2023年記事・要約・抜粋

 

*ここに収録されている要約・抜粋の出典の記事を電子書籍化しました。無料で閲覧とダウンロードができます。 

 2-3月: https://puboo.jp/book/135063 お薦め

 4月: https://puboo.jp/book/135029 お薦め

 5月: https://puboo.jp/book/135023 お薦め


名前のない怪物 

 〇〇さんがAIを使って描いた絵(作詞作曲した歌、書いた小説)。〇〇研究所(〇〇社、〇〇グループ、〇〇大学)がAIを利用して開発した商品(システム、サービス、アプリ、ソフト、ツール)。こんな具合に、個人名や集団名が明記されることはあっても、AIはその貢献度が度外視されたかたちで刺身のつま扱いされています。名前のない怪物なのでしょうか。そんな怪物の登場する小説がありました。とても悲しい物語です。なによりも人間が怪物であることを感じさせる恐ろしい作品でもあります。


*影を踏むのをためらう

 地面や水面や鏡にうつった影は、物や人の影であると同時に、物や人そのものでもあり、さらには物や人の影を作る光でもある。そんな思いが人の心のどこかにある。だから、人は大切な人の名前の書いてある紙や大切な人の姿が写っている絵や写真を踏むのにためらいを覚えるのではないでしょうか。文字やうつった像が、その文字や像が呼びさます物や人そのものではないのにもかかわらず、です。

 こういう人の気持ちは、学習した知識や理屈で押しつぶしたり抑えられるたぐいのものではない気がします。逆に言うと、こうした感情(想像力と言ってもかまいません)を押しつぶせば、文字や像だけでなく、物や人そのものもためらいなく踏めるにちがいありません。そこには光もないはずです。


*影に影を見る

 私たちは、物そのものに触れたり至れるわけではなく、物の姿を物の影という光と闇の交錯を見ているのかもしれません。この場合の影とは、地面や壁にうつる影、水面や鏡にうつる影、そしてそもそも目の網膜にうつる影です。それだけではありません。自然界に見られる、うつる影だけでなく、人は自分の手でうつす影を作るようになりました。人工の影です。

 落書き、絵、影絵、しるし、文字、筆写、印刷、写真、レコード・蓄音機、映画、複写・コピー、デジタル化した情報(映像・音声・文書)の配信・複製・拡散・保存。どれもが「うつす・うつる・うつし」です。


*月影、星影

 私にとって言葉とは、「同じ」と「異なる」が同居する、シンプルとはほど遠い「何か」なのです。「星影、ほしかげ、ホシカゲ、星明かり、星あかり、ほしあかり」で並んでいる各語が文字または文字列としてぴったり一致していないのは確かです。ぴったり重なっていないのですから、ずれている、つまり「異なる」わけです。それでいて「同じ」ものを指すとされています。

 ずれ(「異なる」)は観念でも抽象でもなく具体的な「物」として、そこに「ある」のです。それが言葉のありようです。一方で、上の各語が「同じ」だというのは抽象であり観念なのでしょうが、それもまた言葉のありようなのです。

「異なる」(具体)と「同じ」(抽象)の同居こそが、言葉のありようである、とまとめることもできるでしょう。


*蛍の影、螢の影、火垂るの影

 星影や月影というと、地面に星や月の黒い影が映っている絵が目に浮かびます。いったん思いうかべてしまうと、そんな光景が現実にありそうな、どこかでじっさいに見たような気持ちになります。

「アルミ缶の上にあるミカン」と同じです。この駄洒落のおかしさは、言葉が掛けてあるおもしろみだけでなく、文字どおりに取った時に浮かぶシュールな絵のおかしさが重なることでしょう。掛け詞も駄洒落も(比喩も)同じ操作をしますが、駄洒落は掛け詞の別称であると同時に蔑称でもあるのです。

 このように、言葉が呼びよせる言葉やイメージはきわめて個人的なものであり、だからこそ、自分だけのイメージは愛おしいと感じます。寝入り際の夢うつつにだけでなく、意識があれば、たぶん死に際になってもやってきて慰めたり笑わせてくれるのではないでしょうか。


知ではなく痴にうながされて書く

 私は掛け詞のように見えたり響く語源が好きです。字面や音を楽しむわけですが、これを「正しい」知識としてとらえて、まるでたった一つの正解のように解する気にはなれません。そんなわけで、国語辞典の語源の欄にある「〇〇が訛って」とか「〇〇か」とか「諸説あり」という自信なげな記述が好きです。

「訛って(要するに、口が回らなかった)」「転じて(要するに、間違えた)」「と解釈して(要するに、勘違いした)」「字を当てて(要するに、当て字であり感字)」というふうに受けとめています。映り、写し間違え、移る。言葉は、そうやって移り変わってきたようです。

 語源の解を知る喜びはタイムマシンが発明されるまで取っておきましょう。いまは、起源なき引用であり、現物や実物なき複製である声と文字を相手に遊んでもらおうと考えています。


*「ない」を「ある」に変える魔法

 猫という文字をよく見てください。猫に似ていますか? 私にはぜんぜん似ていないように見えるのですが、それでも猫を指すものとして、人は使っています。不思議な話です。何度腰を抜かしても罰は当たらないほど不思議だと思います。

 言葉、とりわけ文字は太古から人が利用している仮想現実(「ない」を「ある」と感じさせる仕掛け)ではないでしょうか。しかも、何の機械も装置も電源も要りません。寝入り際の夢うつつでも、たぶん死に際でも楽しめます。


*影の精度を向上させる

 影は実体をある程度正しく反映している、映している、写している。できれば、「移す」まで考えたいところなのです。移すとなると、何かが何かに、何かがどこかに移動するのですから、物理的な移動と考えた場合には、これはすごいことになります。理論から観測と実験による再現を経て実証する。

 メタフィジカルではなくフィジカルにいきたい。人は影の精度を物理的かつ身体的にとらえたいのでしょう。「映る」とか「写す」なんていかにも影っぽい言い回しでは満足できずに、「移す・移る」という、なんか、こう、移動っぽい、つまりじっさいに何かを動かせる力がほしいようです。

 影に働きかけることで物を動かす。動けばそれで結果良しとする。影がどれだけ実体を反映しているかなんて考えているだけ時間の無駄ということでしょう。気合いを入れれば、何とかなります。言葉は景気づけのためにあるのです。「影に影を見る」なんていって、意気消沈するためにあるのではありません。


*言葉が世界を見えなくするとき

 言葉は物を見えなくしているのではないか。いや、正確には言葉で物が見えなくなっていることもあるのではないか。そんなふうに思います。たとえば、「〇〇する」と「〇〇される」という言い回しがあるから、ある物や事や現象を見て、「する」と「される」に「分けて」しまう。それで「分かった」気分になるという意味です。

 でも、じっさいには「する」と「される」のさかいが不明な状況というのは多々ありそうです。訳が分からないというよりも、一時的に分けが分からなくなくなっているだけだから、時間をかけて真摯に丁寧に分けていけばそのうち分けが分かるはずだ。そのように楽観できるたぐいの問題なのでしょうか。

 世界はそんなに単純明快だとはとうてい思えないのです。


*おもかげ

 面影を抱くとはふつうは言いませんが、人のうちにある思いとしての影(像)は、「いだく、抱く、だく、抱える、かかえる」ものです。「いだく、だく、かかえる」という行為においては、こっちが相手や対象に接触するのですから、相手と対象もまた「いだく、だく、かかえる」側にあるわけです。

 こっちとあっちが「する、される」を相互に同時に体感する関係にあると言えます。内なる影の場合には、ひとりの中で分裂が生じるわけです。思いやった結果として、ひとりがふたりになるのかもしれません。だから寂しくはないのです。その体感が残るのが「おもかげ」なのでしょう。


*かげ、figure

 そこにはないものをそこに見る。影や面影を見る。

「かげ、影、陰(蔭)、翳」と「figure」、そして辞書にあるそれぞれの語義や例文は、まさにそうした体感を、言葉の顔や表情や身振りとして見せてくれる。そんなふうに私は思います。これは――ややこしい言い方ではありますが――具象と抽象の同居という言葉ありようでもあるのです。

 辞書に載っているのは意味ではありません。言葉なのです。意味を見たことがあるでしょうか。触れたことがありますか。話し言葉であれば音を聞くことができます。文字であれば形を見ることができます。それが言葉です。具象としての言葉だと言えるでしょう。

 見ることも聞くことも触れることもできない意味は抽象なのです。意味もまた言葉を成り立たせているのは事実です。意味という言葉をつかうかぎり、抽象を免れることはできません。そうであれば、言葉という具象と抽象の同居と積極的にかかわり、戯れようではありませんか。


*柳瀬尚紀先生の思い出に

 かつて翻訳家を志していた私は、柳瀬尚紀先生の訳業から多大な影響を受けています。昨日(3月2日)は柳瀬尚紀先生の誕生日だったので、先生の思い出に、先生が出てくる過去の記事を三本再掲します。


