ツイート集(記事の紹介文)

 

 Twitterでツイートした記事の紹介文(抜粋・要約)です。タイトルが記事にリンクされています。

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 ネット上にはおびただしい数の人工知能作とされる物の複製があふれています。文書、映像、音声という形で存在しているのですが、どれもが複製であって現物とか実物ではありません。そうした複製たちに、そもそも現物や実物があるのかさえ不明に思えます。「名前のない怪物」

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 リアルであることに必ずしも実体は要らないのです。実物や本物も起源(原型・元祖・出典)も要りません。複製と引用とはそれ自体で完結した「リアル」なのです。「本物のない複製の複製、起源のない引用の引用」

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「夏目漱石の『吾輩は猫である』」と「ショパンの「幻想ポロネーズ」」と「アンリ・マティスの「帽子の女」」は、ふつう複製を読んだり、聞いたり、見たりして鑑賞します。本物や実物や実演ではなく、複製(要するに偽物であり似たものです)を鑑賞するのが、一般的な芸術鑑賞という意味です。

 とはいえ、小説と楽曲と絵画では、その偽物っぽさに濃淡があるように私には思えます。偽物にもいろいろあるという意味です。いかにも偽物っぽいものがあれば、そこそこ偽物っぽいものもあるし、なかには偽物だとまったく意識しない偽物もあります。「偽物っぽくない偽物」

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 文字は複製でしか存在できないと言っても言いすぎではない気がします。文字のオリジナル、つまり現物とか実物とか本物というのは、よく考えると、ナンセンスなのです。文字は複製であってなんぼという意味です。文字の複製や引用は、同じ、つまりほぼ同一になります。それが文字の抽象性なのです。

 抽象だから複製をしても偽物(似せたもの)どころか同じという理屈になります。「偽物っぽくない偽物」

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 人にとって基本は「似ている」であり、「異なる」は「同じ」や「同一」のように学習した知識であり情報なの、つまり教わったものなのです。

 見た目には「似ている」柴犬とキツネが動物という点では「同じ」でも「同じ」種類ではなくて、つまり「異なる」種類であり、一見して「似ていない」ドーベルマンとポメラニアンが「同じく」犬であって、キツネとは「異なる」のは、教わって知ったのです。

 その意味で知識や情報は抽象であり、体感でも印象でもありません。「抽象を体感する、体感を抽象する」

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「猫」という文字は猫に似ていますか? 「ねこ」と発音したときに出てくる音声は猫に似ていますか? ぜんぜん似ていませんよね。それに対し、「猫・ねこ」に似せて「つくった」影は、似ています。絵、写真、映画、ネット上の静止映像や動画は、ふつう猫に「そっくり」につくられています。

 複製、似せたもの、似たもの、偽物――お好きな言い方を選んでください。共通点は「別物」だということです。現物や実物ではないという意味です。「似ている」し「そっくり」なのは、そうつくってあるからです。「中に入ってきたときに、中で起きること」

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 ワープロ専用機に比べれば、いまのパソコンや各種端末の画面は大きく広いものになっています。かなりの数のセンテンスだけでなく、画像や動画の全体が表示されるという意味です。それはそうなんですけど、やっぱりもどかしさを感じます。

 スクロールとかスライドをしている、ひとさまの様子を観察していても、なんだか面倒くさそうだし、ときにはいらいらしているように見えます。贅沢を言ったら切りがないということでしょうか。

 それとも、そもそも人の認知機能や知覚機能や意識には枠、つまり限界や容量があるから、逆に大きすぎるディスプレイ画面ではてんてこ舞いするに決まっているから、そこそこの大きさの画面で相応ということなのでしょうか。「われ、まばらでまだらであるゆえに」

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 立つことも歩くこともできない人間の赤ちゃんは無防備で危険にさらされています。病気、事故、事件、犯罪、虐待、放置(ネグレクト)、飢え、渇き、戦争――こうした危機につねにさらされた赤ちゃんが世界中にたくさんいると聞きます。過酷で残酷な偶然性の世界に投げこまれているようなものです。

