとんどです。
また次の記事を書くことになります。その繰り返しです。
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分からないときには、分かろうとしたり知ろうとしたり悟ろうとはしません。調べたりもしません。気づこうと努めます。
気づくは、知るとか悟るとか分かるとは違う気がします。私には、気づくのほうがずっと大切に思えます。
目に見えないものを求めて目を宙や彼方に向けるのではなく、目の前にあって気づかないものに目を向けたいのです。
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私にとって、言葉とは話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけではありません。表情と身振りも言葉です。記号や標識を含めてもいいでしょう。
言葉はいまここにあります。いつもいてくれます。おそらく死に際までいてくれる気がします。言葉は、物心のつくまえから、私といっしょにいる友なのです。
そのように私といっしょにいてくれる言葉というものについて、誰々が何と言ったか、何々という本や作品や文章に何と書かれているか、私は興味がありません。
自分のまわりにある言葉を観察する、自分のまわりにいる人がどう言葉と向きあっているかを観察する。このほうが私にははるかに大切なのです。
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言葉を知ろうとするとか、言葉を分かろうとするのではなく、いまここにある、いまここでいっしょにいてくれる、言葉のありように気づきたいのです。
具体的には、どうしたらいいのでしょうか。
繰りかえして恐縮ですが、自分が言葉にどう向きあっているのかをひたすら観察し、自分のまわりにいる人たちが言葉にどう向きあっているのかをひたすら観察する。それしかないようです。
観察すると、不思議なことが起こっているのに気づきます。当り前だと思っていたことが不思議だと気づきます。
この「気づく」は「分かる」ではない気がします。分けることも、理屈をつけることも、人に伝えることもできそうにないからです。
私にとって、「気づく」とは「分かる」というよりも不思議だと実感し、不思議さを噛みしめることなのです。
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誰もが生まれたときに、すでにあるもの。つねに人の外にあって、それでいてときに人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で、人にとって「外」であるもの――。言葉のことです。
こんなものは他にありますか。
言葉は外にあるときにしか確認できません。確認とは、自分だけでなく他人といっしょに目にし、あるいは耳にして、認める(見留める)という意味です。
話し言葉(音声)、書き言葉(文字)、表情、身振り、記号や標識を思いうかべてください。
外にある言葉に目や耳を向けるのであれば、他の人といっしょにできそうです。中にあるものは、残念ながら、見えません。聞こえそうにもありません。
自分の中にある言葉(出てくるのですから中にあると思われます)は、自分にも他の人にも見えませんし、他の人の中にある言葉も見えません。出てきてはじめて見えるし聞こえます。
外にある言葉について他人と伝えあうとすれば、言葉を使うしかないでしょう。ある言葉がどう見えるかやどう聞こえるかを別の言葉で伝えあうのです。ややこしくて途方に暮れますよね。笑いそうにもなります。
笑ってもいいでしょうが、そのややこしさというか不思議さを噛みしめたいと私は思います。
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言葉は見たり聞くものと言うより、気づくものなのかもしれません。
繰りかえしますが、私にとって「気づく」とは「分かる」というよりも不思議だと実感し、不思議さを噛みしめることなのです。
何をって、言葉のありようの不思議さを、です。
これほど難しいことはない気がします。難しいのは言葉が外にある「外」だからだと諦めるしかないのかもしれません。
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目に見えないものは目の前にある。宙や彼方にではなく、目の前にある。私は自分にそう言い聞かせます。言い聞かせて励ますしかないようです。
目に見えないものは目の前にあるとは、言葉に限らない気がします。
目の前にあって見えない、のです。不思議です。
どう考えても分かりません。
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