*影のこだまを聞く

 世界は文字と意味に満ちています。これだけ文字が増えていくのは殖えているのではないかと思うほど、複製が複製を生み産むさまが進行し拡散しています。なにしろいまは文字の入力と投稿と複製と拡散と保存が瞬時に同時に並行して起こっている時代ですが、人類の歴史の中ではごく最近の出来事なのです。

 人が文字に先立つとき、いまや勝手に殖えつつあるかのように見える文字は、人を送ってくれるのでしょうか。このところ、文字に先立ち、文字に野辺で送られる人の光景が、オブセッションになっています。杞憂と妄想であることを祈るばかりです。


*「ない」から書けている

 古井由吉の『杳子』における「名前の不在」は、『水』(短編集『水』所収)という短編では「私を省く」という形で変奏されています。日常において「自分」を根底から支え、「自分」にとって自明のものとされている名前と一人称の代名詞が欠けたまま、小説が書かれているのです。

『杳子』と『水』は言界(言葉の世界)が非日常、または異世界であり、現界(現実の世界)や幻界(思いの世界)とは重なら「ない」、欠けて足り「ない」世界、つまり限界でもあると感じさせる作品です。それが具体的な文字の身振りとして「ある」のです。


*川のほとりで流れをながめる

 ほとり、ふち、きわ――と変奏されながら、言葉と現実と思いのあいだを行き来しています。小説と詩とエッセイのあいだも行き来しています。心境小説のような、散文詩みたいな、随想っぽい、そんな感じです。言葉の流れを眺めながら意識のふちにいた語り手が、じっさいに川のほとりに向かうところで、この文章はきわまります。


*外からやって来る外【引用の織物】

 しゃきっとする。覚醒した気分になる。世界がクリアに見える。これは強力な、いや最強の嗜好品ではないか。最強の嗜好品どころか、きわめて危うい薬物なのではないか。嗜癖している相手に嗜癖を説いても、無駄。この最強の嗜好品が言葉なのです。

 人にとって、言葉は外から来るものであり、外との接点でもあり、外のものだとも言えるし、たぶん外そのものなのです。信用することに無理があります。

 外から来たものと、内なるものの間に齟齬(そご・食い違い)が生じるのは当然でしょう。そもそも両者をつながらせようとか対応させようとするのが無理なのです。どだい無理なのです。


*言葉の中にある言葉

 日本語の「山」と英語の「mountain」、そして日本語の「川・河」と英語の「river」は一対一で対応しないらしいのです。

「國破れて 山河在り」

 たぶん、日本語の「やま」と「かわ」と大昔の中国語の「山」と「川・河」も、一対一で対応していなかったのではないでしょうか。

 もともと日本語とずれていた言葉と文字が、いまの日本語の中にあるのです。言葉の中に別の言葉が入っているとも言えます。どの言語もそうなのでしょう。そう考えると日本語であれ、英語であれ、中国語であれ、言葉というものが、ざらりとした違和と異和、そして移和に満ちたものに感じられませんか。そのざらり感を豊かさと呼んでもいいのではないでしょうか。


*うつせみのたわごと -1-(全14回)

 できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという試みをしています。ふだん書いている文章とは違った書き方で、「言葉」、「書くということ」、「読むということ」をテーマに書くという実験をしています。


文字や文章や書物を眺める

「猫が眠っている。」という文字を読んでいると、猫が眠っている光景が頭に浮かびますが、それはいまここにはない光景です。それが抽象です。「猫が眠っている。」という文字に意識を集中してじっと見ていると、文字だけが感じられてきます。これが具象です。

 抽象と具象が同居している言葉を、人は抽象(そこにはない像)としてとらえたり、具象(そこにある文字やいま聞いている音)として体感しているわけです。両者のあいだを行ったり来たりします。

 こういうとりとめのない話をしていると、眠くなります。おそらく、ふちとか、ほとりとか、きわにいるからでしょう。ゆめうつつ、ゆめとうつつのふちにいるのかもしれません。


*「ない」ものに気づく、「ある」ものに目を向ける

 私の印象では、吉田修一の『元職員』においては、「 」(省かれた一人称の代名詞)と「こちら」(一人称の代名詞)と「俺」の登場によって雰囲気が徐々に変わっていきます。「 」が「こちら」、そして「俺」となるにつれて、限定的な描写の文体が語りの文体に転じていく。いまとここだけの「現在」が、過去と祖国日本を含む時空を背景とし、人間関係の渦巻く「現在」へと転じていくのです。ただし、最後にいま述べた印象を裏切る形で、意表を突く展開があります。それはストーリーの展開としてあらわれるのではなく、具体的に言葉の身振りにあらわれる展開なのです。


*小説をまばらにまだらに読む

 小説は一気に書かれたものではありません。加筆、書き直し、推敲、第三者によるチェックや手直し、編集、校正といった作業をへて最終的な原稿や作品として読まれるのです。とはいえ、私たちが目にするのはいわば最終的な形の完成品ですから、まるで一気に整然と書かれたような印象を与えます。

 筋があって(筋は人が読み取るものです)、それに沿ってきれいに流れているように見えるのです。活字になった文字の威力は強いです。活字の並びと活字の字面があまりにも整然としているために、あまりにも視覚的に流麗なために、そのように書かれたのだろうという錯覚するのかもしれません。

 もし一気に整然と書かれたように見えるだけで、じっさいには一気に整然と書かれたものでないなら、一気に整然と読まなくてもいいのではないでしょうか(そもそもそんな読みが人間に可能なのでしょうか、ありもしない抽象ではないでしょうか)。まばらにまだらに読むという意味です。じっさい、私はそんな読み方をしてきたし、いまもしている気がします。

 多くの人にとって小説を読むのは私的な楽しみだと思います。「きちんと」とか「ちゃんと」読んだというふうに、外向けに体裁をとりつくろわなくてもいいじゃないですか。


素描、描写、写生

 音と意味とイメージは、まるで文字の影のようですが、そんなことはなく、むしろ音が先で、文字は後付けなのです。まず話し言葉があって、書き言葉が出てきたのはずっと後のことだと言われています。

 それなのに、目に見える形としてある文字はいかにも偉そうに見えます。人は目に見えるものに信を置きます。一方で、目に見えないものに畏怖の念をいだくことがあります。音や意味やイメージがそうでしょう。

 言葉は目に見えるものでありながら、目に見えないものでもあります。具象と抽象を兼ねそなえている、具象と抽象が同居しているという言い方もできるでしょう。だから、人の外にあって、人の中に入ったり出たりできるのです。

 不思議ですね。謎です。考えれば考えるほど不思議でなりません。


*うつせみのたわごと -2-(全14回)

「うつせみのたわごと -1-」につづき、できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという試みをしています。ふだん書いている文章とは違った書き方で、「言葉」、「書くということ」、「読むということ」をテーマに書くという実験です。今回のテーマは、言葉でものごとを語ること、および、ヒトが真実・現実・事実をとらえることの不可能性です。


*言葉の向こうに見える、言葉、現実、まぼろし

 言葉の向こうには言葉が見えることがあるし、言葉の向こうには現実が見えることがあるし、言葉の向こうにはまぼろしが見えることがある。そんな気がします。「うつせみのたわごと」(全14回)ではそういう話をしていきます。読みにくくて退屈な連載ですけど、「うつせみのたわごと」をよろしくお願いいたします。


*内から来る外【引用の織物】

 言葉が内から来るとは、翻訳や他言語の習得をイメージすると分かりやすいと思います。Aという言語のフレーズをBという言語のフレーズに置き換える。Aという言語の話し手がBという言語を習得する。またその逆もある。こうした行為が可能であるなら、他言語間には共通する基盤があるはずです。

 人の内には「言葉・言語の素地」(内なる言葉と言ってもいいでしょう)みたいなものがあるのではないか。さもなければ、言葉・言語は習得できない。こう考えるのが妥当ではないでしょうか。言葉は内から来るもの、とはそういう意味です。

 なお、内も外だという気がするので、「出る」ではなく「来る」としておきます。自覚や意識されない「内」は「外」と言ってもかまわないのではないか、という意味です。


*うつせみのたわごと -3-(全14回)

 今回のテーマは、ヒトが言語を獲得したこととテリトリーと知との絡み合いです。これまで何度か論じてきたことを、大和言葉系の語だけで語ろうとすることのおもしろさを感じました。スリリングな体験でした。

 標準的な表記に直したキーワードは、「謎」「なぞる」「かく・描く・掻く・書く」「思い」「掟」「しる・知る・領る・汁」「名づける」「手なずける」「なわばり・縄張り」「ち・地・知・血」「懐かしい所」「帰る」「戻る」「源」です。


*辺境としての人間

 澁澤龍彦、種村季弘、由良君美。「辺境」をキーワードに、この三人を論じています。詳しく言うと、「辺境としての人間」が「辺境に身を置いている」という具合に、「辺境」という言葉を人物と境遇に重ねてとらえています。

 外からやって来る言葉と事物、自覚も意識もできないブラックボックスのような「内なる言葉」。この外と内が出会う場が、個人としての人であり、国や地域なのではないでしょうか。そうであれば、人は辺境であり、あらゆる国と地域も辺境だと言えるのではないでしょうか。