 その中で、赤ちゃんは賭けを余儀なくされていると言えば言いすぎでしょうか。一か八か、生か死かの賭けの中で、藻掻き、足掻き、呼び掛け、気を懸ける。掻き掛け懸け賭ける。これはおとなでも同じだと思います。「赤ちゃんのいる空間」

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 言葉はいじりやすいのです。一方で、思いはなかなか思いどおりになりません。現実はもっと思いどおりになりません。夢を忘れていました。夢もなかなか思いどおりになりません。夢で自由に動けたら、それは現実です。

 思い、現実、夢――どれもままならないのです。それにひきかえ、なんとでも言える言葉は、なんといじりやすいことか。だから人は言葉に嗜癖し依存します。この場合の言葉には、話し言葉と文字だけでなく、映像や楽曲も含まれます。「鏡、境、界」

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 目をつむると、とりとめのない模様や景色に置き換わった「何か」が浮かんでいます。それが何かなんて考えないでその光景に染まっていくと心が安らぎます。名づけられない「何か」にはそうした効用もあるようです。有り難いことに。

「何か」ではないもの――こう名づけた瞬間にもう「何か」なのかもしれませんが――と「何か」のあいだで、私はいま「何か」を、こうやって言葉とイメージに置き換え、手なずけ、飼いならそうとしているのでしょう。「夜になると「何か」を手なずけようとする」 

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 最近、AIや生成AIや、その生成したものに心や感情や魂があるとかないとかいう議論を見聞きしますが、あるに決まっています。

 自然にある森羅万象はもちろん(擬人化)、人が自分でつくった人形(ひとかた)や像や言の葉や文字(もんじ)に、心や魂を込めたり読みこんできた人類は、太古から現在に至るまで一貫して呪術の時代に生きているからです。「岐路に立つ擬人」 

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 人の作った線や帯や面や連続した面や流れや筋には、必ず枠――たとえばページやコマ(コマ送りのコマ)やコマ数や場面(シーン)や段落や章――と、始まりと終り(これも枠ですが)があるのではないでしょうか。「文字や文章や書物を眺める」

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 対義語が反対に見えるのは、そうした言葉のペアが反対語みたいに扱われているからであり、言葉で現実や思いや印象の辻褄合わせや帳尻合わせをしている気がします。

 言葉と現実と思いや印象は別物ですから、各要素が一対一に対応しているわけはありません。Aの辻褄合わせや帳尻合わせをAとは別のものでするのには無理がありそうです。「文字や文章や書物を眺める」

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 名詞は、不自然で人工的です。名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しいのではないでしょうか。観念だからです。ないのです。だから、見えません。「名詞に相当するものを自然界で見つけるのは難しい」

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 意味は見えません。辞書に載っているのは語義であり文字です。見ているのは文字であって、意味ではありません。というか、意味を見たことがありますか。「言葉は声と顔が命、意味は二の次」

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 人は見えないものや聞こえないものや手で触れられないものを冷遇します。苦手だから業を煮やしているのです。たとえば意味がそうです。冷遇する一方で礼遇もします。「言葉は声と顔が命、意味は二の次」

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 言葉をいじるのは簡単です。言葉を使えば何とでも言えるからです。事実、虚偽、推測、妄想、幻覚に関係なくです。たとえば「黒いカラスは白いサギだ」と言えます。最高権力者がそう言えばそう決まり、それが決まりになります。「黒いカラスは白いサギ」

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 いったん外に出た言葉は、なかなか自分の思いどおりになりません。誰の思いどおりにもなりません。最高権力者も、自分が発して外に出た言葉には手を焼きます。権力者にとって、一度発した言葉を撤回するのは死ぬほど恥ずかしい行為なのです。「黒いカラスは白いサギ」