 辺境は常に揺らぎ移ろう。辺境は、混合という形での創造が常に生起する場である。そんな気がします。

 言葉は外と内から辺境へとやって来る。辺境という揺らぎの場へと。人は辺境から辺境へと移る。人がいるところは常に辺境。


赤ちゃんのいる空間

 よるべない、寄る辺ない、寄る方ない。人間の赤ちゃんには、まさに寄り掛かるものがないのです。ふち、へり、きわ、はしっこ、すみっこにいるとも言えるでしょう。世界のふち、人間の世界のふち。

 でも、縁(ふち)は縁(えん)なのです。どういうことかと言うと、赤ちゃんは縁(ふち)に身を置くことで、縁(えん)を呼び寄せているという意味です。

 縁(えん)とは、他者との出会いに他なりません。仮に赤ちゃんがど真ん中にいるとするなら、他者との出会いはないでしょう。縁(ふち)にいるから、外や周りと触れあえるのです。


*張り裂ける芽、腫れる粘膜、晴れる空

 言葉の音、形、意味、イメージの類似という一点だけ(複数の点の場合もあります)で、懸け離れたもの同士を一瞬つなげることができます。それが比喩であり掛け詞であり駄洒落であると言えます。ちなみに、駄洒落は掛け詞の別称であり蔑称でもあるわけです。いまのは音の類似でつないだ例です。多層的で多元的なもの同士が、ある一点で一瞬だけつながる世界に、私ははかない美しさを感じます。まぼろしなのかもしれません。きっとそうです。


*福永武彦先生の思い出に

 私の大学時代にフランス語の詩の読み方を手ほどきしてくれたのが福永武彦先生でした。その福永先生の授業で使用した教科書に、この記事で触れたステファヌ・マラルメ作の「海のそよ風(Brise maraine) 」が入っていたのです。Anthologie des Poetes du XIXe Siecle [MAYNIAL, Edouard.] というアンソロジーは、いまも大切に保存しています。褪せてくすんではいるものの、古い本独特のいい香りがします。しばらくパソコンの脇に置くことにします。


*うつせみのたわごと -4-(全14回)

 今回のテーマは、「外部・内部・辺境」という分類です。「よそおう」という言葉をつかって、そうした分類=分ける作業が、ありもしない物事を捏造することだと指摘しています。ヒトという生き物の性(さが)を嘆いています。

 標準的な表記に直したキーワードは、「よそ」「装う」「そと」「うち」「ふち」「代わり」「偽物」「ずれる」「はずれる」「語る・騙る」「仮」「化ける」「誤る・謝る」「賢しい」「悪賢い」です。


*解くのではなく溶ける

 それぞれの単語の語義を辞書で眺めるとわかりますが、フランス語も英語も日本語と同じく、もつれにもつれていることが目に見えます。一目瞭然なのです。言葉の中に言葉があり、言語の中に言語があるからに他なりません。

 英語やフランス語の単語のそれぞれの語義は英和辞典や仏和辞典に載っているものの、英和や仏和辞典に載っているのは、語の意味ではなく訳語です。こうした訳語が日本語の中の言葉になっていることは明らかです。まさに言葉の中の言葉です。

 漢字やひらがなからなる訳語があるのに、カタカナで表記された語が並行してもちいられている場合も多々あります。もつれているのです。私は、こうしたもつれは言葉にとって自然なありようであり、このもつれが言葉を豊かにしていると思います。

 もつれにもつれたものを、ときほぐすのは人には無理でしょう。人がもつれているからです。こちらがとけてほぐれればいいのです。


*げん・幻(うつせみのたわごと -5-)

 できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという試みです。今回のテーマは、「まぼろし・げん・幻」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる「幻界」です。この回から、10の「げん」について連載していく形になります。

 標準的な表記に直したキーワードは、「幻・まぼろし」「間を滅ぼす」「真を滅ぼす」「魔を滅ぼす」「イメージ・image」「信じる」です。


*「たったひとつ」「たったひとり」に抗おうとする身振り

 フーコー、ドゥルーズ、デリダ、バルトから、私が学んだ大切なことは、彼らの著作から「たった一つ」の解を求めるなという戒めです。「たった一つ」の解を求めるのではなく、自分の問題として自分の母語で、彼らの言葉の身振りを真似て演じることが、「フーコーする」であり、「ドゥルーズする」であり、「デリダする」であり、「バルトする」だと、私は思います。

 たとえば、彼らの著作の翻訳にある翻訳語をもちいて作文したり、または著作を部分的に引用したり、あるいは部分を継ぎ接ぎすることが、「〇〇(上の固有名詞のお好きなものを入れてください)する」ことになるわけではぜんぜんないのです。


人工〇〇になりたい

 人は人工〇〇になりたいのではないでしょうか。人工〇〇は人がいわば「神」としてつくったものなのに、人はその自分のつくったものになりたいのではないかと私は最近よく思います。

 人間――人類でもホモ・サピエンスでもヒトでもいいです――は自分たちのつくったものになりたいのではないでしょうか。最初はそんなつもりはなくて、ただ自分たちに似たものをつくって楽しんでいたのでしょうが、そのうち、つくったものに憧れをいだくようになったという意味です。あまりにもうまく出来すぎたからかもしれません。つくってから、二度見してしまったのです。

 こうなるのを薄々感じていた。無意識のうちに、自らこういう事態を招いたという気もします。たぶん機が熟したのでしょう。いまは神への遠慮がない時代です。


*影の文法

 「影に影が落ちる」と「陰に影が落ちる」は、よく観察すると現実にあるようです。

 言葉にするとありえないことに思われることが現実にはあるのではないでしょうか。もしそうであるなら、現実には現実の文法(比喩です)があって、それは言葉の文法や言葉の慣用とは重ならないし、ずれていてもおかしくはありません。

 こういうありえないことを想像すると、わくわくどころかぞくぞくしてきました。ありえなさにぞくぞくするのです。ありえないこと、さらにはありもしないこと、ないことほどぞくぞくするものはない気がします。少なくとも私にはそうです。

 ありそうや、あるは、つまらないのです。ありふれていて退屈なのです。


*影の落とし物

 私は描写が苦手なので、優れた描写があればそれから学ぶ気持ちがつねにあります。ただし説明や成句や比喩に頼らない正確な描写でなければ尊敬できません。映像による描写に比べて、言葉によって正確な描写をするのは至難の業だと思っています。

 言葉による描写が困難なのは、言葉が視覚的なものではないからです。視覚を呼び覚ますものであっても、視覚に直結していないという意味です。要するに、視覚的ではない言葉をつかっての描写ーー事物や現象を写すことーーは効率が悪くて、もどかしいのです。そのため逸脱と停滞をともないます。

 停滞を避けてストーリーに沿って説明するほうがずっと楽だとも言えるでしょう。いまはそうした書き方が求められている気がします。


*げん・言(うつせみのたわごと -6-)

 今回のテーマは、「言葉・げん・言」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる「言界」です。言葉が代理でしかないこと、ヒトには言語を習得する先天的な能力が備わっているらしいこと、言葉はヒトの思いや感情の表出や伝達を担っていること、言葉がヒトの知の体系をつくり上げる支えとなってきたこと、について論じています。

 こうしたことがらを、大和言葉を多用しながら平仮名だけで記述する場合と、そうした語の使い方によらない書き方をした場合とを比較すると、つづる形態がつづられる内容に大きな影響を及ぼすことがよく分かる。そんな気がしました。簡単に言うと、書き方が書く内容を左右するということです。それに気づいたことが大きな収穫でした。


*2人のゲンちゃん

 "唯*論" でネット検索してみると、たくさんの唯〇論があります。その中で以前に聞いたり見たことがあるものを個別に見てみたのですが、仮想敵があるのではないかと感じられる唯〇論が多いようです。

 唯〇論対唯△論とは限りませんが、何かを敵(かたき)にして論を張っているという感じで、ほのめかしや当てこすりが透けて見えるのです。さらに興味深いのは、その仮想敵と推測できる「何らかの論」と、その論がよく似ていたり、ほぼ同じではないかと感じられることです。

 「唯」という大げさな言葉をつかいながら、意外と局所的な不満や批判ややっかみ、あるいは近親憎悪から生まれているのではないか。そんな気がしました。今回の2人のゲンちゃんの喧嘩も、そうした文脈で読めそうです。


*連想でつなぐ「2・二・Ⅱ」

 私は「数・すう・かず」は影だと思っています。「すう・かず」は見ることも触ることもできそうもないので、抽象とか観念という意味での影に思えます。

 私にとって数字は「数・すう・かず」という抽象である影の具象としての影です。影の影なのですが、この影は見えます。文字ですから物だと思います。

 算数と数学は、私には数字という影(目の前にある物)をつかって、数という影(見えない抽象)を遠隔操作する操作マニュアルに感じられます。影を処理するための文法とかレトリックというイメージも浮かびます。影の文法集、影のレトリック集という感じです。


*はなは、はなが、はな

 花は花が花

 花は人のために咲くのでない

 人は花が散ると木と葉には気を掛けない

 人は木を伐り葉を払う

 人はいまが花

 それは確か

 三分、五分、七分、満開、散り始め

 それは分からない


*もつれる、ねじれる、こじれる(連想でつなぐ)

・英語:ゲルマン系(土着・島の言葉系)とラテン系(外・大陸から来た系)

・日本語:大和言葉・和語系(土着・島々の言葉系)と漢語系(外・大陸から来た系)

 こうやって見ると、地理的にも歴史的にも文化的にも両者は似ていますね。この島々(日本)もあの島々(英国)も、大陸から見て、「へり・ふち」にあるのです。そして、そこで話され書かれている言葉(日本語・英語)も、つねにへり・ふち、つまり辺境にあると言えるでしょう。だから、もつれているのです。

 逆に言うと、両国は大陸のへりにへばりついているからこそ、「他者」との出会いがあり、その結果さまざまな文物を取り入れたのです。ただし、このへりである国に、さらにへりと辺境――それぞれの隣国や内なる辺境である「よそ者」たちの存在――があることを忘れてはならないでしょう。


*目くばせしあう音(連想でつなぐ)

 話し言葉は音と意味からなりますが、人にとっては意味よりも音が先だと最近よく思います。音は意味を呼びますが、意味は音を呼んでくれないからです。やはり意味は後付けだという気がします。

 音が意味やイメージを喚起する力は強いです。言葉を持ってしまった人間にとって、意味が後付けされた音が記憶と重なって付きまとうのかもしれません。

 人は目をつむって寝ます。目を閉じて亡くなります。寝際や死に際にあるのは音の記憶と記憶の音が呼び覚ます風景ではないでしょうか。際にあっては、音の記憶も記憶の音も、もはや意味ではないのだろうと想像しています。たぶん風景だけがあるのです。


人に動物を感じるとき(連想でつなぐ)

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。触覚・触感と味覚・食感では、相手と接触していなければなりません。「する」側にも「される」側にも、「する」と「される」が同時に起きています。つまり、双方向的なのです。

 一方的に、相手に知られずに、見る、聞く、嗅ぐ場合は多々あります。「触れる・撫でる」と「味わう・食感を楽しむ」最中となると、もし相手に意識や意思があれば、されている相手は「されている」と感じているでしょう。

「撫でる・撫でられる」は想像しやすいですが、「食べる・食べられる」を想像するには心の痛みを感じます。相手が人以外の動物や生き物の場合だと、「食べる」側の人には心の痛みはあるのでしょうか。

 ただ相手の「痛み」(苦痛)だけがある気がします。こればっかりは、自分がされてみないと分からないでしょう。思いやる、おもんぱかる、忖度する、推しはかる、しかなさそうです。


*げん・現(うつせみのたわごと -7-)

 今回のテーマは、「現実・げん・現」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる「現界」です。目覚めている状態、つまり意識が働いている状態と、夢を見ていたり、空想をしていたり、無意識でいる状態とを対比するのではなく、連続した帯=濃淡=階調として論じようとしています。これまで扱った幻界、言界、現界が重なるものであるとも訴えています。


*3人のゲンちゃん

 決定的に、同じなのは、

*唯言論=唯幻論=唯現論が、どれも「ゆいげんろん」と読める。=3人とも、「ゲンちゃん」だ

という点です。

 というのは、もちろん冗談でして、そうではなくて、

*唯言論=唯幻論=唯現論が、どれも「唯○論」である。

=3者とも、「ぜんぶ、私に任せなさい」「ぜんぶ、私が面倒見よう」と言っている。

=できもしないことを言っている。

=夢を語っている。

=希望を述べている

という点が同じです。


*よむ、読む、訓む

 たとえば、「よむ」に「読」や「詠」という字を当てる、「読」や「詠」に「よむ」を当てる。こうして、この島々にもともとあった音で、よそから来た字を読み下した。すらすら読めるようにした。そればかりか、よその字を変えて字をつくりもした。そうやって、放せば消えてしまう音を残すやり方を編み出した。そうやって大きな竜(たつ)に飲まれることなく、くだしたと言えるかもしれない。


*連想でつなぐ夜と闇と夢

 読む、詠む、黄泉、病み、闇、山――。辞書を頼りに「よむ」という音を漢字で分けると、「よみ」と「やみ」と「やま」が浮かんで、つながってきます。連想です。個人的な印象とイメージでつないでいます。夢路(イメージ)をたどるのです(夢は「イメ(寝目)の転」という夢のような記述が広辞苑に見えます)。

 よみ、やみ、やま、ゆめ――。連想するのは、死者たちの集まる場所です。そこでは姿が見えるというよりも声がします。私にとって死者たちの声が集まる空間と時間を濃密に感じさせる作家の一人が古井由吉です。そこでは、夜、読み、詠み、黄泉、夢、闇、山が境をなくし、書くと欠く、欠けると書けるが重なりあいます。


*連想でつなぐ、たそがれ、twilight

 たそがれ月

 かわたれ星

 かたわれ月

 かたわれ星

 辞書で見つけたフレーズを並べたものですが、字の韻も音の韻もイメージの韻も踏んでいるように感じます。見た目も綺麗です。

 音の韻、字の韻、意味の韻、イメージの韻があると私は思っています。「韻する」の基本は「似ている」です。韻、陰、隠、因――韻は陰に隠れている「何か」に因り掛かって踏むものなのでしょう。どんな物でも事でも現象でも、多面的で多層的ですから、どこかでつなぐことができます。それに賭けるのです。


*音を見る、模様を聞く

 音を見る、模様を聞く――これは奇をてらったレトリックではありません。じっさいに現実で起きているのです。私たちはそうした現象に囲まれて生きています。とりわけ、広義のテクノロジーと工学が進歩して日常に入りこみ溶けこんでいる、いまはそうです。溶けこんでいるので気づかないのです。

 文字を聞く、楽曲を見る、映像を嗅ぐ・触る・舌で味わう、手ざわりで見る・聞く・嗅ぐ・味わう――ほら、こういうことってあるじゃないですか。本やテレビや映画やパソコンやスマホと付き合っている私たちは、これらのことを日常的に体験しているのです。PCもスマホも手指で撫でて操作するものです。

 置き換えとそれによる連動のことです。「Aの代わりにAとは別のもので済ませる」と言えば分かりやすいかもしれません。仮想現実にまで行かなくても、すでに私たちは置き換えを体感して生きています。私たちにとっての「リアル」は置き換えられたものなのです。


*連想でつなぐ、うたう

「うたう」がどうして気持ちよいのかを考えてみました。いろいろな思いが浮かびましたが、結論から言いますと、「いま、ここにある・いる」が続いている喜びと期待を全身で感じる・味わうという感じです。

 旋律はいまという瞬間を引き延ばし、どこかへ連れて行ってくれる乗物です。「どこか」は「かなた」つまり遠くて抽象的な場所ではない点が大切です。「どこか」は、あくまでも「いまいるここ」であり、「いまいるここ」が「いまいるここ」のままに、びろーんとのびることだと思います。


*連想でつなぐ、まつ

 会った瞬間よりも、会うまでの待っているあいだのほうが幸せだと言われます。わくわくどきどきじりじりしながら待つ。これは、サスペンス = suspense にも通じる気がします。「宙ぶらりん=どうなるんだろう=この結果を知りたいなあ=この先を見たいなあ」です。

 世界中の多くの人たちが、サスペンス小説や推理小説や謎解き、およびその種の映画・テレビドラマを好んでいるというのは興味深い現象です。人は宙づりにされたいのではないでしょうか。気持ちがいいから。ただし、待たされるより、待つほうが気持ちがいい。快をもたらす「待つ」には主導権が必要なのです。これがフィクションです。


*げん・限(うつせみのたわごと -8-)

 できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという試みをしています。

 今回のテーマは、「かぎり・へり・げん・限」という言葉とイメージで世界をとらえる「限界」です。冗談ではなく、文字どおり限界は限界にあります。ヒトをはじめ、あらゆる生き物は、それぞれに備わった枠の中で生きています。その枠組みを意識できるのは、おそらくヒトだけでしょう。

 でも、ヒトを縛る枠は多種多様であり、それらの枠を意識することは難しいはずです。枠はヒトを縛るが、枠をずらすことで、その縛りから一時的にでも逃れることが可能なのではないでしょうか。


*身をかわして相手を制する

 漢文の読み下しにおいては、自分が動く、つまり自分の目を上下に動かす(同時に頭の中と体でなぞる)ことで、自分の外にある動かないものを動かす(もちろんそう思い込むのですが)ことに成功したのです。自分の外にいる異物を手なずけ飼いならしたとも言えるでしょう。こう考えるとすごい話です。

「自分が動くことで、外にある動かないものを動かす」とは、漢文だけでなく、人の知覚と認知のあり方のことではないかなんて大風呂敷を広げたくなります。でも、そうではないでしょうか。

 動か「ない」ものを目で追って、それが動いて「いる」と感じる、言い換えると「ない」を「いる・ある」にするのは、赤ちゃんがふつうにやっていることではないでしょうか。さらに言うと、赤ちゃんに限らず、私たちが日常的にやっていることだと私は思います。


*げん・原(うつせみのたわごと -9-)

 今回のテーマは、「もと・はら・げん・原」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる「原界」です。ヒトは何ごとについても、その始原を求めようとする傾向があります。それは「戻る」「帰る」という運動へとヒトを誘うようです。

 源に帰ろうとするという動きの前提には、枝分かれしている形態の存在と、「出た」という過去の出来事が想定されています。個人的には、苦手な物語です。どうしても馴染めません。信じていないせいか笑ってしまうのです。この種の話とは相性が悪いのでしょう。


*「ひとり」と「ふたり」のあいだを行き来する

 意識の中で二人になっている――とは夢と同じです。夢の中で、人は「自分の出ている夢」をもう一人の自分の視点から見ている気がします。夢と、夢うつつと、うつつ(現実)の思いは、緩やかにつながっている。たぶんグラデーション状に連続している。そんなふうに私には感じられます。とはいうものの、あくまでも以上はどれもが「思い」の中での話であり、現実には人は「一人である」という枠の中にいるわけです。

 思いの中では自由に出ていながら、現実の中では決して出ることのできない枠であるからこそ、私は「一人である」という枠にこだわっているとも言えそうです。オブセッションなのです。だから、「2・二・Ⅱ」が気になるのでしょう。

「数・かず・すう」の「2・二・Ⅱ」と、その影とも言える、文字や記号である数字の「2・二・Ⅱ」は私の中では異なります。前者(数・かず)は見えない抽象で観念であり、後者(数字)は見える具象であり具体的なものとして立ちあらわれています。後者は象形文字に似ています。


鏡、境、界

 和語ではなく漢字、つまり大昔の中国語の文字としての「鏡」が「境」と関連しているらしいという話は、想像力をかき立ててくれます。鏡は境。鏡は「さかい」。さらに界も付けくわえましょう。鏡、境、界。

「きょう」という音読みではなく(かつての中国語の音ではなく)、境(さかい)につられて、鏡を勝手に訓読みして「さかい」と読んだときのイメージは魅力的です。さかい、きわ、あいだ、はざま、わけめ、わかれめ、しきり。

 さかい、ふち、はし、へり。辺境や周縁とも重なってきます。縁(ふち)は縁(えん)、さらには縁(よすが)。ど真ん中ではなく、ふちにいることで、他者やよそ者と出会ったり交わりが生まれるかもしれません。わくわくするイメージです。

 鏡に近づくときのどきどき、鏡の前にいるときのわくわく、鏡を覗きこんだときのぞくぞく。これは「かがみ」という「さかい」で他者との出会いが起きるからではないでしょうか。でも、その他者は自分でもあるのです。


*わたし(ぼく)が二人いる

 主観と客観、主体と客体、個人と社会、自分と世間、自と他、部分と全体、無意識と意識――。いま挙げたペアの、前者が「わたし(ぼく)・自分」で、後者が「二人いる自分の片割れ・他者」だと言えば、分かりやすいかもしれません。後者が「二人いる自分の片割れ」であることがきわめて大切です。

「他者」と名づけ名指しているものの、自分なのです。人は他者にはなれません。なりきったり、演じたりすることはできます。ベースはあくまでも自分です。外にいる(ある)他者は、自分の中に映す・写すしかなく、移すことはできません。

 主観と客観、主体と客体、個人と社会、自分と世間、自と他、部分と全体、無意識と意識――という対立は、偽装=擬装された対立であり、「わたし(ぼく)が二人いる」の変奏=変装だと言えば分かりやすいかもしれません。念を押しますが、あくまでも意識や心においての話です。


*げん・Gen(うつせみのたわごと -10-)

 今回のテーマは、「ふえる・げん・Gen(※ドイツ語で「遺伝子」)」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる「Gen界」です。

 小さな命の単位が転写という仕組みでどんどん増えていく。転写しそこなう場合もある。死滅する単位もある。単位の集合体である生体は、単位を生殖や増殖という仕組みで、新たな生体を生み出していく。そうやって、写す、移る、増える、伝わる、渡す、という一連の動きが生起する。

 ヒトは、その生起を出来事としてではなく、物語としてとらえるしかない。その物語を生成するために必要なのは、分けるという作業だ。分けるのは、ヒトが小さいからにほかならない。自分より小さく分けて分かったとする。

 Gen界における、もうひとつの運動は、「交わす」。「ものを交わす」から、「価値を交わす」へとヒトは「交わす」を変化させた。価値という分けられず分からないものに、ヒトはもてあそばれ、振り回されている。それが経済である。


*鏡「面」画「面」顔「面」

 瞳と鏡で私が連想するのは、膜と面です。網膜、鏡面――。瞳や鏡を覗きこんだとき、見える姿は、膜や面に映った像・影なのでしょう。薄い膜と薄い面に映っているのですから、姿や像や影も薄いはずです。それなのに、奥行きや深さや遠さや隔たりを感じるのは、こしらえているからではないでしょうか。

 ありもしないもの、あってほしいもの、あると想像しているもの、あるにちがいないもの、あるはずのもの、なければ困るもの、そうしたものをこしらえている気がします。でっちあげるとか作るとか捏造するという言い方もできるでしょうが、とりあえず「こしらえる」にしておきます。


*げん・眼(うつせみのたわごと -11-)

 今回のテーマは、「め・げん・眼」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる眼界です。「見る」を「知覚する」という広い意味で取り、「見える=見る=見分ける=分かる=意識する=認識する」へとつながっていくさまを語っています。

「まだら・まばら」という言葉で、ヒトが「見間違う」「無視する」「見て見ぬ振りをする」こと、つまり知覚と認識の限界性とそのいかがわしさについても触れています。「見る・見える」には「見ない・見えない」も含めていいと思います。前者にくらべて後者は――前者と同じくらい頻繁に起きているにもかかわらず――不当に軽視されているからです。


薄いけど厚いというギャグは猫に通じるのか

 言の葉、舌、まぶた、耳たぶ、目の網膜、耳の鼓膜、紙、スクリーン、ネット・網、声、文字といったものたちを、ぺらぺらという言葉に掛ける形で遊んでみました。ぜんぶ薄いのに厚いのです。だからこそ、人は薄いものを利用して薄いものに見入っているし耳を傾けています。

 猫という言葉と猫という生き物はぜんぜん似ていませんが、言葉を使っている分には、似ていないという感覚はないと思います。「似ている」って不思議です。人は「似ている」を基本とする印象の世界に生きている気がしてなりません。

 猫を見ていると、この「似ている」世界とはまったく無縁の世界に住んでいるように見えます。世界がぺらぺらに満ち満ちている。薄いは厚いでもある。そんなギャグは猫には通じそうもありません。薄いものに熱中する人に対して、猫はひたすら邪魔をするだけ。私はそんな猫がうらやましくてたまりません。

 たぶん、猫という言葉と猫という生き物は似ているのです。いや、きっと同じなのです。人にとっては。 だから、「言葉と事物とは違うんだよ」なんて当り前のことを書いて、わざわざ念を押したフランス人がいたのでしょう。 猫はぺらぺらの言葉と立体で奥行きのある事物を混同してはいないもようです。


心が壊れないために何かに何かを見てしまう

 何かに何かを見る、見てしまう――。見慣れない何かに、自分の知っている(馴染みの)何かを見る。見たいもの(自分に都合のいいもの)を見る。見てしまう。どうして、見てしまうのでしょう。心が壊れないためにそうしているように私には思えてなりません。

 見知らぬ「何か」、初めて見る「何か」ほど不気味であったり、恐ろしいものはありません。名前がないからです。そこにドラマや物語がないからです。たとえ、それの名が「怪物」や「モンスター」であっても、名前がない「何か」よりはずっと不気味ではないし、怖くもありません。

 面(具象・そのもの)に立体(抽象・その向こうにあるもの)を見るとも言えます。人がのっぺらぼうな面――意味が不在である面(無意味な面ではなく)――に、顔や模様や奥行きや深さや遠近や背後を見てしまうのは、たぶん心が壊れないためなのです。


*Moves Like Jagger (連想でつなぐ)

 アーティスト――歌手や演奏家だけでなく小説家や作詞家や作曲家や美術作品の作家をふくむ広い意味での芸術家――が自分のスタイルを作りあげていく過程で、「他人を模倣する」(立場を変えれば「自分が模倣される」)だけでなく、「自分を模倣する」もあるのではないでしょうか。

 先行する他人のパフォーマンス(演技や演奏)や作品を模倣するだけでなく、過去の自分自身のパフォーマンスや作品を模倣するという意味です。自分自身の模倣の場合には更新とも言えるでしょう。絶え間ない自己更新をしていかなければならない(他人ではなく自分が相手=ライバルなのです)のが、広義のアーティストの宿命かもしれません。

 ミック・ジャガーがその moves=動き=振りを自分で作り出していったのか、先行する誰かの振りを真似たのか知りませんが、彼のパフォーマンスを映した数々の動画を見ていると、変容を重ねている動きが一つの身体から自然に出てきている、つねに試行錯誤=自己更新を重ねているようにも感じられます。


*自分に自分を似せていく(連想でつなぐ、引用の織物)

 他人に似ているとか、他人を真似るだけではなく、自分に似ているとか、自分を模倣するということがあります。詩、小説、造形芸術、演劇、イラスト、漫画、作曲、伝統芸能といったクリエイティブな活動にたずさわっている人の作品には、その作り手独自のスタイルや型があります。

 これはプロ・アマを問わず見られます。悪い言い方をすればワンパターンでありマンネリズムです。創作とは自分を真似ることではないかと思えるほどです。自分を真似る。自分に似せる。自分の似姿に自分を似せる。そうやって自分のスタイルや文体や作風ができていきます。


*げん・弦(うつせみのたわごと -12-)

 できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという試みをしています。

 今回のテーマは、「つる・つるされてゆらぐ・げん・弦」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる弦界です。ヒトが天から垂れた「つる・弦」または糸につかまって吊るされて、ぶらぶらゆらゆらしている。すべてを何ものかに任せている。弦界とは、そんなイメージです。

 この記事では、「任せる・負ける」という身ぶりが大きな役割を演じています。ヒトの力を超えた「何物か・何者か」の存在が前提になっているにもかかわらず、ヒトはそれを知り得ないという立場で話を進めています。ヒトの力を超えた「何物か・何者か」の威を借りる人たちを批判してもいます。


*「誤配」を避ける

 学生時代の話ですが、純文学をやるんだと意気込んでいる同じ学科の人から、純文学の定義を聞かされたことがありました。

・描写に徹する。

・観念的な語を使わない。たとえば、神、愛、心、魂、真理、真実、心理、(哲学的な意味での)存在。

・固有名詞、とくに著名人や名所の名前はできるだけ避ける。

・決まり文句と定型を退ける。

・比喩を使わない。

 たしかこんな観念的なことを熱っぽく語っていました。


*げん・減(うつせみのたわごと -13-)

 できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという試みをしています。

 今回のテーマは、「減る・足らない・げん・減」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる減界です。言葉の遊びを多用しながら、「減る・足りない・欠ける」と「増える・足りる」とが言葉では矛盾しても、言葉の枠外では矛盾しないことを、言葉たちに演じてもらっています。

 原理は単純です。ヒトは分ける。分けたものに名前を付ける=分かったことにする。名前が増える、つまり、名前が足りなくなる(ヒトの処理能力を超える)。

 要するに「事=言足りる」が「事=言足りない」となる。そうなると、訳=分けが分からなくなってくる。「分けた=分かった=知が増えた」とならず、「分けた=分かっていない=知が欠けている」ことの確認にしかならないという「わけ」です。


*つかった水を大河にかえす

 ジャンルにはなんらかの形で、人的なつながりと枠と伝統が付きものです。私はそうしたものが苦手です。自分の書いたものがなんらかの枠や集団や伝統につらなっていると考えるのがつらい気持ちがあります。窮屈なのです。書き方や内容に干渉されたくないという思いは強いほうだと思います。

 言葉をつかう以上、これまで言葉をつかってきた人たちとつながるのは当然です。そうしたつながりを否定するほどには分からず屋ではないつもりです。言葉は私が生まれたときに自分のまわりにすでにあったものであり、それを真似て学ぶことで習得してきたからです。

 言葉は借り物なのです。誰にとってもそうでしょう。借りたらお返しする。それでいいのではないでしょうか。でも、きれいにして返す必要はないと思います。よごれているのは、それが私の生きた証であり、私のつかった印でもあるからです。


*連想でつなぐ、壊れる

 崩壊――。崩れて壊れるのでしょうが、漢字で見るとずっと迫力があります。漢字は厳めしいのです。いかめしいのではく厳めしい。厳格、厳然、威厳。漢字は偉そうにも見えます。もったいぶっているのです。ゲンカク・genkaku、ゲンゼン・genzen、イゲン・igen。音読しても、厳めしいし怖くもあります。

「ないもの」を「ある」ように見せるのが漢字です。字面が厳めしい。強面なのです。私は「無」に「ある」を感じます。「無」には、「ない」にないものが有ります。「無」なんて書かれると「ある」を感じてしまうとか、「無」に「ある」がつまっている気がすると言えば、分かっていただけるでしょうか?


言葉は声と顔が命、意味は二の次

 人はまず〇△Xという言葉をつくり、次に「〇△Xとは何か?」とえんえんと思い悩む生き物である。

 言葉をなりたたせている音は聞こえ、文字は見えます。意味はどうでしょう。意味は見えません。というか、意味を見たことがありますか。意味は聞こえないし見えないから、刺身のつま状態にされているのです。人は見えないものや聞こえないものを冷遇します。苦手だからです。業を煮やしているのです。

 人は意味を冷遇する一方で礼遇もします。見えないし聞こえないけど、言葉は意味なしで成立しないし、だいいち使えないからに他なりません。しぶしぶ「お意味さま」を礼遇し、「お意味さま」の確認をするわけですが、その作業の集大成が、辞書や法典や経典や聖典や法則や公式だったりします。

 とはいえ、これらは全部が文字です。目に見えます。音読すれば聞こえます。要するに、意味は見えないし聞こえないという現実は変わっていないのです。

 見えない、聞こえない、手で触れることができないもの――意味のことです――を固定することができますか? 文字という形で記して固定(複製・拡散・保存)したところで、それは意味を固定したことにはなりません。言葉に言葉を重ねただけ、文字に文字を重ねただけです。意味が見えないことへの根本的な解決策ではありません。

 もしそうであるのなら、みんなで考えてみませんか。難しい問題だからと、機械に委託するのではなく。


*げん・絃(うつせみのたわごと -14-)(全14回)

 できるだけ大和言葉系の語をもちいて、平仮名づくしで書こうという連載の最終回です。今回は「糸・伝わる・伝える・げん・絃」という言葉とイメージをもとに世界をとらえる絃界です。

 「伝わる・伝える」という動き、「伝わる・伝える」を仲介する媒体、「伝わる・伝える」の対象をめぐる、さまざまな言葉たちを次々と「ずらす」ことにより、その言葉たちの表情・身ぶり・目くばせを読者に体感してもらおうとしています。

 糸とその縦横の運動から成る織物と、紙と記された言葉たちの縦横の運動から成るテクスト=テキストのつながりにも触れています。「伝わる・伝える」の究極的な対象となる「揺れ・揺らぎ」について考察していますが、尻切れトンボに終わっています。再度、考えてみたいテーマです。不可解なテーマです。


*What do you mean?

 ジャスティン・ビーバーの歌った「What Do You Mean?」の歌詞は、言葉の意味にコンセンサスがない、早い話が言葉には意味がない、つまり言葉の意味は後付けで何にでもなるという、意味の本質を突いていると考えられます。

 What do you mean? であって、What does it mean? ではないところが味噌です。言葉ではなく、人が主語です。意味は「言葉にある」のではなく、その時々の自分の都合で「人が作る」とか「人が決める」という意味ですね。

 もっとも、What do you mean? は「何て言いたいの?」という語感なのですが、意味の本質を突いていると私は思います。要するに、意味とは「何を言いたいか」だとも言えそうです。言葉は文字どおりとか額面どおりに使われないのが普通だからです。

「それはどういう意味ですか?」、「意味が不明なんですけど」、「それに意味ってあります?」――このように日本語で「意味」という言葉を使うと角が立ちます。日本語の意味には意味以上の意味がありそうです。

 詳しく言うと、たとえば「人生の意味」と「人生という言葉の意味」では意味が違いますが、そんな二つの意味の違いや両者の衝突も角を立たせる原因だと思います。意味とは、ある意味で特定の言語のローカルな問題なのです。


*連想でつなぐ、つぎつぎ

 人の作るもので線状であったり面状であったりするものがいかに多いことか。ストーリー(言葉)、メロディー(音声)、パターン(模様・映像)。そこにはモチーフ(動機)とテーマ(主題)とデザイン(構想)があります。広義の物語です。でたらめに進んだり広がるのではありません。

 ところで、線と面の両方の要素と性質を兼ねそなえたものが「網・編み・ネット・ウェブ」なのではないでしょうか。そうであれば、最強最大最長の「のびる」であり「ひろがる」です。

 ストーリー(言葉)、メロディー(音声)、パターン(模様・映像)、何でも乗せる・載せることができます。そこで保存され蓄積し蠢いているのですから、巣・窠・棲・栖でしょう。


*出たものは「静止」してはいない

 いったん「出た」ものは、何らかの運動に誘発されます。いったん「出た」給料も、給付金も、うんちも、保険金も、太陽も、月も、声も、にきびも、幽霊も、新刊書も、選挙候補者も、ドラマの役者も、家出したお父さんやお母さんやお子さんも、火も、くいも、そのまま静止し続けることはありません。

 いったん「あらわれた」ものは「出た」ものとは異なり、静止したまましつこく居座ることも、往々にしてありそう。真価、効果、正体、正義の味方、英雄、悪の権化、○○の神様、救世主、影響、才能、成果、結果などです。影響や結果や効果みたいに「出る」とも言うものは概して「不安定」な気がします。


*あらわれるのです。

 出あってしまった。出あってしまうだろう。出あってしまうかもしれない。そんなことがあります。人をやっている以上は、あります。何かに何かを見る。これって、人である限り仕方がないみたいです。正々堂々と出あってしまえばいいのです。

 出会ってしまったときの不安を薄めるための、おまじないの言葉があります。それは「あらわれる」です。「〇〇が出る・出た」、「○○が見える・ 見えた」の代わりに「○○があらわれる・あらわれた」と、するだけでいいのです。

 「見える・見えた」が自分の責任なのかどうかは、誰にも分からないと思いますが、とにかく責任を転嫁するのです。それだけで、だいぶ気が楽になります。それは「出た」のでも「見えた」のでもなく、「あらわれた」のです。


*石の意味

 「石の意味」というフレーズを眺めているといろいろな思いが浮かびます。ああでもないこうでもない、ああだこうだ。そのうちに収拾がつかなくなります。要するに、文脈で「石の意味」が決まるということです。そう考えると「石というもの」が深くミステリアスで意味ありげに思えてきます。

 同時に「意味というもの」もミステリアスで意味ありげ感じられていきます。大切なのは、石そのものに意味はなく、石に人が「意味」や「意味ありげ」を見てしまうこと、そして石は見たり手で触れるけれど、石の「意味」も「意味ありげ」も見えないし手で触ることもできないということでしょう。


*a rolling stone

 言葉は出るものであり、意味はあらわれるものだと思います。出た言葉に意味があらわれるのです。生(は)えてきた言の葉に色が浮かぶイメージ。意味は色なのでしょう。色は仮の姿であったり、まぼろしなのだという気がします。

 色はそれだけでは「いる」ことも「ある」こともできないから、いたりあったりするものに浮かぶ。その意味で、意味があらわれるのは言葉にだけではなく、森羅万象にあらわれるのです。その意味で、意味は宿を借りる生きものなのかもしれません。

 そう考えると、人が森羅万象の代わりに持ち歩く(ポータブルな)意味の居場所、それが言葉なのかもしれません。その言葉もまた、仮の宿であるはずです。


*宿を借りる生きもの

 いまや複製が主流になった言葉が残って増えつづけているわけですが、これは意味が残って増えつづけているとも言えるのではないでしょうか。言葉と意味の関係は、いろいろな見方でとらえることができるでしょう。

・意味は言葉の主(あるじ)であり、言葉は意味の僕(しもべ)である。

・意味は言葉に寄生している。

・意味は言葉に宿っている。

・見えない聞こえない意味は、見えて聞こえる言葉にあらわれる。

・人に見えない聞こえない意味が、人に見えて聞こえる言葉に宿っているのは、言葉を媒体にして、視覚と聴覚に優れた人という生きものに寄生しているからだ。


*言葉はどこから来る

 いまこの文章を書いているさなかの私は「まだ言葉ではないもの」と、パソコンのディスプレイ上に浮かんでいる「書いた言葉」のあいだで、さまよっている気がします。

 パソコンに向かっているいまの自分を観察していると、「まだ言葉ではないもの」とは、言葉の断片であったり(文字のようなもの、音声のようなもの、表情や身振りのようなもの)、言葉の断片にまではいかない曖昧なものであったり、断片的な模様や風景(視覚的なイメージ)であったりします。

 文字を入力し、その結果がディスプレイ上に「あらわれた」時点の自分を観察すると、内なる文字なり声がほぼ完成していると感じる場合――「まだ言葉ではないもの」が文章になったという達成感――と、まったく文字や声を意識していない場合――なぜか書けてしまったという「あれよあれよ」感――があります。


*色のない景色

「景色から色が消える。」という、フォロワーのゼロの紙さんの言葉を読んだとき、「色」とは意味なのではないかと思いました。世界は見えている、おそらくはっきり見えている。それなのに色がない、色が感じられないとすれば、それは世界から意味が消えているのではないでしょうか。

「景色から色が消える。」を文字どおりに取ってみましょう。「景色」という文字列から「色」という文字を消してみます。すると「景」が残ります。

「景」は「かげ」とも読めます。影と同じく「姿・形」という意味があります。「目に映るもの」とも言えるでしょう。ゼロさんの文章では「世界」です。意味の欠けた世界なのです。「景色から色が消える。」というゼロさんの言葉は、きわめて危うい心境を感覚的かつ簡潔に言いあらわしていると思います。


*意味の意味を広げる

 意味は言葉とセットになっていると考えられていますが、固定を指向する言葉――文字・印刷・複製、録音、録画――と異なり、意味は動きであり、形や姿が明確ではなく、つねに「うつろいつづけている」と考えられます。

 共同体や集団で共有される(固定を指向する)ものだけが意味ではないのです。だから、言葉の意味をめぐっての擦った揉んだが絶えないと言えますが、これは悪いことばかりではありません。

 言葉の意味は、ある時代のある時期の特定の集団や個人の辻褄合わせのためにあるのではないのです。ローカルでプラベートなものとして、意味はつねに個人である人びとの中で「生きつづけている」。これが言葉の意味の原点であるにちがいありません。


*意味に意味を重ねる

 意味は意味ありげですが、「意味ありげ」では、「意味」ではなく「ありげ」に意味があるのです。「ありげ」が命であり、「意味」は刺身のつまという意味です。意味とは「ありげ」――「有りげ」の語義は「ありそうなさま」だそうです(広辞苑)――だと言えば分かりやすいかもしれません。大切なのでくり返します。「意味ありげ」の「意味」は刺身のつまです。「意味」はころころ変わりますが、「ありげ」はしつこく居続けます。

 たぶん、「ありげ」は仕組みなのです。どうにもならない仕組みであり仕掛けです。


*This Masquerade

 意味という言葉には、「言いたいこと・意図」と「大切さ・意義」の二つの語義(意味)があると単純に考えましょう。意味という言葉を使うと角が立つことがありますが、それはこの二つの意味がからみあってそうなっている場合が多い気がします。

A:「それ、どういう意味?」、「何が言いたいの?」

 この二つは言い方次第で角が立ちます。言われたほうは、むっとするでしょう。

B:「その意味については、いろいろ考えているのですけど」、「おっしゃったこと(お言葉)について、ずっと考えております」

 丁寧に言うことでいくぶん柔らかく響きそうですが、Bの例では、「言いたいこと・意図」を「大切さ・意義(価値)」へと移していることに注目してください。「言いたいこと・意図」が「ずっと(いろいろ)考える」行為によって「大切なこと・意義」に変わるというマジック(レトリック)です。


そっくりなのは、そっくりにつくってあるから

 ヒトは世界や森羅万象に似ていたり、そっくりな「影」(映したり写したもの)を自分でつくって、「そっくり」を楽しむ快楽を覚えました。現物や実物や「そのもの」にたどりつけない代償でしょう。

「移る・移す」(移動する・させる)ことができないから、その代わりに「映す・映る」と「写す・写る」で済ますという仕掛け(機械)=仕組み(システム)=手品(錯覚製造装置)をつくったのです。

 絵、文字、印刷、電話、映画、動画、インターネット、要するに複製(「似ている」と「そっくり」)とその拡散のことです。


*人が「決める」、「決まる」は「あらわれる」

「決める」は人為、「決まる」は人の領域ではない。そんな気がします。「決める」は人為とは、人が決めるという意味です。「決まる」が人の領域ではないとは、ややこしいですね。言い換えてみましょう。非人称的とか、ニュートラルが近い気がします。

「人の領域ではない」を「神や超越者のすること」としても大差はないと思います。「「〇〇だ」と私が決めたのだ」なんていけしゃあしゃあと口にできる人は、失うものが何もない人か、最高権力者(きどりでもいいです)のどちらかでしょう。人を超えたものに対する気兼ねも畏敬の念もないわけですから。


*「何か」に「何か」を当ててみる

 かた、形、型――。 たとえば、「かた」という音に、「形」や「型」という文字を当てる。なるほど…。一瞬「当たった」つまり「つながった」という感じがします。しっくりするし、「その通りだ」と得心してしまうのです。でも、「つながった」のでしょうか。「つながり」なのでしょうか。

「何か」に「何か」を当てる――。この場合の前者と後者の「何か」は、そもそも「何か」に「何か」を当てた結果としての「何か」であることに気づきます。「かた」と「形・型」のことです。「つながった」のか、「当てた」結果として「つながっている」ように見えるだけなのか、その「つながり」加減が不明なのです。

 和語である「かた」も漢字・漢語である「形・型」も自明なものではなく、何に何を当てた(つなげた)のかが不明だという意味です。言葉の中に言葉があり、言語の中に言語があるために、こうした「当てる(つなげる)」行為ができるのですが、不明なものに不明なものを当てている(つなげている)と言えます。


*「かた」が「かたち」を「なす」さまが「あらわれる」

 かた、形、なり、形・態、形態、なす、成す、形を成す、形成。

 上の文字列を左から右に、そして右から左に読んでいくと、その展開にはっとします。わくわくするのです。

 おそらく「言葉ではないもの」に、音、文字、意味、イメージを交互に当てている気がします。それが「かた、かたち、形」になっていくのです。そのさまが上の文字列に「あらわれている」とか「起きている」ように見えるのかもしれません。

 和語の「かた」を漢字・漢語の「形」に当てる。「形」を和語の「なり」に当てる。「なり」を漢字・漢語の「形・態」に当てる。「形・態」をくっつけて、漢語の「形態」に当てる。「形態」を「なす」と読む。「なす」に「成す」を当てて、「形を成す」とずらす。それを「形成」と読む、ずらす、当てる。

 そんな感じです。


*人にあらわれて、機械にあらわれないもの

 形になる、形をなす。 形があらわれる――。

 機械は「形になる」と「形をなす」を文字どおりにとらえるのかもしれません。形は機械に対して「あらわれる」なんてことはないという意味です。

 どうやら、人にあらわれて、機械にあらわれないものがありそうです。 ところで、猫はどうなのでしょう。猫を観察していると、猫にあらわれて、人にはあらわれないものがありそうです。というか、人のギャグは猫に通じないのですが、猫のギャグも人に通じていない気がします。

 猫は猫の夢を見るのでしょうか。機械は機械の夢を見るのでしょうか。こんなたわごと(ギャグ)は猫にも機械も通じそうもありません。人にあらわれているだけでしょう。


*言葉ではないものをさぐる

 「形・姿・型・語る・固い・固まる」の「かた」も、「片言・片向く・傾く・片寄る・偏る・片方・夕方」の「かた」も、言葉ではないものとか、言葉にする前のものとか、言葉が消えかけたものと言ったほうがよさそうです。断片的で取り留めも取っ掛かりもないからです。

 それでいて、「かた」という二音と二文字に、なにか目や芽のようなものを感じるのは、それが言葉の欠片(かけら)であり、言葉の跡形(あとかた)だからでしょう。半端な形で言葉をひきずっているのです。気配をイメージすると分かりやすいかもしれません。言葉の気配という感じです。

「かた・形」と「かた・方」がそれぞれ、「言葉ではないもの」の気配を漂わせたり、「言葉にする前のもの」を引きずっていたり、「言葉が消えかけたもの」の跡を留めているとするなら、両方の要素や属性を備えているとか、どちらでもない要素や属性を帯びているとか、見方しだいで何にでも見えることがあっても、不思議ではない気がします。


*気になること

 大したことではないのかもしれませんが、ささいなことにこだわる性分なので、気になっていることがあります。

 大ごと、小ごとのことなのです。

 こう書けばなんでもないのですけど、大事、小言と書くと大ごとです。少なくとも私にとっては大きなことなのです。こういうことをわざわざ言いたても、いいことはこれっぽっちもないのです。ことさら言挙げをしてもいいことはない。

 ことあやまりとことあやまりも気にかかってなりません。

 言誤りと事誤りです。この二つは広辞苑では隣り合わせになっていて言のほうが先に載っています。はじめに言葉ありき。

 言誤りは、言いあやまり、言いそこない、事誤りは、事のまちがい、事のゆきちがい、過失、と広辞苑では言い換えてあります。いいかげんなものです。けちをつけているのではありません。殊のほか殊さら、いい加減なのです。


*不思議なこと

 こと・koto 。たった2音節の短い語でありながら、いろいろな語義があります。辞書では、短い語ほど長い解説がある。以前に、ここでも何度か触れたことです。そうした不思議なことについても、以下に書いてみるつもりです。あえて考えなければ、それまでのこと。いざ、考えてみると不可解。まことに、不思議なことなのです。


*人は一貫して呪術の時代に生きている(「不思議なこと」に挿入した書下ろしです)

 最近、AIや生成AIや、その生成したものに心や感情や魂があるとかないとかいう議論を見聞きしますが、あるに決まっています。そもそも自然にある森羅万象はもちろん(擬人のことです)、人が自分でつくった人形(ひとかた)や像や言の葉や文字(もんじ)に、心や感情や魂を込めたり読みこんできた人類は、太古から現在に至るまで一貫して呪術の時代に生きているからです。

 そんなふうにどっぷり呪術に浸かって生きていながら、何をいまさら心がないだの、感情が感じられないだの、機微が理解できないだの、魂がないなんて言えるのでしょうか。

 心も感情も魂も命も人が勝手に人以外のものに自分の都合で込めているのであって、森羅万象にも、人形にも像にも言の葉にもデジタル化された情報にも、AIや生成AIやその産物にも、罪はないのです。


名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しい

 名詞は、不自然で人工的です。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいのではないでしょうか。観念だからです。ないのです。だから、見えません。あるものないもの、見えるもの見えないもの見境なく「名づけた」結果なのです。その意味で、ひょっとすると名詞は不自然どころか反自然なのかもしれません。

 そもそも「名づける」とは、自然と向きあう人間が恐怖と不安を解消しようとして「手なずける」ためにおこなっている操作なのであり、人の心理的な動機から生じた処理法だとも言えるでしょう。人の都合で、代理である表象(言葉、イメージ、映像、象徴、記号など)をもちいて名づけている(手なずけている)にすぎません。

 言葉を持ってしまっただけでも大事件だったのに、人は文字まで持ってしまいました。無文字という選択肢もあったはずなのにです。話し言葉は消えますが、文字はしつこく居直り残ります。まるで名詞みたいじゃないですか。人は文字を手にして、さらに固定化を指向するようになった気がします。人類の言葉化、名詞化、文字化が進行しています。人は言葉に擬態しているのです。人のつくったものに人は似ていく。そんなふうに思えてなりません。


*本物「感」と本物「っぽさ」こそがリアリティ

 世界や森羅万象と無媒介的に触れあっているのではないため、本物には届きません。時間をさかのぼることはできないので、起源を知ることはできません。自分を納得させるためには、本物も起源も、言葉で「こしらえる」しかないわけです。

 本物感、本物っぽさ、本物のようなもの、起源感、起源っぽさ、起源のようなもので我慢するのです。それしか方法がないからです。このことを人は意識しないで知っています(たぶん学習した知識ではないでしょう)。意識するとがっくりきてやる気をなくすでしょう。生きる気力を失うかもしれません。

 大切なのは、本物「感」、本物「っぽさ」、本物「のようなもの」、起源「感」、起源「っぽさ」、起源「のようなもの」です。「感」、「っぽさ」、「のようなもの」という意味です。これこそが(つまりこれだけが)、人にとってのリアリティです。


岐路に立つ擬人

 擬人、人に擬する、人になぞらえる、人を当てる、人に似せる、人に当たる、人をなぞる、人に似る、人間っぽく振る舞う、人らしさを学習する、人間もどきを演じる、擬人の代理をする、人を装う、人になりすます、そのうち人になりきる――擬人の達人、擬人の代理人があらわれたのです。機械ですけど。

 人類は擬人のお株を奪われつつあるのです。擬人という人類のお家芸を死守しなければならないのですが、なかなか妙案が浮かばない。このままでは、軒を貸して母屋を取られる事態になりかねない。それを薄々感じはじめてしぶしぶ認めだした人類は、いまのところ妬み忌み嫌い憎み憤り怯える狼狽える馬鹿にする威張る拗ねるというきわめて人間的で人道的な(同族に対するのとそっくりな)リアクションに甘んじています。手をこまねいているのです。

 擬人と呪術は岐路に立っているのです。

 人ではないものが人に擬して擬人をする。このギャグの観客が人だけであることを人の端くれとして願わずにはいられません。


*【小説】幼なじみ

 午前中に映画を見終わり、児童たちは学校にもどりました。給食の時間が過ぎ、午後からは映画の感想をクラス内で話し合う特別授業になりました。

 いい映画だった。いろいろな動物たちが出てきて楽しかった。出てきたうちではお母さんライオンがいちばん好きだ。絵がきれいだった。動きが自然で感心した。意地悪な人間が出てきたのが嫌だった。なかには悪い動物もいたけど、やさしい動物がたくさんいて感動した。あんな世界で暮らしてみたい。

 クラスの児童たちの口からは、だいたい以上のような感想が出ました。ある子が挙手もせず着席したまま、こんなことを話し始めました。

「動物なんて一匹も出なかった。全部、人間みたいだった。だって―― 」

 教師はその子の発言をさえぎりました。


*もののあらわれ

 私にとって、「もののあらわれ」と、一字(一音)違いの「もののあわれ」とはかなり違っています。むしろ「もののけ・物の怪」に近いのです。

「物の怪」は、広辞苑では「死霊・生霊などが祟(たた)ること。また、その死霊・生霊。邪気。」と説明されています。恐ろしいですね。共同体に共有されているイメージの怖さを感じます。同時に、共有されたイメージには安心感も覚えます。「みんなのもの」だからです。

 一方、私の言う「もののあらわれ」は個人的なものです。ある意味孤立無援。自分にしか受けない孤独なギャグに似ています。この「もののあらわれ」みたいに。

 「もの」が何らかの意味とかメッセージとかイメージのようなものを持って目に「見えてくる」という感じ。音やにおいや感触や味として「あらわれる」のも有りです。あと気配も有りです。自分でつくった言い回しに「有り」だなんて、世話ないですよね。自分でもそう思います。